学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

0235 桃崎説を超えて(その1)─「二代后」問題の発生時期

2024-12-28 | 鈴木小太郎チャンネル2024
第235回配信です。


一、前回配信の補足

0234 頼まれもしないのに桃崎有一郎氏の弁護を少ししてみる。(その4)〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7fab6c6be790cc92503632ecc9731075

「二条天皇黒幕説」は桃崎氏自身が用いている表現。
しかし、律令法の大系において、天皇は究極の正統性(正当性)の根拠。
→建前としては無謬であり、黒くはなれない存在。

あえて言うならば「二条天皇白幕説」が妥当。
信頼・義朝は山賊・海賊の類ではない。
十二月九日の後白河院御所・三条殿襲撃事件の時点において、信頼・義朝は二条天皇を(監禁していたか否かはともかくとして)身近に確保していた。
そして十四日に義朝・頼朝親子らに恩賞人事、二十二日に信西の息子12人に流刑宣告。
これらはいずれも(二条天皇が信頼・義朝に強要されたか否かはともかくとして)二条天皇の名前でなされた。
三条殿襲撃も、少なくとも形式的には二条天皇の「王命」に従った行動であることは明らかではないか。
問題はその「王命」が実質を伴ったか。
信頼・義朝によって強制された「王命」だったのか、それとも二条天皇の真意に基づく「王命」だったのか。


二、「二代の后」問題の発生時期

-------
平治元年(1159)
 11.15 信西が動乱を察知し『長恨歌絵』を王家宝蔵に納める。
 12.9  藤原信頼・源義朝らが後白河上皇の三条殿を襲撃。
 12.10 早朝、信西宅に放火。信西の息子らを解官。
 12.14 義朝・頼朝親子らに恩賞人事。
 12.17 信西の首を梟首。平清盛が熊野詣から六波羅亭へ戻る。
 12.18 清盛が婿の藤原信親を父信頼のもとへ護送。
 12.22 信西の息子12人に流刑宣告。
 12.25 未明、二条天皇が六波羅亭へ、後白河が仁和寺へ脱出。
 12.26 京都合戦。清盛が義朝を破る。
 12.27 信頼を斬首。
平治二年(永暦元年、1160)
 1.9  尾張から届いた義朝の首を梟首。
 1.21  義朝の子義平を梟首。
☆1.26  藤原多子、入内。
 2.9  義朝の子頼朝を逮捕
 2.20  大炊御門経宗・葉室惟方を逮捕。
 2.22  信西の子らを赦免し京都に召還。
 3.11  経宗・惟方・師仲と源頼朝・希義兄弟に流刑宣告。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a04c8647d7e26e37c6003e2bbbebf7fe

従来、『平家物語』は平治の乱の史料としては全く無視されていた。
河内祥輔氏は①『百錬抄』②『愚管抄』③『平治物語』という史料の優先順位をつけていた。

資料:古澤直人氏「第四章 平治の乱の構図理解をめぐって」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f889d2a74e3884a374ffc1e0f5913101

桃崎氏は『今鏡』を(あまり信頼できないとの留保付きで)加えているが、『平家物語』は無視。(p34)
しかし、『平家物語』の「二代后」エピソードは興味深い内容。

資料:『平家物語』巻第一「二代后」〔2024-12-26〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6998d04985f1ea7a2034bdf9faf3947a

「二代后」は極めて異例な出来事であり、そこに描かれた公家社会の人々の反応は自然。
入内は平治二年(1160)一月二十六日。
二条天皇が藤原多子を入内させたいと思い、人々の反発を買ったのは前年十二月九日の三条殿襲撃以前であろう。
そうだとすれば、信西が『長恨歌絵』を作らせた時期とぴったり重なる。

資料:棚橋光男氏「少納言入道信西─黒衣の宰相の書斎を覗く」〔2024-12-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f74366cc38f45aaae2d95d22c873861

信西は何のために『長恨歌絵』を作ったのか。
『平治物語』でも「信西、せめてのことに、大唐、安禄山がおごれるむかしを絵にかきて、院へまいらせたりけれども、げに思しめしたる御こともなかりけり」とある。

資料:『平治物語』「信頼・信西不快の事」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1199656886c30a33fc6572492b1fae3a

五十四歳の練達の政治家である信西が、臣下、それも僅か二十七歳の信頼の危険性を警告するために手間と費用をかけて『長恨歌絵』を製作するのは奇妙ではないか。
信頼の経歴・行動には安禄山を直接に連想させる要素はない。
皇帝が絶世の美女に執着し、国を危うくしたという状況は、むしろ「二代后」と重なる。
信西は「二代后」を止めさせるために、『長恨歌絵』を製作したのではないか。
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6 コメント

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Unknown (Unknown)
2024-12-28 17:58:24
拝聴しました。「二代后」を止めるために絵巻を作るなら、 『平家物語』が取り上げる則天武后の方が妥当な内容だと思いますが。
返信する
うーむ。 (鈴木小太郎)
2024-12-28 18:18:04
>Unknownさん
ちょっと理解できないのですが、白居易の『長恨歌』という極めて有名な作品があるから『長恨歌絵』を作りましょう、という話になったのでは。
則天武后にそのような作品がありますか。
また、則天武后は強烈な意志を持った人ですが、藤原多子はそうではありません。
形式的に「二代后」である点以外、共通する要素はないと思いますが。
返信する
Unknown (Unknown)
2024-12-28 19:38:55
> 鈴木小太郎 さんへ

お返事ありがとうございます。兼実の文章には「長恨歌絵」と見えますが、これはあくまで兼実の表現です。
信西の跋文には「今引数家之唐書及唐暦・唐紀・楊妃内伝、勘其行事、彰於画図」とあり、唐代史書や伝を参照したと書きながら、白居易の作品には触れていません。
『吉続記』文永7年8月22日条に見える「蓮花王院宝蔵玄宗絵」は、すでに指摘されているように信西製作の絵巻と考えられますが、「長恨歌絵」と書かないのが注意すべきところだと思います。
なので、文学作品の有無はさほど関係ないでしょう。
また、あくまで「二代后」という形を批判するわけですから、多子に則天武后のような個性があったかどうかも全く関係ないと思います。
年末年始の御配信、引き続き楽しみにいたしております。
返信する
「長恨歌」は常識では。 (鈴木小太郎)
2024-12-28 20:06:42
>Unknown さん
>唐代史書や伝を参照したと書きながら、白居易の作品には触れていません。

白居易の「長恨歌」は貴族社会の誰でも知っている常識ですから、わざわざ挙げる必要はないでしょうね。
また、参考にした全ての資料を事細かく列挙するというのも変な話で、「長恨歌」は「楊妃内伝」に類するものとして、当然に含意されているとも言えると思います。

>あくまで「二代后」という形を批判するわけですから

皇帝が美女に耽溺したために国が乱れた例を挙げて、そうならないようにお考えください、と諫言したと私は考えます。
「「二代后」という形」のみを批判する訳ではないですね。
返信する
Unknown (Unknown)
2024-12-29 03:26:21
>「長恨歌」は「楊妃内伝」に類するものとして、当然に含意されているとも言えると思います。

そうですか。
「楊妃内伝」は、『新唐書』か『旧唐書』の列伝第一后妃上、玄宗楊貴妃の条を指すのはないですか。
『白氏文集』の漢詩(「長恨歌」)が正史の伝に類するものとして含意されるとしたら、経史子集の区分は何のためにあるのでしょうね。

ではこれにて。
返信する
含意というか。 (鈴木小太郎)
2024-12-29 08:41:13
>Unknown さん
当然連想されるものというべきですかね。
まあ、信西の文章は自分の教養の豊かさをアピールする面もあって、誰でも知っているようなものは書かない、長恨歌は誰でも知っているからわざわざ書かない、ということで、その不在は簡単に説明できると思います。
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