学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

信濃丸史

2009-01-28 | 近現代史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2009年 1月28日(水)22時31分45秒  

蟹工船というのは大きいだけで安っぽい船というイメージがあったのですが、実際にはなかなか立派な船が多かったみたいですね。
ま、考えてみれば、船の中に小さな工場を造るのだから、しっかりした船でなければならなかったことは当然なんでしょうけど。
『文芸にあらわれた日本の近代』には、先に紹介した部分の直前に以下の記述があります。

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 『蟹工船』は「博愛丸事件」をモデルとしている。小説に現れる「博光丸」という船名も、明らかにこの博愛丸から取られている。モデルとされた博愛丸はスコットランドで建造され、1898年10月進水、同年12月竣工と同時に日本郵船に移籍された。日露戦争では日本初の病院船として活躍したが、1926年2月に長崎の林兼商店に売却され、蟹工船に改造される。それまで平時には上海航路に就航していた。「赤十字の精神」を体化した大型船が、「海のタコ部屋」「地獄船」と呼ばれる船へと変身したのである。
このように大型船が蟹工船に改造されるケースはかなりあったようだ。1903年9月に永井荷風をアメリカへと運び、1945年11月、大岡昇平をフィリピンのタクロバンから神戸まで載せた「信濃丸」もその例である。欧州航路用の予備船として建造された信濃丸は、実に数奇な一生を送っている。スコットランド・グラスゴーのD.W.Henderson.Co.で建造され、進水したのは1900年4月。信濃丸には日本海軍が開発した無線機が搭載されており、日露戦争の最終局面で日本海に向かう帝政ロシアのバルチック艦隊を発見し、この無線機で「敵の艦隊203地点に見ゆ、敵は東水道に向かうものの如し」と打電したことでもその名を歴史に残している(以下、『近代世界艦船事典』、読売新聞[1970]参照)。
 また孫文が1913年8月、日本に亡命する際、神戸上陸を果たしたのも信濃丸であり、『ゲゲゲの鬼太郎』の作者水木しげるを戦時中南方へと送ったのもこの信濃丸であった。戦後は大陸からの引揚げ船としても使用されている。しかし戦前には何度も転売された。1930年には日魯漁業株式会社(横浜)に売却されて蟹工船に改造され、太平洋漁業、日魯漁業株式会社(東京)へと、たびたび船主を変えている。最終的に解体のため売却されたのは、戦後引揚げ船としての役目を終えた1951年のことであった。
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水木しげるが乗った当時は、相当な老朽船になっていたそうです。
信濃丸が沈没していたら、鬼太郎も目玉親父もこの世に生まれなかった訳ですね。


>筆綾丸さん
>野島小太郎
恒太(つねた)→コウタ→コタロウかと思ったら、単に小太郎という名前が好きなだけみたいですね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

銀目停止令 2009/01/28(水) 20:14:58
小太郎さん
『ゲルマン紙幣一億円』の主人公は、野島小太郎という広島藩会計局の人です。
『命に値段つけます』も面白そうですね。

今日は、『金目銀目五万両』を読みました。
慶應四年(1868)の「銀目停止令」をめぐる悲喜劇ですが、素晴らしい作品ですね。
西国が自分たちの幣制(銀目)を否定して、被征服地の江戸の幣制(金目)で全国を
統一したということは、考えてみると、面白いことですね。
慶應四年(明治元年)、金目を停止し、銀目を奉じて、天皇が江戸に行幸する、という
ようなことは、経済的にはありえなかったのかどうか・・・それにしても、銀目停止と
いう過激な政策を立案したのは、一体、誰だったのだろう?

Akiさん
下の方で、私、はじめまして、などと寝惚けたことを書き、たいへん失礼しました。
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