学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

田渕句美子氏「藤原能茂と藤原秀茂」(その4)

2023-02-05 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

第一節に戻って「三 三浦氏との関わり」を見て行きます。(p109以下)

-------
 能茂の伝に関して、もうひとつ注意すべき事実がある。『吾妻鏡』宝治元年(一二四七)六月十四日の条に、次のような記事がある。

  十四日乙未、今度張本等之後家并嬰兒等、悉被尋出之、(中略)光村後家者、後鳥羽院北面
  医王左衛門尉能茂法師女、当世無双美人也、光村殊有愛念余執、最期之時、互取替小袖改着
  之、其余香相残之由、于今悲歎咽嗚云々、同有赤子、(中略)是等皆所令落飾也、(後略)

これは、いわゆる三浦合戦(宝治合戦)の記事であり、三浦一族の滅亡の後、一族の未亡人等が出家せしめられる部分である。三浦光村は、三浦義村の第三子で、泰村の弟にあたる。三浦駿河三郎ともいい、左衛門尉、河内守、能登守などを経て、寛元二年(一二四四)評定衆となったが、宝治元年(一二四七)、この三浦合戦で泰村と同様自害した(四十三歳)。和歌・琵琶・猿楽等をたしなみ、公経とも親しかったようである(『吾妻鏡』『明月記』)。
 宝治合戦は、北条氏が最後の一大勢力三浦一族を除こうとしたものであるが、その遠因としては、承久の乱時胤義が京都に味方し鎌倉追討に義村を誘ったこと、三浦氏が実朝暗殺の背後に関わったらしいこと、前将軍頼経と近い関係にあったこと等があげられる。特に光村は鶴ケ岡の稚児で公暁の弟子にあたり、公暁との関係が深かった。又、将軍頼経とは幼少から昵近して成長したので、頼経が都に送還される際供奉人として上洛し、その際、再び頼経を鎌倉へ迎えようと言ったという話が伝えられる(『吾妻鏡』ほか)。
-------

いったん、ここで切ります。
「公経とも親しかったようである」という表現が若干気になりますが、三浦光村(1205-47)と西園寺公経(1171-1244)では公経の方が三十四歳も年上です。
高橋秀樹氏の『北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)によれば、光村が「検非違使として在京していたときには、頼経の外祖父藤原公経から賀茂祭に着る華やかな装束を賜わったり(『民経記』天福元年四月二十三日条)、邸宅に招かれて歓待を受け(『明月記』同年五月二十六日条)」とのことですが(p166)、まあ、これは公経が三浦家の御曹司を丁重に扱った、ということなのでしょうね。

三浦光村(1205-47)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%85%89%E6%9D%91

また、「頼経が都に送還される際供奉人として上洛し、その際、再び頼経を鎌倉へ迎えようと言ったという話」は『吾妻鏡』寛元四年(1246)八月十二日条に、

-------
相摸右(左)近大夫將監自京都皈參。是入道大納言家御皈洛之間。所被供奉也。此外人々同還向。去月廿七日五更〔廿八日分也〕。經祗園大路。着御于六波羅若松殿。今月一日。供奉人等進發。而能登前司光村殘留于御簾之砌。數尅不退出。落涙千行。是思廿餘年昵近御餘波之故歟。其後。光村談人々。相搆今一度欲奉入鎌倉中云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma37-08.htm

と出てきます。
さて、続きです。(p110)

-------
 この光村が、どのようにして後鳥羽院と最も近しい能茂の女と婚したのか、その具体的経緯は不明であるが、前述の如く秀能は和田一族の出身であり、三浦氏・和田氏は同族であるから、その血縁によるものであろうか。『浅羽本系図』『佐野本系図』には子の駒王丸の注記として「母丹後局、後鳥羽上皇北面医王左衛門尉能茂女」とあるので、誰に仕えていたのかはわからないが、この能茂女は丹後局という女房であったらしい。光村は、寛喜三年(一二三一)、天福元年(一二三三)、嘉禎元年(一二三五)、寛元四年(一二四六)など、何度の上洛しているので(『吾妻鏡』『民経記』『明月記』ほか)、その折の縁かもしれない。能茂女の年齢からすると、承久の乱前後、おそらく乱の数年前位に誕生し、おおよそ仁治年間前後(一二四〇年頃)に結婚したかと想像されるので、能茂が隠岐に在る時か、或いは崩御後帰洛してからの頃に光村と結婚したかと思われる。
 いずれにせよ、このように秀能自身関東の有力武士の家系に属し、鎌倉の北条氏と親交を持ち、その猶子能茂の女子も、承久の乱後に鎌倉の三浦一族に嫁しており、単に秀能一人のみでなく、能茂もふくめた一族が、浅かれ深かれ、長く鎌倉と関わりを持っていたと想像される。
-------

「この光村が、どのようにして後鳥羽院と最も近しい能茂の女と婚したのか」のかは永遠の謎でしょうが、仮に能茂が慈光寺本『承久記』の作者であれば、能茂の娘も「持参金」ならぬ「持参本」として慈光寺本の写本を鎌倉に持って行き、光村に見せた可能性が生じます。
また、「秀能一人のみでなく、能茂もふくめた一族が、浅かれ深かれ、長く」三浦氏との関係が深いとすると、慈光寺本だけでなく流布本にも三浦氏関係の記事がやたらと多い理由として、流布本にも能茂周辺の、能茂とは政治的・思想的立場が異なる人の関与があった可能性が出てきます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田渕句美子氏「藤原能茂と藤原秀茂」(その3)

2023-02-05 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

「二 『尊卑分脈』の問題」に入ります。(p108以下)

-------
 ところで『尊卑分脈』注記には能茂について以下のように記されている。

  童名伊王丸、主馬首、左衛門尉、母弥平左衛門尉定清女、秀能猶子、実者行願寺別当法眼
  道提子、隠岐御所御共参、出家法名西蓮、

  後鳥羽院北面西面滝口武者所、
  後嵯峨院北面大宮女院中宮之時侍始参、左衛門尉、左〔兵〕衛尉、常磐井入道大相国家祗
  候侍所司也、
  文永五年七月十六日卒、歳六十四

このうち前半部の「出家法名西蓮」までは他史料により裏付けられるのであるが、そのあとやや空白をおいて記されている後半部分は、これが能茂に関する記述を裏付ける史料は他に全くない。院の崩御後の西蓮の生活が、後掲の諸書が示すように専ら院の菩提を弔い諸国を行脚するものであることを考えれば、その西蓮が還俗して再び北面となり、後嵯峨院や西園寺実氏に仕えたというのは考え難いことである。乱後の記録類にも能茂の名は全く見ることができない。又その卒年が「文永五年七月十六日卒、歳六十四」とあるのは、久保田淳氏が前掲論文で、文永五年は一二六八年であるから、『後鳥羽院宸記』建保二年(一二一四)四月二十五日条に医王(能茂)の妻が懐妊しているとある記事と矛盾し(この年十歳ということになる)、氏が「おそらく『尊卑分脈』の享年か没年に誤りが存するのであろう」と指摘する通り、能茂の享没年とは考えられない。以上のことから、この部分は享没年に誤りが存するだけでなく、この後半部分全てが他の人物の注記なのではないだろうか。とすれば、それは誰であろうか。結論を先に言えば、それは能茂の左横(国史大系本では次項)に記される、秀茂であろうと考えられる。秀茂については、また更に別の視点も交えて、第二節で考察することとしたい。
-------

以上の田渕氏の考察は正しいと私も考えますが、では能茂は実際には何年の生まれで、承久の乱の時点では何歳だったのか。
この点、「第二節 藤原秀茂とその子孫」を見ると、

-------
  第二節 藤原秀茂とその子孫

 秀茂は秀能の男で、勅撰集にニ十一首入集する歌人である。秀茂およびその子孫について考察を行いたい。

  一 閲歴

 秀茂については、久保田淳氏が言及するが、秀茂に関するまとまった論考は他に見当たらない。
 『尊卑分脈』では、秀茂の項には「式部丞、従五位下、母左衛門尉源彦教女、法名如念」と注されているのみである。しかし前節で述べたように、『尊卑分脈』において、次に示す良基の注記後半部分は、本来秀茂の注記であった可能性が高いと思われる。

  後鳥羽院北面西面滝口武者所、
  後嵯峨院北面大宮女院中宮之時侍始参、左衛門尉、左〔兵〕衛尉、常磐井入道大相国家祗
  候侍所司也、
  文永五年七月十六日卒、歳六十四

「後鳥羽院…」以下、もしくは「後嵯峨院…」以下を仮に秀茂のものと考え、その没年を秀茂のものとして試算すると、秀茂は元久二年(一二〇五)生、秀能が二十二歳の時の子で、承久の乱時に秀能は三十八歳、秀茂は十七歳、猶子能茂は二十代後半位と考えてさほど大きくはずれてはいないのではなかろうか。さすれば承元二年(一二〇八)に能茂が蹴鞠に出場した(『後鳥羽院宸記』同年四月十三日条)のが十代半ばということになり、前掲の建保二年(一二一四)には能茂が二十歳前後で、妻帯することも自然であり、嘉禎二年(一二三六)に行われた『遠島御歌合』に、能茂の子友茂が出詠しているのも、年齢的に辻褄が合うこととなる。【後略】
-------

とのことで(p115以下)、説得力のある考察ですね。
仮に能茂が建保二年(1214)に二十歳だとすると、生年は建久六年(1195)、後鳥羽院(1180-1239)との年齢差は十五歳となります。
なお、能茂を猶子とした藤原秀能については、『朝日歴史人物事典』に田渕氏の解説があります。

-------
没年:仁治1.5.21(1240.6.12)
生年:元暦1(1184)
鎌倉時代の歌人。「ひでとう」とも。河内守藤原秀宗の子。秀宗は和田一族庶流の出身か。初め源通親に仕え,16歳で後鳥羽院北面の武士となり,左衛門尉,検非違使尉などを歴任,武人として数々の功績を立てた。同時にその歌才を後鳥羽上皇に認められ,急速に歌人的成長を遂げ,院歌壇の常連となり多数の歌合に出詠。和歌所寄人に任ぜられ,『新古今集』に17首入集。うち12首が後鳥羽上皇により選入されたものである。が,承久の乱時,兄秀康,弟秀澄が院方の総大将として戦い敗死したのに対し,秀能の足跡はなく乱への参加は疑わしい。乱後出家,如願と号し,『遠島御歌合』や西園寺家の歌会などに出詠している。秀能は父母共に関東の有力御家人の家柄であり,秀能自身北条氏,三浦氏とも親密であった一方,後鳥羽上皇に近臣歌人として寵愛され,秀能は乱後も上皇を思慕し続けた。秀能およびその一族の人々の数奇な生涯は興味深い。家集『如願法師集』は,900首余を収める。<参考文献>田渕句美子「承久の乱後の藤原秀能とその一族」(『古典和歌論叢』)

https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E8%83%BD-15082

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする