学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

資料:松下健二氏「静賢の生涯」

2024-12-30 | 鈴木小太郎チャンネル2024
松下健二氏「静賢の生涯(上)」(『学習院高等科紀要』14号、2018)
https://glim-re.repo.nii.ac.jp/records/4562

-------
はじめに
一 出自と少年時代
二 配流まで
-------

p53
-------
 しかし、静賢の人物像を描き出すには、「黒衣の宰相」のような型にはまった政治家の顔だけでは不十分である。もうひとつの静賢の重要な側面は、後白河院の文化事業を主導する制作者・演出家としての顔である。そして、政治家としての顔と文化事業の制作者・演出家としての顔が不可分であるところに静賢という人物の真価がある。
 静賢は、虚構には現実を動かす力があるという信念を父信西から受け継いでいたのではないか。信西が、後白河に『長恨歌絵』を献上して藤原信頼への寵愛を諫めたという逸話は『玉葉』や『平治物語』にあって有名だが(4)、『伴大納言絵巻』や『彦火々出見尊絵巻』などの絵巻は静賢が政治的な意図をもって制作し、後白河に献上したものともいわれている(5)。また、信西が精力をかたむけて荒廃した大内裏の再建を果たしたことはよく知られているが、このとき再建された大内裏は、朝儀の際に正面の人々にだけ威容が現れるように計算された一種の舞台装置であった(6)。一方、静賢は、平治の乱後に後白河院の御所である法住寺殿の建設に深く関わることになるが、壮麗な法住寺殿の建築物もまた後白河院の権威を粉飾する舞台装置に他ならない。後白河院政の特徴として、しばしば蓮華王院宝蔵に代表されるような「文化の政治性」が取り沙汰されるが(7)、それは絵巻や今様を愛好した後白河院の人柄に起因している一方で、静賢が信西から継承した文化事業重視の姿勢にも発しているのである。
-------


-------
(4)ただし、この逸話は一概に史実とは認めがたい。藤原兼実は、建久二年(一一九二)【ママ】十一月五日、実見した「通憲法師自筆」の「一紙之反古」に感激してこの逸話を日記に書き記しているが、この「反古」が本当に信西の自筆であったのか疑いが残る。信西死後、異能を強調するために捏造された偽文書とも考えられる。
(5)永井注(2)前掲論文
(6)桃崎有一郎『平安京はいらなかった』(吉川弘文館、二〇一六年)
(7)棚橋光男「後白河院序説」(『後白河法皇』講談社学術文庫、二〇〇六年 初出一九九五年)
-------

松下健二氏「静賢の生涯(中)」(『学習院高等科紀要』17号、2019)
https://glim-re.repo.nii.ac.jp/records/4995

-------
三 法住寺殿の繁栄
四 文化事業との関係
五 鹿ケ谷事件の前後
-------

p61
-------
四 文化事業との関係

 御願寺領の管理とともに静賢は法住寺殿における文化事業の制作(製作)者としても力量を発揮した。平安末期の法住寺殿が、絢爛たる院政期文化の中心地であったことは論を俟たない。正倉院や平等院経堂に倣って建立された蓮華王院宝蔵には典籍・聖教・仏画・絵巻・楽器等あらゆる宝物が納められ、建春門院の最勝光院には後白河院と女院の蜜月を称える障子絵が常盤源二光長の手で描かれ、御所法住寺殿では童舞・闘鶏・呪師・散楽・相撲などの諸芸が、また三十人もの名手を集めた今様合わせや後白河院五十御賀が盛大に催された。この法住寺殿という場所は、爛熟期を迎えていた古代文化と胎動する中世文化の結節点に位置し、身分の枠を越えた雑多なエネルギーを吸収して文化史上でも稀な光彩を放っている。
 後白河院政期の文化への静賢の貢献は、蓮華王院宝蔵の管理と絵巻物の制作という二点において特筆すべきものがある。そして、その二つの活動は、どちらも信西の文化事業重視の方針を継承したものといえる。蓮華王院宝蔵における網羅的な典籍・美術品等の収蔵は、蔵書家の聞こえ高い藤原頼長と親交を結び、『通憲入道書目録』を作成して典籍の蒐集に注力したと伝えられる信西の衣鉢を継いだものであり、「後三年合戦絵」等の絵巻物の制作は、後白河に『長恨歌絵』を進上して信頼への過信を諌めたとされる信西の行動に倣ったものと静賢は意識していただろう(36)。
-------


-------
(36)「静賢の生涯(上)」注(4)でも述べたが、信西が『長恨歌絵』を後白河院に献じたことは『玉葉』や『平治物語』上にあって有名であるが、これは一概に生前の信西の事績としては認め難いように思う。藤原兼実は、『玉葉』治承三年(一一七九)九月四日・六日条で高倉天皇から「玄宗皇帝絵六巻」を借り受けたことを記しており、建久二年(一一九一)十一月五日条で、その「長恨歌絵」に添えられていた「通憲法師自筆」の「一枚之反古」を思い出して、「末代之才子、誰比信西哉」という感想を述べるとともに、その反古を転写して「後代聖帝明王」の政道を正すために絵巻を作成したという信西の意図を伝えている。信西の死から歳月を経て現れた『長恨歌絵』は伝説化しつつあった故信西に仮託して作成された可能性があり、信西自筆という反古を額面通り受けとるわけにはいかない。なお、兼実が転写した反古の文面では、信西は平治元年(一一五九)十一月十五日に『長恨歌絵』を「宝蓮華院」に施入したとされているが、この「宝蓮華院」は存在がたしかめられない。信西死後に創建した蓮華王院と混同したとは考え難く、混同するとしたら静賢が執行を務めた宝荘厳院か、白河の蓮花蔵院であろうか(宝荘厳院・蓮華蔵院については、杉山信三「白河御堂」『院家建築の研究』吉川弘文館、一九八一年初出一九五四年を参照)。ただ、『長秋記』天承元年(一一三一)八月二十五日条によれば、白河泉殿内の二つの阿弥陀堂と鳥羽殿内の一つの阿弥陀堂の院号を定める際に、蓮花蔵院・浄菩提院・浄金剛院・宝荘厳院など九つの候補名を記した注文が記主の源師時のもとに寄せられており、その中に「法蓮華院」の名がみえる。このとき「法蓮華院」は採用されなかったのだが、挙げられた九つの候補には後に別の御願寺の院号に採用されたものも多く、あるいは信西存命中に法(宝)蓮華院という御願寺が存在していたのかもしれない。
-------
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 0236 桃崎説を超えて(その... | トップ | 資料:大隅和雄氏『愚管抄 ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

鈴木小太郎チャンネル2024」カテゴリの最新記事