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『アラン島』

2015-12-06 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年12月 6日(日)09時45分45秒

2日の投稿で紹介した石母田正氏の「私の読書遍歴」に「シングへのうちこみ方は相当なもので、英文科に行こうかななど考えたことがある」とありますが、これが直ちに「だから、よほど生意気だったのであろう」という評価につながる過程が今ひとつ分からないですね。
ま、それはともかく、そもそもシングとはいかなる人物かというと、みすず書房「大人の本棚」シリーズの一冊、『アラン島』(栩木伸明訳、2005)の「訳者あとがき」によれば(p261)、

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『アラン島』の著者ジョン・ミリントン・シングは、お坊ちゃん育ちである。一八七一年四月十六日、ダブリン近郊の旧家に五人兄弟の末っ子として生まれたが、この家は十七世紀にイングランドからアイルランドへ渡ってきた裕福な地主階級に属しており、英国教会派に連なるプロテスタント教会、アイルランド聖公会の聖職者を多数輩出した家系である。シングが一歳のときに天然痘で死去した父は法廷弁護士で、兄たちもみな技師や伝道師など堅実なキャリアを積み上げていった。ところが、体格には恵まれていたのに幼いときから病弱で内気だった末っ子のシングだけが、どういうわけか文学・芸術にとりつかれてしまった。ダブリンのトリニティカレッジでアイルランド語とヘブライ語を学んだ後、ヨーロッパ各地を転々としてドイツ語、イタリア語にも手を出すかたわら、音楽で身を立てようと本気で考えたりもした。しかし、どれもものにならず、パリのソルボンヌ大学でフランス文学を学びながら、コルネイユ・ホテルの最上階に宿泊してくすぶっていた。一八九六年、冬のこと。シングは二十五歳であった。
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ということで、五人兄弟は石母田氏と一緒ですね。
ま、石母田氏は二男ですが。
さて、シングは「同じホテルに泊まっていた六歳年上の詩人W・B・イェイツとはじめて出会」い、「この年の八月にアラン諸島を訪問したばかり」のイェイツにアラン島行きを勧められ、「一年半ほどたってシングはようやく腰をあげたが、一度おとずれたが最後、彼はアラン諸島に完全に惚れ込んでしまい」、1898年から1902年まで、計五回にわたって毎年通い詰めたのだそうです。
訳者によれば、

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シングの島暮らしは、組織的で学問的なフィールドワークとはほど遠いものだったけれど、彼は島人たちを警戒させず、厭きさせず、得意な体操の技やら手品やら、しまいにはフィドルの演奏まで繰り出して、島の共同体に密着した資料収集をおこなった。島の文化から検挙に学ぼうとする彼の姿勢は誠実で、偽りのないものだった。その結果、ときに臨場感あふれる、ときに彫琢をこらしたスタイルで、島の風俗、海との闘い、人物観察、物語や詩、はては個人的に経験した超常現象にいたるまで、自在に物語ってみることに成功した。
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とのことで(p263)、私はまだ最初の方を少し読んだだけですが、確かにシングの観察力は鋭くて面白いですね。
民間伝承が紹介されている部分は特に興味を惹かれます。

John Millington Synge
https://en.wikipedia.org/wiki/John_Millington_Synge
Aran Islands
https://en.wikipedia.org/wiki/Aran_Islands
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