学問空間

「『増鏡』を読む会」、第10回は3月1日(土)、テーマは「二条天皇とは何者か」です。

東京憲兵隊長・四方諒二(その2)

2016-10-12 | 岸信介と四方諒二
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月12日(水)09時52分30秒

「黙れ兵隊!」の場面は後で検討するとして、巻末の「登場人物のその後」での四方諒二の記述も引用しておきます。(p642以下)

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四方諒二(明治二十九年~昭和五十二年)

「東條の残党を掃蕩せよ」という声が聞えるなかでも、東條憲兵の中核であった四方は泰然としていた。
 東條辞職の旬日後、近衛の親友長尾欽也が自分に対する憲兵の悪感情を拭い去るために彼を招いた宴席では、酒に酔って「大谷句仏師を毒殺したのも、中野正剛を殺したのも自分だ。いまに重臣中の一人と岸を殺すから見ておれ」と放言し、御注進をうけた近衛をふるえあがらせた。
 この年十一月、四方は上海憲兵隊長に格下げされて東京を追われた。しかし、二十年春には中支派遣憲兵隊司令官の要職に返り咲き、少将に進級していた。
 敗戦によって彼は部下の憲兵百二十名とともに戦争犯罪人として捕われ、一時は死刑を噂されたものの、中国内戦の戦火が迫る中での裁判に無罪判決を得て放免され、帰国した。「いま帰ってくると、戦争中のことを糾弾している者たちから危害を加えられるのではないか」と、近親者が心配するなかでの帰国だった。
 四方は「敗戦とともに自分は終った」と口ぐせのように言い、「敗戦の責任をとって自決する」と言い張るのを家人が思い止まらせるのに苦労した。生甲斐を見失った彼はその後、収入を得るため一時、皮手袋製造会社に関係したぐらいで、それ以外は何もしなかった。人前に出ず、昔のことは口に出さず、旧憲兵が集まる憲友会の創設に発起人となるよう誘われて、もはやいっさい関わろうとはしなかった。「自分は亡き者だ」とする彼がただひとつ努めたのは、病に倒れるまでの三十年近く、毎月毎月絶対に欠かさなかった、命日の東條家訪問であった。
 「自分が病気になっても医者は呼ばずに放っておけ、死んだらそこらに捨てろ」という厳しい遺言に従って四方の葬儀は行われず、ただ、すべて一流を好んだ故人を偲び、特別最上等の火葬炉で荼毘に付されただけだった。
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ということで、東條英機に仕えた栄光の日々の思い出だけを胸に、ニヒルな世捨て人として戦後を過ごした人のようですね。
「大谷句仏師を毒殺したのも、中野正剛を殺したのも自分だ。いまに重臣中の一人と岸を殺すから見ておれ」は気になりますが、上下二段組みで15頁に亘って記されている参考文献一覧のどれを読めばこの話が出ているのかも分かりません。
なお、「大谷句仏師」とは東本願寺第二十三代法主の大谷光演のことですね。

大谷光演(1875-1943)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E6%BC%94
中野正剛(1886-1943)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%87%8E%E6%AD%A3%E5%89%9B
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