投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 2月 2日(土)11時32分57秒
続きです。(p22以下)
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これにはまた、安斉庫治の問題が絡んでいた。一九四九年、中国人民解放軍は北京を平和裡に解放したが、その後徳田と野坂は党本部経済調査部代理部長・安斉庫治を特使として北京へ派遣した。彼は昔の東亜同文書院出身で、中国語が達者だった。彼は中共中連部に日共の"内部情報"を勝手に語った。「徳田は党報告もロクに書けない愚者、伊藤律はスパイ」などという内容で、宮本顕治と野坂を讃美したのが主な内容だった。中国在留の日本人も多くは「国際派」に傾いていたが、安斉に協力した人々、なかでも横川次郎ですら安斉の「飛ぶ鳥も落とす」(横川の話)越権行為と傲慢さに反発して徳田や岡田に告発した。前後三回、幹部・工作員全体会議で安斉の査問が行なわれた。しかし彼は明白に答えなかった。この査問は私の北京到着前であったが、徳田が私に語ったところでは、安斉は「聞き捨てならないことを耳にしたので、中連部に報告した」とのみ説明し、その内容を明らかにしなかったという。その内容のひとつは、恐らく戦争末期旧満洲国で投獄された満鉄調査部の発智善次郎が、検事から聞いた話だったろう。日本人検事はゾルゲ・尾崎を告発したのは伊藤律だと、とくとくと語ったとの噂が、在華日本人の間に広く流れていたからである。
徳田は中連部長・王稼祥に対し、安斉が中連部に話したすべての内容の報告を正式に求めた。しかし、「その必要なし」─これが徳田の要求に対する書面回答であった。徳田は激怒した。毛沢東との単独会見の時に直接話して解決すると言った。しかし徳田はその機会なくして世を去った。野坂と西沢は中連部に同調して事あるごとに安斉を庇った。日共機関の工作員は一律に中共中央委員並みの待遇を受けていたが、ただ安斉だけは、煙草代などが上積みされ、時には日本の家族へ送るドル紙幣も支給された。
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このあたりは伊藤律が獄中から生還しなかったら永遠に歴史の闇の中に消えて行った話でしょうね。
ま、ここも一般人にはチンプンカンブンの内容なので渡部富哉の注記を引用しておきます。
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◆安斉庫治(一九〇五~一九九三) 満鉄本渓湖事務所の見習いとなり、東亜同文書院に入り中国共産主義青年団に加入、王学文、尾崎秀実の指導をうける。三二年逮捕、三七年八月出獄、三九年蒙古の満鉄包頭〔パオトオ〕調査事務所に入り、蒙古の古文書調査にたずさわり政府顧問となる一方で、関東軍に作戦を提言。ゾルゲ事件で検挙されたが釈放、四二年満鉄事件で検挙されるも直ちに釈放されるなど不可解な点がある。戦後「労農通信」編集局長、日共調査部員、五〇年一月出国して北京に密航、北京機関での活動が評価され五八年第七回大会で中央委員、第八回大会で幹部会委員候補となる。のち脱党。
◆横川次郎 宇都宮高等農林教授。満鉄事件に連座して敗戦を迎え、北京の日共在外代表部の成立と同時に夫人とともにその活動に参加した。横川と伊藤は戦前に農業問題の研究者として顔見知りの間柄であった。
◆発智善次郎 満鉄本社調査局総務課勤務。関東軍憲兵隊がデッチあげた満鉄事件に連座し、四三年七月検挙され、四四年二月奉天第二監獄にて発疹チブスにより獄死した。
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渡部は横川次郎の生没年を明記していませんが、少し検索してみたところ、経志江氏の「大連日語専科学校の研究」(日本経済大学アジアパシフィック経済研究所『日本経大論集』44巻2号、2015)という論文(PDF)に、横川次郎の妻・辰子の経歴に付随する形で横川の経歴も載っていて、それによると横川は1901年生まれ、89年北京で死去だそうですね。
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14) 1908年に生まれ、学生時代は英文学を専攻、日本語雑誌『人民中国』と『人民画報』の日本語専門家。「横川辰子女史の葬儀」(小池晴子『中国に生きた外国人-不思議ホテル北京友誼賓館』径書房、2009年、115-121頁)、横川次郎『我歩過的崎嶇小路-横川次郎回憶録』(新世界出版社、1991年)によると、夫、横川次郎と1936年に旧満州に渡り、以後、中国で生活した。新中国が成立後の1961年、夫とともに外文局の「専家」として『人民中国』や『人民画報』の改稿に携わった。1999年5月9日、91歳で北京で亡くなった。横川次郎は、1901年福島県で生まれ。1924年に東京帝国大学法学部を卒業して宇都宮高等農林学校の教授となった。1936年に大連にわたり、満鉄調査部第1調査室の主査となった。戦後は中国東北地区の日本人民主連盟に参加した。新中国が成立してからは東北統計局、北京人民大学分校、四川省農業庁を経て1961年に夫人と一緒に日本語雑誌『人民中国』と『人民画報』の「専家」となった。山内一男「横川次郎氏の逝去を悼む」(『中国研究月報』495、中国研究所、1989年5月、41頁)によると、1989年4月12日、88歳で北京で亡くなった。
https://jue.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1422&item_no=1&page_id=4&block_id=80
また、発智善次郎と満鉄事件については、渡部の下記記事が参考になります。
尾崎秀実の関東軍司令部爆破計画」は実在したか (第三回)
http://chikyuza.net/archives/25080
続きです。(p22以下)
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これにはまた、安斉庫治の問題が絡んでいた。一九四九年、中国人民解放軍は北京を平和裡に解放したが、その後徳田と野坂は党本部経済調査部代理部長・安斉庫治を特使として北京へ派遣した。彼は昔の東亜同文書院出身で、中国語が達者だった。彼は中共中連部に日共の"内部情報"を勝手に語った。「徳田は党報告もロクに書けない愚者、伊藤律はスパイ」などという内容で、宮本顕治と野坂を讃美したのが主な内容だった。中国在留の日本人も多くは「国際派」に傾いていたが、安斉に協力した人々、なかでも横川次郎ですら安斉の「飛ぶ鳥も落とす」(横川の話)越権行為と傲慢さに反発して徳田や岡田に告発した。前後三回、幹部・工作員全体会議で安斉の査問が行なわれた。しかし彼は明白に答えなかった。この査問は私の北京到着前であったが、徳田が私に語ったところでは、安斉は「聞き捨てならないことを耳にしたので、中連部に報告した」とのみ説明し、その内容を明らかにしなかったという。その内容のひとつは、恐らく戦争末期旧満洲国で投獄された満鉄調査部の発智善次郎が、検事から聞いた話だったろう。日本人検事はゾルゲ・尾崎を告発したのは伊藤律だと、とくとくと語ったとの噂が、在華日本人の間に広く流れていたからである。
徳田は中連部長・王稼祥に対し、安斉が中連部に話したすべての内容の報告を正式に求めた。しかし、「その必要なし」─これが徳田の要求に対する書面回答であった。徳田は激怒した。毛沢東との単独会見の時に直接話して解決すると言った。しかし徳田はその機会なくして世を去った。野坂と西沢は中連部に同調して事あるごとに安斉を庇った。日共機関の工作員は一律に中共中央委員並みの待遇を受けていたが、ただ安斉だけは、煙草代などが上積みされ、時には日本の家族へ送るドル紙幣も支給された。
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このあたりは伊藤律が獄中から生還しなかったら永遠に歴史の闇の中に消えて行った話でしょうね。
ま、ここも一般人にはチンプンカンブンの内容なので渡部富哉の注記を引用しておきます。
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◆安斉庫治(一九〇五~一九九三) 満鉄本渓湖事務所の見習いとなり、東亜同文書院に入り中国共産主義青年団に加入、王学文、尾崎秀実の指導をうける。三二年逮捕、三七年八月出獄、三九年蒙古の満鉄包頭〔パオトオ〕調査事務所に入り、蒙古の古文書調査にたずさわり政府顧問となる一方で、関東軍に作戦を提言。ゾルゲ事件で検挙されたが釈放、四二年満鉄事件で検挙されるも直ちに釈放されるなど不可解な点がある。戦後「労農通信」編集局長、日共調査部員、五〇年一月出国して北京に密航、北京機関での活動が評価され五八年第七回大会で中央委員、第八回大会で幹部会委員候補となる。のち脱党。
◆横川次郎 宇都宮高等農林教授。満鉄事件に連座して敗戦を迎え、北京の日共在外代表部の成立と同時に夫人とともにその活動に参加した。横川と伊藤は戦前に農業問題の研究者として顔見知りの間柄であった。
◆発智善次郎 満鉄本社調査局総務課勤務。関東軍憲兵隊がデッチあげた満鉄事件に連座し、四三年七月検挙され、四四年二月奉天第二監獄にて発疹チブスにより獄死した。
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渡部は横川次郎の生没年を明記していませんが、少し検索してみたところ、経志江氏の「大連日語専科学校の研究」(日本経済大学アジアパシフィック経済研究所『日本経大論集』44巻2号、2015)という論文(PDF)に、横川次郎の妻・辰子の経歴に付随する形で横川の経歴も載っていて、それによると横川は1901年生まれ、89年北京で死去だそうですね。
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14) 1908年に生まれ、学生時代は英文学を専攻、日本語雑誌『人民中国』と『人民画報』の日本語専門家。「横川辰子女史の葬儀」(小池晴子『中国に生きた外国人-不思議ホテル北京友誼賓館』径書房、2009年、115-121頁)、横川次郎『我歩過的崎嶇小路-横川次郎回憶録』(新世界出版社、1991年)によると、夫、横川次郎と1936年に旧満州に渡り、以後、中国で生活した。新中国が成立後の1961年、夫とともに外文局の「専家」として『人民中国』や『人民画報』の改稿に携わった。1999年5月9日、91歳で北京で亡くなった。横川次郎は、1901年福島県で生まれ。1924年に東京帝国大学法学部を卒業して宇都宮高等農林学校の教授となった。1936年に大連にわたり、満鉄調査部第1調査室の主査となった。戦後は中国東北地区の日本人民主連盟に参加した。新中国が成立してからは東北統計局、北京人民大学分校、四川省農業庁を経て1961年に夫人と一緒に日本語雑誌『人民中国』と『人民画報』の「専家」となった。山内一男「横川次郎氏の逝去を悼む」(『中国研究月報』495、中国研究所、1989年5月、41頁)によると、1989年4月12日、88歳で北京で亡くなった。
https://jue.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1422&item_no=1&page_id=4&block_id=80
また、発智善次郎と満鉄事件については、渡部の下記記事が参考になります。
尾崎秀実の関東軍司令部爆破計画」は実在したか (第三回)
http://chikyuza.net/archives/25080
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