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石母田氏が砂漠に立った時期

2014-03-30 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月30日(日)22時52分59秒

著作集第16巻に載っている板垣雄三氏の「追想・砂漠に立つ石母田さん」というエッセイは、『日本の古代国家』に至る石母田氏の思考の変化を探る上で、非常に興味深いものですね。

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(前略)
 砂漠の地平線を眺めながら、石母田さんはしみじみと、独特の計数と管理の対象たる財をかかえて移動する遊牧民という存在のおもしろさを語った。そして、世界史において、生産関係のあり方がたえず土地所有形態に還元されうるような社会ばかりがあるのではないという問題に多大の興味を示された。私もつりこまれ、遊牧民・職人の商人的性格やヨーロッパ人が持ち込んだ抵当権の観念とイスラム法との関係についてのべたりした。
 のちに石母田さんが岩波講座『世界歴史』別巻に書かれた「東洋社会研究における歴史的方法について─ライオット地代と貢納制─」を読んで、実は不満だった。トンガなどポリネシアの社会が海の民のそれとして十分に論じられていないと思ったからだ。しかし、『日本の古代国家』(岩波・日本歴史叢書)を読んで納得した。国家成立史における国際的契機の論議は、私には、エジプトでの対話の続編のように感じられたからである。
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ただ、このエッセイは冒頭に変な記述があります。

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 四半世紀もむかしのことなのに、不思議にも印象は鮮やかに残っている。石母田さんがローマからカイロに飛んできて、一週間エジプトに滞在されたのは、一九六六年三月下旬のことだった。私の記憶に間違いがなければ、法政大学法学部長の任期を終えられたあとヨーロッパ遊学の旅に出られ、ドイツや英国にしばしとどまったのち、帰国の途次、中東を訪問されたのであったと思う。そのとき、私は在外研究のため単身カイロに居住していた。
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著作集第十六巻の「年譜」を見ると、

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1965年(昭和40) 52歳
4月 ヨーロッパに留学、1か所2か月滞在の原則で、オーストリア・ドイツ・イギリスの大学と研究所を巡り、研究する。 その間、10月にコンスタンツ中世史研究会で講演(10月、ライヒェナウ)。
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とあり、板垣雄三氏が「ヨーロッパ遊学の旅に出られ、ドイツや英国にしばしとどまったのち、帰国の途次、中東を訪問された」石母田氏を案内したという「一九六六年三月下旬」と時期が合わないですね。
「年譜」には1966年の記述は全く存在していないので謎としか言い様がありませんが、可能性としては時期は板垣氏の記憶が正しくて、エジプトは短期の旅行だったので「年譜」には記載されなかった、ということですかね。

※追記(4月9日)
上記は私の完全な勘違いで、ヨーロッパ留学は1年間だったそうです。
帰国時にエジプト訪問ということで、何の問題もありませんでした。
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