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「『増鏡』を読む会」、第10回は3月1日(土)、テーマは「二条天皇とは何者か」です。

市河寛斎

2010-06-29 | 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 6月29日(火)00時39分56秒

『公共圏の歴史的創造』には、普通の歴史書にはあまり出てこない人物が意外な場所にひょっこり現れますが、そんな人物の一人が市河寛斎です。
p274に次のように書かれています。

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 実は詩歌の世界においては、宋末元初の漢詩集『江湖風月集』(松坡宗憩編)が鎌倉末期から愛好されており、近世には俳諧の世界で『江湖』の名を冠する句集が作られるなど、「江湖」世界の伝統があったと見られる。なかでも注目されるのは、近世後期の儒学者で、漢詩革新運動の旗手となった市河寛斎である。天明七年(一七八七)、「昌平啓事」たることを辞職した市河は、七言律詩「矢倉新居作」の第三句で、
  江湖結社詩偏逸
と宣言して、「江湖詩社」を結社している。漢詩結社の呼称として「江湖」が用いられたのは、あるいは『江湖風月集』を参考にしたものと見ることもできよう。だが、市河が前年に発表した『北里歌』をはじめとして、詩社同人たちの間で詠じられたテーマについて、既往の研究が次のように位置づけていることは見逃せない。
  江湖詩社の若き詩人たちにとって遊里詞を詠ずることは、詩風革新における
  実作上の一つの試金石であったかのように思われる。
 この指摘に学ぶならば、ここに設定された「江湖」の眼差しが、遊女の交情の世界、すなわち「公界」渡世へと向けられていることは、「江湖」の《公共的》性格を示すものと言うべきであろう。
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私は近世の漢詩の世界など全くわかりませんが、それでも市河寛斎の名前を知っていたのは、この人が群馬県と縁があるからです。
「郷土の偉人」として、次のような感じで紹介されていますね。

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市河家は、南牧村大塩沢の出身であり、その生家は今も残っています。市河寛斎は、江戸へ出て昌平廣に入学し、学頭(今で言えば東大総長)までになっています。寛斎は、「寛斎摘草」、「全唐詩逸」三巻などの漢詩文を発行し、高い評価を受けています。

http://www.pref.gunma.jp/cts/PortalServlet;jsessionid=DEAAC8E178C4181E33C59C97A2768883?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=33047

もう少し詳しい記述をネットで探すと、立命館大学のサイト内の「唐詩と日本」に、次のように書かれています。

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中国における『全唐詩』の補訂は上述の如く、清末・民国の学者、劉師培の論文がその最初とされ、二〇世紀になって始めて論じられるようになった。清朝の統治が厳しかった時代には、勅編書に疑義を呈することが敬遠されたのであろう。こうした事情もあって『全唐詩』の補遺は、中国よりも我が国の学者が先んじた。江戸時代の学者、市河寛斎(延二年一七四九~文政三年一八二〇)がその人である。

寛斎は上州の人、本名を世寧、字を子静といい、中国人風に河世寧と修姓することがあった。彼は詩に長じ、「江湖詩社」の盟主となって天明から文政に及ぶ漢詩壇に重きをなしたが、また好古の癖を有して考証に秀でた。(中略)

市河斎は安永五年(一七七六)二八歳の時、江戸に出て林家の門人になり、天明三年(一七八三)より七年まで湯島聖堂(昌平黌、後の昌平坂学問所)の学頭に任ぜられたが、寛政二年(一七九〇)異学の禁により教授を辞し、翌年、富山藩儒になった。
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ただ、この書き方だと寛斎は28歳まで上州にいたように読めますが、これは変ですね。
確か江戸でずっと生活していて、ちょっとだけ田舎に引っ込み、28歳で再上京したものと記憶しています。
南牧村というのは長野県との県境のとんでもない田舎で、群馬のチベットと言っても過言でない、といったらちょっと過言かな、と思えるような場所です。
そういう大自然豊かなのんびりしたところで28歳まで暮らしたら、さすがに江戸で詩の革新運動の旗手となるのは無理でしょうね。

http://takachi.no-ip.com/cycletouring/2004/tso0411/tso04111.htm
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