第237回配信です。
一、『玉葉』建久二年十一月五日条の信西文書は偽文書か?
資料:棚橋光男氏「少納言入道信西─黒衣の宰相の書斎を覗く」〔2024-12-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f74366cc38f45aaae2d95d22c873861
資料:棚橋光男氏「少納言入道信西─黒衣の宰相の書斎を覗く」〔2024-12-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f74366cc38f45aaae2d95d22c873861
『玉葉』建久二年十一月五日条の信西文書に「この図を以て永く宝蓮華院に施入し了んぬ」とあるが、「宝蓮華院」はあまり聞かない寺院なので検索してみたところ、松下健二氏の「静賢の生涯」という論文に出会った。
資料:松下健二氏「静賢の生涯」〔2024-12-30〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/92a1210a1c055f1b2a4e767b8c227d72
松下氏
「信西死後、異能を強調するために捏造された偽文書とも考えられる」
「信西の死から歳月を経て現れた『長恨歌絵』は伝説化しつつあった故信西に仮託して作成された可能性があり、信西自筆という反古を額面通り受けとるわけにはいかない」
棚橋光男氏を始め、多くの歴史研究者が信西文書の文面を怪しんではいないので、同時代の古文書としては不自然ではなさそう。
問題はむしろ「此図為悟君心、予察信頼之乱、所画彰也」という九条兼実の解説・感想ではないか。
二、信西は平治の乱を予知したのか。
通説では信西は平治の乱の二十四日前に「信頼之乱」を予知していながら、何の対策も取らず、むざむざと殺されてしまったことになる。
合理的な説明は可能か。
桃崎有一郎氏の「オカルト理論」に納得できる人はいるのか。
資料:桃崎有一郎氏「残された謎①─信西はなぜ自殺したのか?」〔2024-12-29〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c80f4a87aa01c3479590f27a8fbfa4b4
資料:桃崎有一郎氏「相反する兼実の証言─信西は希有の洞察力の持ち主」〔2024-12-29〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1934dc8760b565013ce4b612ca54070a
平治の乱の勃発時の様子を伺うことが出来る史料は実質的に『愚管抄』のみ。
『愚管抄』によれば、信西は後白河院御所・三条殿にいた自分の妻(紀二位)や息子に警告することもなく、自分だけ逃げている。
本当に直前になって気づいたと考えるのが自然。
また、自分を殺害しようと狙っている者たちが襲うのは自邸であって、三条殿まで襲うとは思っていなかったのではないか。
資料:川合康氏「平治の乱の第一段階」〔2024-12-31〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f6e9fc3d913489d81280402fff984a5
資料:大隅和雄氏『愚管抄 全現代語訳』「信西の最期」〔2024-12-31〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/386ad2e790e7d8e2c044bfd90d1d2bb7
信西が自殺した状況を知るのは西光等の従者と美濃源氏・源光保のみ。
二条天皇の親衛隊的な存在である源光保は永暦元年(平治二、1160)六月に捕縛され、流罪・処刑されている。
源光保(?‐1160)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%85%89%E4%BF%9D
『愚管抄』の情報源は西光ではないか。
全くの作り話ではないにしても、相当の脚色がありそう。
三、『玉葉』建久二年十一月五日条の「君」は誰か?
棚橋光男氏は「この図、君心を悟らせんが為、予〔かね〕て信頼の乱を察し、画き彰はせるところなり」の「君心」に「(後白河)」とルビを振っている。(『後白河法皇』、p69)
しかし、二条天皇と考えるのが自然ではないか。
二条天皇であれば、兼実は平治の乱の主役が二条天皇だと知っていたことになる。
九条兼実は平治の乱の時点で十一歳。
平治の乱の「真相」を知っていてもおかしくはない年齢。
また、僅か二年の流罪の後、宮廷に復帰し、左大臣を長く勤めた大炊御門経宗とは仕事の上で接触が多く、後日、「真相」を教えてもらった可能性も十分ある。
というより、平治の乱の第一段階の首謀者が二条天皇であったことは周知の事実だったのではないか。
平治の乱の「真相」は、美女にトチ狂った、プライドだけは異常に高い莫迦息子(二条)と、政治家として無能で息子にも軽蔑されていた莫迦親父(後白河)の壮大な親子喧嘩。
みっともない出来事であるとともに、天皇が「治天の君」である父に対して起こしたクーデターであり、法的な説明が難しい「主上御謀叛」。
「信頼之乱」的な曖昧な表現で説明されることになり、時の経過とともに実態も分かりにくくなってしまったのではないか。
九条兼実(1155‐1207)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%85%BC%E5%AE%9F
大炊御門経宗(1119─89)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%B5%8C%E5%AE%97
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