学問空間

「『増鏡』を読む会」、第10回は3月1日(土)、テーマは「二条天皇とは何者か」です。

東京憲兵隊長・四方諒二(その1)

2016-10-12 | 岸信介と四方諒二
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年10月12日(水)09時48分10秒

>ザゲィムプレィアさん
図書館で吉松安弘著『東條英機 暗殺の夏』の新潮文庫版(1989)を見つけてパラパラ眺めているのですが、著者は映画監督・脚本家であって、『東條英機 暗殺の夏』もあくまで小説ですね。
参考文献はそれなりに詳細で、著者の意図としては事実のみの再現を志したのでしょうが、引用と自身の推測・意見は区別されておらず、読者は映像を見るが如くに詳細な一つ一つの描写の史料的根拠を知ることはできません。

吉松安弘(1933-)

四方諒二(1896-1977)が最初に登場する昭和19年(1944)6月7日の場面を少し引用してみます。(p76以下)

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 夜九時、官邸日本間警備の憲兵たちが急に緊張してあわただしく動いた。間もなく、日本間玄関に一台のセダンがひっそりと着き、黒っぽい微塵の結城に仙台平の袴をつけた男が降りると、憲兵が屹として敬礼する中を、勝手知った様子で中に入っていった。
 大きい眼、苦み走った精悍な顔つき、筋肉質の逞しくしまった躯、発散する精気があたりを払い、血色のいい頬が四十八歳のこの男をずっと若々しく見せている。男は、いあわせた赤松、井本両秘書官の敬礼に見向きもせず、東條のいる二階に上った。
 泣く子も黙ると怖れられた東京憲兵隊長の四方諒二憲兵大佐である。
 四方は陸軍将校として、多くの点で異色だった。士官学校を卒業したあと、派遣生として東京外語にドイツ語を学び、その後、高級幹部となるためには必須の陸軍大学を「相手のうらをかき、だますのを良しとする戦術の勉強は嫌いだから……」と敢て受験せず、憲兵学校に進んで、ここを首席で卒業した。
 憲兵は、歩兵や砲兵のような戦闘集団に比べ一段低い兵科と見られており、優秀な将校は志望してゆかないのが普通である。そこには、病弱のもの、将校団の嫌われ者、栄進の望みを失ったような者も多く、司令官以下憲兵内部の重要ポストは、転属してきた他兵科陸軍大学出身者の占めることがしばしばだった。【中略】
 四方の運は、東條が関東軍憲兵司令官の時、たまたま高級副官をつとめたことによってひらけた。理屈によってものを考えることを好む東條と四方はうまがあい、東條は四方を高く評価し、四方は東條を崇拝した。【中略】
 満州時代の経験で、東條は憲兵を使う味を知っていた。警察力をもつ憲兵を上手に使えば、情報をとること、工作をすること、法律にとらわれずに人を脅し、強権をふるうことさえ可能だった。政治的な敵対者を攻撃、弾圧するのに、これほど役に立つ組織はない。
 「ドイツ語のうまい検事型の憲兵」と評されていた四方も、中央の要職を得て東條の信頼に応え、忠実に酬いた。政界、財界、官界ににらみをきかせた彼は、海軍要職者にも「邪魔になるやつがあったら、いつでも私に言ってくれ」と牽制、東條批判の中野正剛代議士を自殺に追いこんだのが自分であることをもしばしばほのめかし、人々のあいだには恐怖の気持をこめた「東條憲兵」という言葉さえ生れていた。それまで警官任せだった首相官邸警備に憲兵が入るのも、東條憲兵時代に始まったことであり、東條の次女満喜枝(まきえ)が結婚する時には、勝子夫人の新居下検分に四方が自ら案内して話題をまいた。
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※ザゲィムプレィアさんの下記投稿へのレスです。

Re:またまた綾小路きみまろ的感懐 2016/10/11(火) 23:19:28
>小太郎さん

『東條英機暗殺の夏』を読んだのはかなり昔の事で細部は覚えていません。
そもそも『岸信介回顧録』は読んで/買っていません。
レスは週末になると思います。
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