第一節に戻って「三 三浦氏との関わり」を見て行きます。(p109以下)
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能茂の伝に関して、もうひとつ注意すべき事実がある。『吾妻鏡』宝治元年(一二四七)六月十四日の条に、次のような記事がある。
十四日乙未、今度張本等之後家并嬰兒等、悉被尋出之、(中略)光村後家者、後鳥羽院北面
医王左衛門尉能茂法師女、当世無双美人也、光村殊有愛念余執、最期之時、互取替小袖改着
之、其余香相残之由、于今悲歎咽嗚云々、同有赤子、(中略)是等皆所令落飾也、(後略)
これは、いわゆる三浦合戦(宝治合戦)の記事であり、三浦一族の滅亡の後、一族の未亡人等が出家せしめられる部分である。三浦光村は、三浦義村の第三子で、泰村の弟にあたる。三浦駿河三郎ともいい、左衛門尉、河内守、能登守などを経て、寛元二年(一二四四)評定衆となったが、宝治元年(一二四七)、この三浦合戦で泰村と同様自害した(四十三歳)。和歌・琵琶・猿楽等をたしなみ、公経とも親しかったようである(『吾妻鏡』『明月記』)。
宝治合戦は、北条氏が最後の一大勢力三浦一族を除こうとしたものであるが、その遠因としては、承久の乱時胤義が京都に味方し鎌倉追討に義村を誘ったこと、三浦氏が実朝暗殺の背後に関わったらしいこと、前将軍頼経と近い関係にあったこと等があげられる。特に光村は鶴ケ岡の稚児で公暁の弟子にあたり、公暁との関係が深かった。又、将軍頼経とは幼少から昵近して成長したので、頼経が都に送還される際供奉人として上洛し、その際、再び頼経を鎌倉へ迎えようと言ったという話が伝えられる(『吾妻鏡』ほか)。
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いったん、ここで切ります。
「公経とも親しかったようである」という表現が若干気になりますが、三浦光村(1205-47)と西園寺公経(1171-1244)では公経の方が三十四歳も年上です。
高橋秀樹氏の『北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)によれば、光村が「検非違使として在京していたときには、頼経の外祖父藤原公経から賀茂祭に着る華やかな装束を賜わったり(『民経記』天福元年四月二十三日条)、邸宅に招かれて歓待を受け(『明月記』同年五月二十六日条)」とのことですが(p166)、まあ、これは公経が三浦家の御曹司を丁重に扱った、ということなのでしょうね。
三浦光村(1205-47)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%85%89%E6%9D%91
また、「頼経が都に送還される際供奉人として上洛し、その際、再び頼経を鎌倉へ迎えようと言ったという話」は『吾妻鏡』寛元四年(1246)八月十二日条に、
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相摸右(左)近大夫將監自京都皈參。是入道大納言家御皈洛之間。所被供奉也。此外人々同還向。去月廿七日五更〔廿八日分也〕。經祗園大路。着御于六波羅若松殿。今月一日。供奉人等進發。而能登前司光村殘留于御簾之砌。數尅不退出。落涙千行。是思廿餘年昵近御餘波之故歟。其後。光村談人々。相搆今一度欲奉入鎌倉中云々。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma37-08.htm
と出てきます。
さて、続きです。(p110)
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この光村が、どのようにして後鳥羽院と最も近しい能茂の女と婚したのか、その具体的経緯は不明であるが、前述の如く秀能は和田一族の出身であり、三浦氏・和田氏は同族であるから、その血縁によるものであろうか。『浅羽本系図』『佐野本系図』には子の駒王丸の注記として「母丹後局、後鳥羽上皇北面医王左衛門尉能茂女」とあるので、誰に仕えていたのかはわからないが、この能茂女は丹後局という女房であったらしい。光村は、寛喜三年(一二三一)、天福元年(一二三三)、嘉禎元年(一二三五)、寛元四年(一二四六)など、何度の上洛しているので(『吾妻鏡』『民経記』『明月記』ほか)、その折の縁かもしれない。能茂女の年齢からすると、承久の乱前後、おそらく乱の数年前位に誕生し、おおよそ仁治年間前後(一二四〇年頃)に結婚したかと想像されるので、能茂が隠岐に在る時か、或いは崩御後帰洛してからの頃に光村と結婚したかと思われる。
いずれにせよ、このように秀能自身関東の有力武士の家系に属し、鎌倉の北条氏と親交を持ち、その猶子能茂の女子も、承久の乱後に鎌倉の三浦一族に嫁しており、単に秀能一人のみでなく、能茂もふくめた一族が、浅かれ深かれ、長く鎌倉と関わりを持っていたと想像される。
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「この光村が、どのようにして後鳥羽院と最も近しい能茂の女と婚したのか」のかは永遠の謎でしょうが、仮に能茂が慈光寺本『承久記』の作者であれば、能茂の娘も「持参金」ならぬ「持参本」として慈光寺本の写本を鎌倉に持って行き、光村に見せた可能性が生じます。
また、「秀能一人のみでなく、能茂もふくめた一族が、浅かれ深かれ、長く」三浦氏との関係が深いとすると、慈光寺本だけでなく流布本にも三浦氏関係の記事がやたらと多い理由として、流布本にも能茂周辺の、能茂とは政治的・思想的立場が異なる人の関与があった可能性が出てきます。