学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

資料:川合康氏「平治の乱の第一段階」

2024-12-31 | 鈴木小太郎チャンネル2024
川合康氏『源頼朝 すでに朝の大将軍たるなり』(ミネルヴァ書房、2021)
https://www.minervashobo.co.jp/book/b575019.html

p78以下
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平治の乱の第一段階

 その反信西勢力の中心となったのは、後白河院の寵愛を受けて正三位権中納言、右衛門督に急速に昇進した藤原信頼と、保元の乱で後白河方の第一陣として軍功をあげた源義朝であった。しかし、信西政権の打倒に立ち上がったのは、何も後白河側近の信頼・義朝だけではない。二条天皇の外戚であった権大納言藤原経宗や天皇の乳母子にあたる参議藤原惟方も首謀者の一員であったし、また、武士も義朝だけでなく、有力な京武者であった国房流美濃源氏の源光保・光基や重宗流美濃源氏の源重成、河内坂戸源氏の源季実らもこれに加わった。信西を打倒する平治の乱の第一段階は、このように広範な貴族・武士が連携して引き起こしたものであり、後白河・二条のどちらの派閥とも距離を置いていた平清盛は、こうした信西打倒の動きを知らぬまま、平治元年(一一五九)十二月四日に熊野参詣に出発したのである(元木 二〇〇四)。清盛の一行は、次男基盛・三男宗盛と家人十五人ほどであったという(『愚管抄』巻第五「二条」)。
 平治元年十二月九日の夜、藤原信頼と源義朝らの軍勢が、信西が子息とともに伺候していた院御所の三条東殿を急襲した。襲撃を察知した信西はかろうじて逃げ出したが、院御所に同宿していた後白河院とその姉上西門院は、源重成・光基・季実ら京武者の軍勢に護衛されて大内の一本御書所(貴重書を書写・保管する宮中の書庫)に移され、三条東殿には火が放たれた(『百錬抄』同日条、『愚管抄』巻第五「二条」)。この日、二条天皇は大内にいたから、天皇・院はともに大内で信頼・義朝らの監視下に置かれることになった。翌十日には、信西の子息である参議俊憲や権右中弁貞憲らが解官され、十四日に行われた臨時除目では、前章でも述べたように義朝が播磨守に、そして義朝から嫡男と認定された頼朝が従五位下右兵衛佐に任じられた。
 一方、左衛門尉師光(法名西光)ら数人の従者とともに逃走した信西は、慈円の『愚管抄』によれば、山城国田原荘(京都府宇治田原町)の土の中に穴を掘って潜んでいたところを、源光保の軍勢に発見され、自害したと伝えられる(巻第五「二条」)。信西の首が京に運ばれ、大路渡が行われて西獄門の前の木に首が懸けられたのは、十二月十七日のことであった(『百錬抄』同日条)。なお、熊野詣のために京を留守にしていた平清盛が、政変を知って途中の紀伊国田辺から引き返し、同国の有力武士湯浅宗重が提供した三十七騎の加勢を得て無事に帰京を果たしたのも、同じ十七日のことであった(『愚管抄』巻第五「二条」)。
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