学問空間

「『増鏡』を読む会」、第10回は3月1日(土)、テーマは「二条天皇とは何者か」です。

「国家の死滅」だなんて、僕もう疲れたよ、パトラッシュ・・・。

2014-08-28 | 石母田正の父とその周辺

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 8月28日(木)21時51分4秒

まあ、私も石母田氏の歴史理論が全て素晴らしかった、などと思っている訳ではないのはもちろんです。
ひょんなことから石母田氏の著作の面白さに嵌ってガバガバ論文を読み始めた俄か石母田ファンの私ですが、それでも「国家の死滅」みたいな表現に出会うと、何だかなーという興醒め気分を味わざるをえません。
あれだけ頭の良い人が、なぜ「国家の死滅」みたいな妄想を生涯抱き続けることができたのか。

歴史学研究会や歴史科学協議会あたりで頑張っていた人々の中にも、「国家の死滅」などと聞くと、いささか気恥ずかしい思いを抱く方は多いようで、最近では早稲田大学名誉教授の深谷克己氏が次のように書かれていますね。(「『戦後歴史学』を受け継ぐこと」(『岩波講座日本歴史第10巻近世1』月報、2014年)

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(前略)
 私自身がその末端につながっている─と自認している─「戦後歴史学」の中の「戦後近世史研究」は、「グランドセオリー」と呼ばれたりもするような「世界史仮説」に牽引されて、「発展段階の規定」にこだわり、「先進・後進の規定」にこだわってきた。こうしたこだわりからの自由さが、「現代近世史研究」だと私は理解している。刊行され始めた『岩波講座日本歴史』は、執筆者に多少の年齢差はあっても、この自由さを力にして、一つの方向だけを向かない個性的な研究成果を発表してきた世代によって担われていると私は見ている。
 新しい歴史学の担い手層に、私は問題意識が薄いとか「個別分散」的であるというようには思わない。むしろ「現代歴史学」世代の問題意識は、たとえば「国家の死滅」というような見えない目標をあえて見ようとしていた「戦後歴史学」世代よりも、より率直であり、生活性が濃い。生活的な問題意識とは、環境破壊から環境歴史学を構想し、都市問題から都市史を対象にし、高齢化社会から介護やライフスタイルの歴史的研究に進み、地震・津波から災害史に取り組む等々、眼前の状態に対する不満や批判、ないしは強い興味から直接にテーマを立てて取り組んでいくあり方である。「戦後歴史学」も「現代歴史学」も、どちらも「課題」を引き受けるという点では同じだが、前提に強い「進歩の仮説」や概念の網をはりめぐらすかどうか、言いかえればアプリオリな「歴史理論」を前提にする度合いが大きいか小さいかの違いだと私は考えている。
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「「個別分散」的であるというようには思わない」というのは、強がりも些か度を越しているような感じがします。
また、将来の歴史学界が「歴史理論」などどうでも良い、「国民の生活が第一」「市民の生活が第一」といった方向に進むとしたら、それもずいぶん寂しいことですね。

>筆綾丸さん
金子拓氏の『織田信長〈天下人〉の実像』、少し読み始めたのですが、どうもしっくりこないですね。
感想はのちほど。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

a house of cardsー御内書の集合体としての 2014/08/27(水) 13:42:14
小太郎さん
受信料の上に胡坐をかくNHKは、余計なことはせず、報道に徹してもらいものですね。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/2014/08/102278.html
谷口克広氏の『信長と将軍義昭』を読みましたが、以下のような考えが昨今の主流のようですね。ただ、この書の読後の感想は、将軍義昭という人は、要するに、傍迷惑なパラノイアではなかったか、というものです。氏は「鞆幕府」説を否定していますが、この説などはパラノイアの上に聳えたつ a house of cards(砂上の楼閣)の如きもので、この場合の cards とは義昭が乱発した御内書の集合体ですね。
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ところが近年、久野雅司氏・山田康弘氏の論考では、従来には見られなかったほど義昭政権の政治力を見直す結論がなされている。久野氏が、義昭時代の幕府の関係文書の分析から幕府の機能を検証したのに対し、山田氏は、室町幕府の本来の性格から信長と義昭との関係に迫っているのが特徴である。論法はまったく異なるけれど、久野・山田両氏の結論は、義昭政権と信長政権とは「相互補完関係」にあった、したがって、「二重権力」もしくは「連合政権」と呼びうるものということで一致している。ごく最近に出された堀新氏の論考も、山田氏の信長・義昭連合政権論に対して賛意を表明している。(42頁)
信長政権と義昭政権の関係について論じる時、従来の「傀儡政権」論はもう通用しがたいのではなかろうか。今後は久野氏・山田氏の説、すなわち「二重政権(連合政権)」論に基づいて、信長・義昭による政権を語ってゆくのが適当と考えられる。(45頁)
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追記
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本丸一つに追い詰められながらも、長政は二日間持ち堪えた。その間にあたるが、元亀四年(一五七三)八月二十九日付けで、家臣片桐孫右衛門尉に宛てた感状が残っている(『成簣堂古文書』)。家臣たちがみな逃げ出してゆく中で、最後まで忠節を通した片桐に心の底から感謝を表した一通である。そして九月一日、長政もまた自決した。(168頁)
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この年の七月二十八日に天正に改元されているから、「元亀四年(一五七三)八月二十九日」は「天正元年・・・」とすべきですが、それはともかく、この感状の末尾はたしか「長政(花押)」とあるものですね。信長に叛旗を翻した後、信長の偏諱「長」(及び「長」を崩した花押)を変更してもよさそうなんですが、浅井長政は「長政(花押)」として腹を切って死ぬのですね。お市を配慮したとも思えず、こういう戦国大名の感性は私には大きな謎です。このあたりの事情に言及した研究書は寡聞にして知らず、誰か解明してくれないかな、と思います。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/2014/08/102281.html
山田雄司氏の『怨霊とは何かー菅原道真・平将門・崇徳院』は、もう夏が終ろうとしているのに怨霊でもあるまい、と買うのはやめました。
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