学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その12)─卿二位が登場する意味

2023-02-18 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

慈光寺本だけに存在する公卿僉議の場面で「近衛殿」(基通、1160-1233)が義時追討に消極的な意見を述べると、卿二位が反論します。(p307)

-------
 茲〔ここ〕ニ、女房卿二位〔きやうのにゐ〕殿、簾中〔れんちう〕ヨリ申サセ給ケルハ、「大極殿造営ニ、山陽道ニハ安芸・周防、山陰道ニハ但馬・丹後、北陸道ニハ越後・加賀、六ケ国マデ寄ラレタレドモ、按察<光親>・秀康ガ沙汰トシテ、四ケ国ハ国務ヲ行〔おこなふ〕ト雖〔いへども〕、越後・加賀両国ハ、坂東ノ地頭、用ヒズ候ナル。去〔され〕バ、木ヲ切〔きる〕ニハ本ヲ断〔たち〕ヌレバ、末ノ栄〔さかゆ〕ル事ナシ。義時ヲ打〔うた〕レテ、日本国ヲ思食儘〔おぼしめすまま〕ニ行ハセ玉ヘ」トゾ申サセ給ケル。院ハ此由〔このよし〕聞食〔きこしめし〕テ、「サラバ秀康メセ」トテ、御所ニ召サル。院宣ノ成〔なり〕ケル様、「義時ガ数度〔すど〕ノ院宣ヲ背〔そむく〕コソ奇怪ナレ。打〔うつ〕ベキ由思食立〔おぼしめしたつ〕。計〔はからひ〕申セ」トゾ仰下〔おほせくだ〕リケル。秀康畏〔かしこまり〕テ奏申〔そうしまうし〕ケルハ、「駿河守義村ガ弟ニ、平判官胤義コソ此程〔このほど〕都ニ上〔のぼり〕テ候エ。胤義ニ此由申合〔まうしあはせ〕テ、義時討〔うた〕ン事易〔やすく〕候」トゾ申ケル。
-------

そもそも大極殿造営の必要が生じたのは、鎌倉殿(候補)に三寅が選ばれたことに不満を抱いた源三位頼政の孫・頼茂が反抗的な態度を示したので後鳥羽院が追討を命じ、承久元年(1219)七月十三日、合戦になって大内裏が焼けてしまったからですが、慈光寺本はその点は触れません。
そして、公卿僉議の正式メンバーではない卿二位が、簾中から、造営費用をまかなうため、山陽道は安芸・周防、山陰道は但馬・丹後、北陸道は越後・加賀の合計六か国の税収をあてることに決定し、葉室光親・藤原秀康を四ヵ国の国司(または知行国主?)にしたけれども、越後・加賀は「坂東ノ地頭」が非協力的で、再建事業が進まない、木を切るには根本を切らなければならないように、諸悪の根源は義時なのだから、義時を討って「日本国ヲ思食儘ニ行ハセ玉ヘ」(日本国を思い通りに支配なさって下さい)と主張します。
最後の表現は義時登場場面の「朝ノ護源氏ハ失終ヌ。誰カハ日本国ヲバ知行スベキ。義時一人シテ万方ヲナビカシ、一天下ヲ取ラン事、誰カハ諍フベキ」に対応していますね。
さて、卿二位はいったい何のために登場しているのか。
流布本では卿二位は登場せず、全て後鳥羽院が独断で進めています。
即ち、源頼茂の追討も、

-------
 都には又、源三位頼政が孫、左馬権頭頼持とて、大内守護に候けるを、是も多田満仲が末なればとて、一院より西面の輩を差遣し、被攻しかば、是も難遁とて、腹掻切てぞ失にける。院の関東を亡さんと被思召ける事は現前なり。故大臣殿の官位、除目ごとに望にも過て被成けり。是は、官打にせん為とぞ。三条白川の端に、関東調伏の堂を建て、最勝四天王院と被名。されば大臣殿、無程被打給しかば、白川の水の恐れも有とて、急ぎ被壊にけり。
-------

という具合いに(松林靖明『新訂承久記』、p53)、実朝の「官打」、最勝四天王院の建立と破却と並んで、後鳥羽院の「関東を亡さんと被思召ける事」が「現前」であることの現れとしています。
実朝の「官打」と最勝四天王院については、近時の学説は流布本の描き方に懐疑的ですが、流布本では後鳥羽の討幕の意思が極めて堅固であることの証拠という位置付けですね。
とにかく、流布本では全てを後鳥羽院が独裁者として決定しており、公卿僉議も近衛基通の消極的意見も、それに対する卿二位の反論もありません。
とすると、慈光寺本で卿二位が登場する意味は、後鳥羽院の独裁者としての印象を弱めることにありそうです。
実は、慈光寺本では卿二位はもう一度登場します。
即ち、いよいよ義時追討の決意を固めた後鳥羽院が陰陽師七人を呼んで鎌倉攻撃の日取りを占わせたところ、「当時ハ不快」で、今回は中止して「年号替ラレテ、十月上旬ニ思食立ナラバ、成就仕テ平安ナルベシ」との回答だったので、後鳥羽院が悩んでいたところ、

-------
卿二位殿、又申サレケルハ、「陰陽師、神ノ御号〔みな〕を借テコソ申候ヘ。十善ノ君ノ御果報〔くわほう〕ニ義時ガ果報ハ対揚〔たいやう〕スベキ事カハ。且〔かつう〕ハ加様〔かやう〕ノ事、独〔ひとり〕ガ耳ニ聞ヘタルダニモ、世ニハ程ナク聞ユ。増シテ一千余騎ガ耳ニ触テン事、隠ス共隠アルマジ。義時ガ聞候ナン後ハ、弥〔いよいよ〕君ノ御為、重ク成候ベシ。只疾々〔とくとく〕思食立候ベシ」トゾ申サレタル。サラバ秀康召テ、先〔まず〕義時ガ縁者検非違使伊賀太郎判官光季ヲ可討由ヲ、宣旨ゾ下ケル。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8f8a072cdb6139153b2b85c4fcaddf58

とあって、卿二位は再び後鳥羽院を叱咤激励します。
こうして慈光寺本では、二度に亘って卿二位が後鳥羽院以上の強硬派として登場し、後鳥羽院を叱咤激励しており、この二つの卿二位エピソードは後鳥羽院の独裁者としての印象を軽減し、併せて後鳥羽院への責任非難を軽減する機能がありますね。
また、卿二位が登場することで、

朝廷:後鳥羽院と卿二位
幕府:義時と「二位殿」(北条政子)

というシンメトリカルな構図になっている点も面白いですね。
流布本では、独裁者の後鳥羽院がたった一人で義時・政子に対峙、という構図です。
なお、流布本では、卿二位は後鳥羽院が隠岐に流される場面に、

-------
 同十三日、隠岐国へ移し可奉と聞へしかば、御文遊して九条殿へ奉らせ給ふ。「君しがらみと成て、留させ給なんや」とて、御歌を被遊ける。

  墨染の袖に情を懸よかし涙計にくちもこそすれ

加様に被遊けるとなん。御乳母の卿の二位殿、あはて参て見進〔まゐ〕らするに、譬〔たとへ〕ん方ぞ無りけり。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ae971e493adbe288b43f7a272012f86f

と登場するだけで、慈光寺本に比べれば弱々しい人物に造型されています。
逆に、慈光寺本では、戦後処理の方には卿二位は一切登場しません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者たちに捧げる歌(by GOTOBA)

2023-02-17 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

作詞:鈴木小太郎
作曲:タケカワユキヒデ
歌:GOTOBA

   Nagaenosho

そこに行けば どんな夢も
かなうというよ
誰もみな 行きたがるが
遥かな世界
その庄園の名は長江庄
何処かにあるユートピア
どうしたら 行けるのだろう
教えて欲しい

In Nagaenosho Nagaenosho
They say it was in Settsu(摂津)
Nagaenosho Nagaenosho
愛の庄園 長江庄

生きることの 苦しみさえ
消えるというよ
旅立った人はいるが
あまりにも遠い

その庄園の名は長江庄
素晴らしいユートピア
慈光寺本の中だけにある
幻なのか

In Nagaenosho Nagaenosho
They say it was in Settsu(摂津)
Nagaenosho Nagaenosho
領家は亀菊 長江庄

In Nagaenosho Nagaenosho
They say it was in Settsu(摂津)
Nagaenosho Nagaenosho
地頭は義時 長江庄

https://www.youtube.com/watch?v=m76LfRKaAzo

 

※参考

長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者たちへのオープンレター
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da89ffcbbe0058679847c1d1d1fa23da
「関係史料が皆無に近い」長江荘は本当に実在したのか?(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/af58023942711f54b112cc074308b3ad
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d28bb5de2a337a74f14bad71e5aa96a3

原曲の歌詞がちょっと単調なので、作品としてはイマイチですかね。
「隠岐にて実朝を偲ぶ歌(後鳥羽院)」は我ながら傑作だと思うなり。

東京大学教授・高橋典幸氏に捧ぐ「隠岐にて実朝を偲ぶ歌(後鳥羽院)」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/715897be49d108c681eb0c462e2af4f8

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その11)─亀菊と長江荘

2023-02-17 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

そして、多くの歴史研究者が「つまみ食い」している亀菊と長江荘の話となります。
ここも既に「長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者たちへのオープンレター」で紹介済みですが、参照の便宜のために再掲します。(p305以下)

-------
 其〔その〕由来ヲ尋ヌレバ、佐目牛〔さめうし〕西洞院ニ住ケル亀菊ト云〔いふ〕舞女〔ぶぢよ〕ノ故トゾ承ル。彼人〔かのひと〕、寵愛双〔ならび〕ナキ余〔あまり〕、父ヲバ刑部丞〔ぎやうぶのじよう〕ニゾナサレケル。俸禄不余〔あまらず〕思食〔おぼしめし〕テ、摂津国長江庄〔ながえのしやう〕三百余町ヲバ、丸〔まろ〕ガ一期〔いちご〕ノ間ハ亀菊ニ充行〔あておこな〕ハルゝトゾ、院宣下サレケル。刑部丞ハ庁〔ちやう〕ノ御下文〔おんくだしぶみ〕ヲ額〔ひたひ〕ニ宛テ、長江庄ニ馳下〔はせくだり〕、此由〔このよし〕執行シケレ共〔ども〕、坂東地頭、是ヲ事共〔こととも〕セデ申ケルハ、「此所ハ右大将家ヨリ大夫殿〔だいぶどの〕ノ給テマシマス所ナレバ、宣旨ナリトモ、大夫殿ノ御判〔ごはん〕ニテ、去〔さり〕マヒラセヨト仰〔おほせ〕ノナカラン限ハ、努力〔ゆめゆめ〕叶〔かなひ〕候マジ」トテ、刑部丞ヲ追上〔おひのぼ〕スル。仍〔よつて〕、此趣ヲ院ニ愁申〔うれへまうし〕ケレバ、叡慮不安〔やすからず〕カラ思食テ、医王〔ゐわう〕左衛門能茂〔よしもち〕ヲ召テ、「又、長江庄ニ罷下〔まかりくだり〕テ、地頭追出〔おひいだ〕シテ取ラセヨ」ト被仰下〔おほせくだされ〕ケレバ、能茂馳下〔はせくだり〕テ追出ケレドモ、更ニ用ヒズ。能茂帰洛シテ、此由〔このよし〕院奏シケレバ、仰下〔おほせくだ〕サレケルハ、「末々ノ者ダニモ如此〔かくのごとく〕云。増シテ義時ガ院宣ヲ軽忽〔きやうこつ〕スルハ、尤〔もつとも〕理〔ことわり〕也」トテ、義時ガ詞〔ことば〕ヲモ聞召〔きこしめし〕テ、重テ院宣ヲ被下〔くだされ〕ケリ。「余所〔よそ〕ハ百所モ千所モシラバシレ、摂津国長江庄計〔ばかり〕ヲバ去進〔さりまゐら〕スベシ」トゾ書下サレケル。義時、院宣ヲ開〔ひらき〕テ申サレケルハ、「如何ニ、十善ノ君ハ加様〔かやう〕ノ宣旨ヲバ被下〔くだされ〕候ヤラン。於余所者〔よそにおいては〕、百所モ千所モ被召上〔めしあげられ〕候共〔とも〕、長江庄ハ故右大将ヨリモ義時ガ御恩ヲ蒙〔かうぶる〕始ニ給〔たまひ〕テ候所ナレバ、居乍〔ゐながら〕頸ヲ被召〔めさる〕トモ、努力〔ゆめゆめ〕叶候マジ」トテ、院宣ヲ三度マデコソ背〔そむき〕ケレ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da89ffcbbe0058679847c1d1d1fa23da

分量は16行ですね。
私の立場からは「医王左衛門能茂」が登場する点が極めて興味深いのですが、多くの歴史研究者の関心は長江荘に集中しています。
そして、私も若手研究者が自説の典拠として挙げる小山靖憲氏の「椋橋荘と承久の乱」(『市史研究とよなか』第1号、1991)を読んでみましたが、読後感は何とも奇妙なものでした。
小山論文はタイトル通り椋橋荘をテーマとするもので、長江荘はあくまで付随的な扱いでしたが、史料が豊富に存在する椋橋荘とは対照的に、長江荘については鎌倉時代の史料が文字通り「皆無」で、南北朝期以降の史料に類似地名が出て来るだけですね。
この程度の史料しかないのに、長江荘の地頭が北条義時だったという「学説」が、今や通説になろうとしている現状は本当に驚きです。

歴史研究者は何故に慈光寺本『承久記』を信頼するのか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dbce4ae481988ee4658a379aba137edb
「関係史料が皆無に近い」長江荘は本当に実在したのか?(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/af58023942711f54b112cc074308b3ad
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d28bb5de2a337a74f14bad71e5aa96a3

ま、それはともかく、続きです。(p306以下)

-------
 院ハ此由〔このよし〕聞食〔きこしめし〕、弥〔いよいよ〕不安カラ〔やすからず〕奇怪也ト思食〔おぼしめし〕ケルモ、御理〔おんことわり〕ナルベシ。公卿僉議〔せんぎ〕アルベシトテ催サレケル人々ハ、近衛殿<基通>、九条殿下<道家>、徳大寺左大臣<公継>、坊門新大納言<忠信>、按察中納言<光親>、佐々木野中納言<有雅>、中御門中納言<宗行>、甲斐宰相中将<範茂>、一条宰相中将<信能>、刑部僧正<長厳>、二位法印<尊─>ナドヲゾ召サレケル。「義時ガ再三院宣ヲ背〔そむく〕コソ、奇怪ニ思食〔おぼしめさ〕ルレ。如何アルベキ。能々〔よくよく〕計申〔はからひまうせ〕」ト仰出〔おほせいだ〕サル。近衛殿申サセ給ケルハ、「昔、利仁将軍ハ廿五ニテ東国ニ下〔くだり〕、鬼搦〔から〕メテ、我ニ勝サル将軍有マジトテ、大唐責〔せめ〕ント申ケルニ、調伏セラレ、大元明王〔だいげんみやうわう〕ニ蹴ラレマヒラセテ、将軍塚ヘ入ニケリ。其後〔そののち〕、都ノ武士未聞ヘ〔いまだきこえず〕。只能〔ただよく〕義時ヲスカサセ玉ヘ」トゾ申サレケル。
-------

分量は9行です。
この後、近衛基通の消極意見に対し、卿二位が簾中から強硬意見を述べるという展開となりますが、それは次の投稿で紹介します。
なお、この公卿僉議と卿二位のエピソードは慈光寺本にだけ存在します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その10)─北条義時と後鳥羽院の登場

2023-02-17 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

源氏三代に進みます。(p303以下)

------
 頼朝卿、度々〔たびたび〕都ニ上リ、武芸ノ徳ヲ施〔ほどこ〕シ、勲功無比〔たぐひなく〕シテ、位〔くらゐ〕正二位ニ進ミ、右近衛ノ大将ヲ経タリ。西ニハ九国〔くこく〕二島、東ニハアクロ・ツガル・夷〔ゑびす〕ガ島マデ打靡〔うちなびか〕シテ、威勢一天下ニ蒙〔かうぶ〕ラシメ、栄耀〔えいえう〕四海ノ内ニ施シ玉フ。去程〔さるほど〕ニ、建久九年<戊午>十二月下旬ノ比、相模川ニ橋供養ノ有シ時、聴聞ニ詣玉〔まうでたまひ〕テ、下向ノ時ヨリ水神ニ領〔りやう〕ゼラレテ、病患頻〔しきり〕ニ催シテ、半月ニ臥シ、心身疲崛〔ひくつ〕シテ、命〔いのち〕今ハ限〔かぎり〕ト見ヘ給フ時、孟光〔まうくわう〕ヲ病床ニ語〔かたらひ〕テ曰ク、「半月ニ沈ミ、君ニ偕老〔かいらう〕ヲ結〔むすび〕テ後、多年ヲ送〔おくり〕キ。今ハ同穴〔どうけつ〕ノ時ニ臨メリ」。嫡子少将頼家ヲ喚出〔よびいだし〕、宣玉〔のたま〕ヒケルハ、「頼朝ハ運命既ニ尽ヌ。ナカラン時、千万〔せんまん〕糸惜〔いとほしく〕セヨ。八ケ国ノ大名・高家ガ凶害ニ不可付〔つくべからず〕。畠山ヲ憑〔たのみ〕テ日本国ヲバ鎮護スベシ」ト遺言ヲシ給ヒケルコソ哀〔あはれ〕ナレ。
 少将イマダ有若(亡)〔うじやくまう〕ノ人ナレバ、父ノ遺言ヲモ用玉〔もちひたま〕ハズ、梶原平三景時ゾ後見〔うしろみし〕奉ケル。人、唇ヲ反〔かへ〕シケリ。生年十六ニテ左衛門督ニ成〔なる〕。六年ゾ世ヲ持チ給ケル。然〔しかる〕ニ、ナセル忠孝ハナクシテ栄耀に誇〔ほこり〕、世ヲ世トモ治メ玉ハザリケレバ、母儀〔ぼぎ〕・伯父〔をぢ〕教訓ヲ加フレドモ、用ヒ玉ハズ。遂ニハ元久元年<甲子>七月廿八日、伊豆国修善寺ノ浴室ニオキテ、生害〔しやうがい〕サセ申〔まうす〕。舎弟千万若子〔わかご〕、果報ヤマサリ玉ヒケン、十三ニテ元服有テ、実朝トゾ名ノリ給ケル。次第ノ昇進不滞〔とどこほらず〕、四位、三位、左近ノ中将ヲヘテ、程ナク右大臣ニ成玉フ。徳ヲ四海ニ施シ、栄ヲ七道耀〔かかやか〕シ、去〔さんぬる〕建保七年<己卯>正月廿日、右大臣ノ拝賀ニ勅使下向有テ、鎌倉ノ若宮ニヲキ拝賀申サレケル時、舎兄〔しやきやう〕頼家ノ子息若宮別当悪禅師〔あくぜんじ〕ノ手ニカゝリ、アヘナク被誅〔ちうせられ〕給ケリ。凡〔およそ〕三界ノ果報ハ風前ノ灯、一期〔いちご〕ノ運命ハ春ノ夜ノ夢也。日影ヲマタヌ朝顔、水ニ宿レル草葉ノ露、蜉蝣〔かげらふ〕ノ体ニ不異〔ことならず〕。
-------

分量は、

 頼朝 9行
 頼家・実朝(二人合わせて) 11行

で、合計20行ですね。
内容で若干分かりにくいのは「孟光」ですが、久保田氏の脚注によれば「妻北条政子をさす。本来は後漢の梁鴻の妻。醜貌であったが徳行を修め、人々に尊敬された」とのことです。
その他、頼家が「生年十六ニテ左衛門督ニ成」は正治二年十九歳の時の誤り、頼家殺害の「元久元年<甲子>七月廿八日」は十八日の誤りですが、まあ、細かいことで、記事全体は概ね正確ですね。
さて、流布本では後鳥羽院の後に北条義時が登場しますが、慈光寺本では源氏三代の説明をあっさり済ませた後、いきなり義時が大野心家として登場します。
この点は既に何度か紹介済みですが、参照の便宜のために再掲します。(p304)

-------
 爰〔ここ〕ニ、右京権大夫義時ノ朝臣思様〔おもふやう〕、「朝〔てう〕ノ護〔まもり〕源氏ハ失終〔うせをはり〕ヌ。誰〔たれ〕カハ日本国ヲバ知行〔ちぎやう〕スベキ。義時一人シテ万方〔ばんぱう〕ヲナビカシ、一天下ヲ取ラン事、誰カハ諍〔あらそ〕フベキ」。同年夏ノ比、相模守時房ヲ都ニ上〔のぼせ〕テ、帝王ニ将軍ノ仁〔じん〕ヲ申サレケリ。当時ノ世中〔よのなか〕ヲ鎮〔しづ〕メントテ、右大将公経卿外孫、摂政殿下ノ三男、寅年寅日寅時ニ生レ給ヘレバ、童名〔わらはな〕ハ三寅〔みとら〕ト申〔まうす〕若君ヲ、建保七年六月十八日、鎌倉ヘ下〔くだし〕奉ル。風諫〔ふうかん〕ニハ伊予中将実雅〔さねまさ〕、後見ニ右京権大夫義時トゾ定メ下サレケル。争〔いかで〕カ二歳ニテハトテ、三ト云名ヲ付奉リテ、十八日ヨリ廿日マデ、年始元三〔ぐわんざん〕ノ儀式ヲ始テ御遊〔ぎよいう〕アリ。七社詣〔まうで〕シテ鎌倉ニ座〔おはしま〕ス。
-------

分量は8行ですね。
そして義時の後に後鳥羽院が登場します。

-------
 爰〔ここ〕ニ、太上天皇〔だいじやうてんわう〕叡慮動キマシマス事アリ。源氏ハ日本国ヲ乱〔みだ〕リシ平家ヲ打平〔うちたひ〕ラゲシカバ、勲功ニ地頭職ヲモ被下〔くだされ〕シナリ。義時ガ仕出〔しいだし〕タル事モ無〔なく〕テ、日本国ヲ心ノ儘ニ執行〔しゆぎやう〕シテ、動〔ややも〕スレバ勅定〔ちよくぢやう〕ヲ違背スルコソ奇怪〔きつくわい〕ナレト、思食〔おぼしめさ〕ルゝ叡慮積〔つも〕リニケリ。凡〔およそ〕、御心操コソ世間ニ傾ブキ申ケレ。伏物、越内、水練、早態、相撲、笠懸ノミナラズ、朝夕武芸ヲ事トシテ、昼夜ニ兵具ヲ整ヘテ、兵乱ヲ巧〔たくみ〕マシマシケリ。御腹悪〔あしく〕テ、少モ御気色ニ違〔たがふ〕者ヲバ、親〔まのあた〕リ乱罪ニ行ハル。大臣・公卿ノ宿所・山荘ヲ御覧ジテハ、御目留〔とま〕ル所ヲバ召シテ、御所ト号セラル。都ノ中ニモ六所アリ。片井中〔かたゐなか〕ニモアマタアリ。御遊ノ余ニハ、四方〔よも〕ノ白拍子ヲ召集〔めしあつめ〕、結番、寵愛ノ族〔やから〕ヲバ、十二殿ノ上、錦ノ茵〔しとね〕ニ召上〔めしのぼ〕セテ、蹈汚〔ふみけが〕サセラレケルコソ、王法・王威モ傾〔かたぶ〕キマシマス覧〔らん〕ト覚テ浅猿〔あさまし〕ケレ。月卿雲客相伝ノ所領ヲバ優〔いう〕ゼラレテ、神田・講田十所ヲ五所ニ倒シ合〔あはせ〕テ、白拍子ニコソ下シタベ。古老神官・寺僧等、神田・講田倒サレテ、歎ク思〔おもひ〕ヤ積〔つもり〕ケン、十善君忽〔たちまち〕ニ兵乱ヲ起給〔おこしたま〕ヒ、終ニ流罪セラレ玉ヒケルコソ朝増〔あさまし〕ケレ。
-------

分量は義時より多く、13行です。
ここは松林靖明氏によって「慈光寺本は、後鳥羽院をきわめて手厳しく批判的に描いている」とされる部分ですが、しかし流布本と比較すると非難の程度はさほどでもなく、我儘で無駄に敵を作ってしまった程度の話ですね。

何故に藤原能茂を慈光寺本作者と考える研究者が現れなかったのか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eabb3d82a87a07dbc7a4cbad9bbd1f93
慈光寺本と流布本における後鳥羽院への非難の度合
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/22dce396bbb288867bb1c692c425ea59
順徳院と九条道家の長歌贈答について(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cb62397dc9e151b0c81686908ac984f4

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その9)─序文が置かれた理由

2023-02-17 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

ここで序文について少し整理しておきます。
序文は慈光寺本にだけ存在しているので他本との比較はできませんが、慈光寺本での内容と分量は、

-------
仏教的な時間論 12行
仏教的観点からの世界地理と「我朝日本日域」の天神・地神 11行
「十二ケ度」の「国王兵乱」 49行
  総論(3行)
 (1)綏靖天皇の時代、「震旦国」が「十万八千騎ノ勢」で攻めてきたが、敗退。(3行)
 (2)開化天皇が「兄ノ位ヲ打取テ、世ヲ治玉フ」(2行)
 (3)仲哀天皇が「異国ノ為ニ崩御」した後、神功皇后による三韓征伐(12行)
 (4)聖徳太子と物部守屋との仏教をめぐる合戦(3行)
 (5)斉明天皇が「春宮打失、后奪取テ位ヲ、治玉フ」(2行)
 (6)文武天皇が「極テ心悪ク、腹カラ舎弟ノ王胤共ヲ打失」(2行)
 (7)「聖武天皇ト弟ノ親王ト合戦」(1行)
 (8)保元の乱(9行)
 (9)源平合戦(11行)
  まとめ(1行)
-------

ということで、合計72行ですから全体の約7%で(72/1044≒0.069)、けっこうな分量ですね。
さて、序文の約7割(49/72≒0.68)を占める「国王兵乱」ですが、まず、全部合計しても九度なのに十二度としているのが極めて不審です。
そして、九度のうち、半分以上の(1)(2)(5)(6)(7)の内容が極めて不審です。
これをどう考えるべきなのか。
慈光寺本の作者は歴史研究者としても極めて誠実で、徹底的に文献を調べて、誰も気づいていなかった歴史の「真相」をつきとめたのか。
それとも、主観的には誠実に調べはしたが、歴史研究者としての資質と能力が不足しており、信頼すべきでない資料を軽率に信頼してしまったのか。(過失)
あるいは、典拠となる資料が存在しないのを承知で「国王兵乱」の歴史を創作したのか。(故意)
私としては、渡邉裕美子氏の研究により慈光寺本の和歌の大半が創作であることが判明していることに加え、「国王兵乱」九度のうち、実に半分以上の内容が不審である以上、慈光寺本の作者が故意で(あるいは史実について何の関心も払わない重大な過失で)創作したものと考えます。
では、何故にそんな話を創作し、序文に取り込んだのか。
まあ、慈光寺本が深遠な仏教理論と「国王兵乱」に関する詳細な歴史知識を背景とする大変な名著であることを読者にアピールし、荘重な雰囲気を醸し出すことが目的ではなかったか、と私は想像します。
なお、私には仏教理論は分からないので、冒頭の仏教的な時間論と仏教的観点からの世界地理論がどの程度の水準の議論なのか判断できませんが、序文後半の「十二ケ度」の「国王兵乱」に創作が多いであろうことを踏まえると、前半もどこまで信頼できるのか、という疑問は生じます。
あるいはこちらも、当時の仏教理論の水準を反映しているのではなく、慈光寺本作者の独自理論が相当混入している可能性も考えられるので、大津雄一氏のように「劫」云々をあまりに重視するのもどんなものなのだろうか、と私は思います。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その6)─仏教と日本の神話
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5b6f6430ffecf3f663a099ae7e28cc47

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その8)─「国王ノ兵乱十二度」の謎

2023-02-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続きです。(p301以下)

-------
 七十三代ノ帝ヲバ、鳥羽院トゾ申ケル。嫡子崇徳院ノ御位〔おんくらゐ〕ヲ押下〔おしおろ〕シ、当腹〔たうぶく〕ノ王子近衛院ヲ御位ニ即〔つけ〕申サルゝノ処ニ、近衛院十七歳ニシテ崩御成ヌ。然レバ、愛子ノ御事ナレバ、御弟ナレドモ、力不及〔ちからおよばず〕。崩御ノ上ハ、御位ヲバ崇徳院ヘ還〔かへし〕被申〔まうされ〕テ重祚アルカ、御嫡孫重仁ノ親王ヲ御位ニ即申サルゝカト思食〔おぼしめす〕処ニ、思ノ外ニ、第四ノ宮後白河ノ院ヘ御位ヲマイラセラレケレバ、崇徳院ハ無本意〔ほいなく〕思食ケレドモ、法皇ノ御計〔はから〕ヒナレバ、力不及、御堪忍〔かんにん〕アル処ニ、無程〔ほどなく〕法皇モ崩御ナル間、崇徳院、ヤガテ御中陰ノ中ヨリ御謀叛ヲ被興〔おこされ〕、主上ト上皇ト御合戦アリ。是ヲ保元ノ乱ト云。今、都ノ乱ノ始也。遂ニ上皇打負サセ給テ、讃岐ノ国ヘ配流アリ。
 人王八十代高倉院ト申〔まうす〕ハ、後白河院第三王子、平相国清盛公ノ御娘中宮ニ<徳子>御参〔おんまゐり〕アリ。後、建礼門院トゾ申ケル。其御腹ニ王子一人マシマシケリ。安徳天皇トゾ申ケル。三歳ニテ即位。外戚入道大相国、一向天下ヲ執行〔しゆぎやう〕セシ程ニ、源氏、一向頭〔かしら〕ヲ出ス輩〔ともがら〕ナシ。雖然〔しかりといへども〕、相国ノ運命モ漸〔やうやく〕末ニ成シカバ、嫡子小松内大臣重盛公モ薨ジ給フ間、相国悪行、日来〔ひごろ〕ニ超過スル間、源氏マタ依院宣〔ゐんぜんにより〕、前右兵衛佐頼朝ハ坂東ヨリ打テ上リ、木曾二郎義仲北国ヨリ責上テ、無程平家ハ没落ス。遂ニ元暦二年正月ニ、頼朝舎弟蒲官者範頼・九郎判官義経、讃岐八島ニ進発シテ、平家ヲ責落〔せめおとす〕。二月下旬ニハ、平家ノ一類悉〔ことごとく〕壇ノ浦ニテ入海ス。剰〔あまさへ〕、大将軍前右大臣宗盛父子三人、其外生捕〔いけどり〕数多〔あまた〕。宗盛父子ヲ為始〔はじめとして〕、皆々被切〔きられ〕給ニケレバ、無程源氏ノ世トゾ成ニケル。其後、兵衛佐殿ハ鎌倉館〔たち〕ヲ構ヘ、鎌倉殿ト被仰給。
 昔、綏靖天皇ヨリ、今、安徳天皇マデ、国王の兵乱十二度ニコソ当ケレ。
-------

保元の乱(1156)の記述は特に変ではありませんが、「国王兵乱」を記すなら、保元の乱の後、平治の乱(1159)を書かなければならないのに、それが存在しないのは変ですね。
源平合戦については、壇ノ浦の戦いが「二月下旬」となっているのは変で、正しくは三月二十四日ですが、まあ、細かな話ですね。
さて、49行に及ぶ「国王兵乱」の記事には、きちんと調べたとは思えない奇妙な箇所が多々ありますが、一番変なのは、ここに挙げられている「兵乱」を全部数えても十二にならないことです。
即ち、順番に列挙すると、

(1)綏靖天皇の時代、「震旦国」が「十万八千騎ノ勢」で攻めてきたが、敗退。
(2)開化天皇が「兄ノ位ヲ打取テ、世ヲ治玉フ」
(3)仲哀天皇が「異国ノ為ニ崩御」した後、神功皇后による三韓征伐
(4)聖徳太子と物部守屋との仏教をめぐる合戦
(5)斉明天皇が「春宮打失、后奪取テ位ヲ、治玉フ」
(6)文武天皇が「極テ心悪ク、腹カラ舎弟ノ王胤共ヲ打失」
(7)「聖武天皇ト弟ノ親王ト合戦」
(8)保元の乱
(9)源平合戦

ということで、九回だけです。
(3)の仲哀天皇が「異国ノ為ニ崩御」したことと神功皇后による三韓征伐を無理やり二つに分け、更に平治の乱が何らかの理由で欠落したとしても十一回になるだけで、十二ではありません。
これはいったいどういうことなのか。
慈光寺本の作者はやたらと数字を列挙する癖がありますが、実は数えることが苦手だったのか。
それとも単にそそっかしい性格だったのか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その7)─「国王兵乱」

2023-02-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

くどいようですが、私には大津雄一氏が「慈光寺本『承久記』は嘆かない」で表明された見解に賛同できるところは一つもありません。

大津雄一「慈光寺本『承久記』は嘆かない」には賛成できる点がひとつもない。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f07a3c0aa92664d6fb1f0edd2cd08ec
順徳院と九条道家の長歌贈答について(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b05d81ebef2e7d92f2e15bb693489ed8

そもそもタイトルの「慈光寺本『承久記』は嘆かない」という基本的な認識自体が誤りですので、この誤った認識に基づく大津氏の議論と私の議論は、「四劫」がどんなに繰り返されようと、未来永「劫」、噛み合うことはなく、批判しても仕方ないので紹介だけに止めます。
さて、続きです。
天神・地神の「合〔あはせ〕テ十二代ハ神ノ御世」の後、神武天皇の時代となります。(p299以下)

-------
 人王ノ始ヲバ、神武天皇トゾ申ケル。葺不合尊ノ四郎ノ王子ニテゾマシマシケル。其ヨリシテ去〔さん〕ヌル承久三年マデハ、八十五代ノ御門〔みかど〕ト承ル。其間ニ国王兵乱〔ひやうらん〕、今度マデ具〔つぶさに〕シテ、已〔すで〕ニ十二ケ度ニ成。
 其始〔そのはじめ〕ノ兵乱ヲ尋ヌレバ、神武天皇ノ三郎王子綏靖天皇ト申〔まうす〕御時、震旦国ヨリ我朝ヲ打ナビケントテ、十万八千騎ノ勢ヲ率シテ打渡〔うちわたり〕、戦〔たたかひ〕ケルニ、戦負テ帰〔かへり〕ニケリ。
 神武天皇ヨリ九代ノ国王ヲバ、開化天皇トゾ申ケル。兄ノ位ヲ打取テ、世ヲ治玉〔おさめたま〕フ。
 十四代ノ国王ヲバ、仲哀天皇トゾ申ケル。其后ヲバ、神功皇后トゾ申ケル。帝崩御成テ後、世ヲ治玉〔をさめたま〕フ。女帝ノ御門ノ始也。御心極テ武〔たけ〕クゾ御座〔おはし〕マス。中哀天皇ハ異国ノ為ニ崩御ナリシカバ、鬼界〔きかい〕・高麗〔かうらい〕・契旦〔けいたん〕ノ三韓〔さんかん〕ヲ打取テ、我朝ノ進退ニナサバヤト思食〔おぼしめし〕、十万八千騎ノ軍兵ヲ引率シテ、筑紫ノ博多ニ打下リ、船ヲ汰〔そろ〕ヘ玉フ。其折節〔をりふし〕、御懐妊〔ごくわいにん〕有。漸〔やうやく〕十ケ月ニモ成ケレバ、王子生〔うま〕レントシ給シカバ、胎内ノ王子ニ申玉フ様、「王子誕生有テ後、果報〔くわほう〕目出度〔めでたく〕位ヲ治玉フベキナラバ、只今ハ誕生ナラデ、兵乱過テ後〔のち〕生レ玉ヘ」ト申サル。然間〔しかるあひだ〕、御産ノ時ヲゾ延〔のべ〕給ケル。辛巳歳十月二日、三韓ヲ打ナビカシテ、同十一月廿八日、筑紫ノ博多ヘ帰リ給テ、五日ト申〔まうす〕日ゾ、王子ハ産レ玉ヒケルガ、七十歳ニ成〔なり〕玉フマデハ、神宮皇后モ御勇健ニテ、世ヲ治〔をさめ〕給フ事七十年、遂ニ百歳ニテ崩御成テ、皇子七十歳ニシテ、初〔はじめ〕テ世ヲ治(給)フ事四十三年、応神天皇ト申ス。今ノ八幡大菩薩ニテゾマシマシケル。
 三十二代ノ国王ヲバ、用明天皇トゾ申ケル。此帝ノ二郎王子聖徳太子ト守屋ノ大臣ト、此界〔さかひ〕ニ仏法弘〔ひろ〕メン弘メジノ御諍〔あらそひ〕、遂ニ合戦ニ成テ、守屋討タレニケリ。此御願ニ依テ、太子難波ニ四天王寺ヲ建立〔こんりふ〕シテ、仏法最初ノ所トス。
 卅八代ノ国王ヲバ、斉明天皇トゾ申ケル。春宮打失〔とうぐううちうしなひ〕、后奪取テ位ヲ〔きさきくらゐをうばひとりて〕、治玉フ。
 四十二代ノ国王ヲバ、文武天皇トゾ申ケル。極テ心悪〔あし〕ク、腹〔はら〕カラ舎弟ノ王胤〔わういん〕共ヲ打失テ、始テ大宝ト云年号ヲ定メ下〔たま〕フ。
 其後、宝字年中ニハ、嫡子ノ聖武天皇ト弟ノ親王ト合戦アリ。
-------

いったん、ここで切ります。
神武天皇以来、「国王兵乱」が十二回あったとのことですが、「其始ノ兵乱」の「神武天皇ノ三郎王子綏靖天皇ト申御時、震旦国ヨリ我朝ヲ打ナビケントテ、十万八千騎ノ勢ヲ率シテ打渡、戦ケルニ、戦負テ帰ニケリ」というのはいったい何のことなのか、よく分りません。
久保田淳氏も脚注で「何による伝承か未詳」と書かれています。
ついで、開化天皇が「兄ノ位ヲ打取テ、世ヲ治玉フ」も謎で、久保田氏によれば「何に拠るか、未詳」です。
「中哀天皇ハ異国ノ為ニ崩御ナリシカバ」も少し分かりにくいところがありますが、久保田氏によれば「八幡愚童訓に、異国の流矢に当って崩じたというような伝承によるか。日本書紀は、新羅を討てとの信託を信じなかったので、神の怒りに触れて崩じたとする。底本「中」は「仲」の宛字」とのことなので、まあ、「異国ノ為ニ崩御」といってもおかしくはないのかもしれません。
神功皇后の三韓征伐の話は有名ですが、普通、「三韓」は新羅・高麗・百済とされているので、「鬼界・高麗・契旦ノ三韓」という表現は若干気になりますし、「十万八千騎ノ勢」は綏靖天皇の時、「震旦国」から来たという「十万八千騎ノ勢」と重なりますが、その根拠は何なのか。
その他、久保田氏の脚注によれば「日本書紀では「和珥津」(対馬)から船を出したとする」、「日本書紀には帰国の日時を明記云していない」とのことで、独自に脚色している感じがしないでもありません。
「此帝ノ二郎王子聖徳太子」については、久保田氏によれば「日本書紀では聖徳太子(厩戸皇子)は用明天皇の第一皇子とする」とのことですが、まあ、これは細かい話ですね。
しかし、斉明天皇が「春宮打失、后奪取テ位ヲ、治玉フ」とは何なのか。
斉明天皇は「皇極天皇が重祚しての諡号。舒明天皇の皇后」ですが、久保田氏の「中大兄皇子がいるにもかかわらず二度も皇位に即いたことをこう言ったか」という解釈はあまりに好意的過ぎるような感じがします。

斉明天皇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87 

ついで文武天皇が「極テ心悪ク、腹カラ舎弟ノ王胤共ヲ打失テ」も謎で、久保田氏によれば「いかなる伝承によるか、未詳」です。
更に「宝字年中ニハ、嫡子ノ聖武天皇ト弟ノ親王ト合戦アリ」も謎で、久保田氏は「未詳。あるいは文武天皇の従兄弟に当たる長屋王が天平元年(七二九)自殺させられたことを誤って語るか」とされますが、これも余りに好意的過ぎる解釈ですね。

長屋王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B1%8B%E7%8E%8B

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その6)─仏教と日本の神話

2023-02-16 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

それでは少しずつ慈光寺本を読んで行くこととします。
冒頭に長い序文があるのが慈光寺本の特徴の一つですが、まずはその前半を紹介します。(岩波新日本古典文学大系本、p298以下)

-------
 娑婆世界ニ衆生利益ノ為ニトテ、仏ハ世ニ出給〔いでたま〕フ事、総ジテ申サバ、無始無終〔むしむしゆう〕ニシテ、不可有際限〔さいげんあるべからず〕。別シテ申サバ、過去ニ千仏、現在ニ千仏、未来ニ千仏、三世〔さんぜ〕に三千仏出世〔しゆつせ〕有ベシト承ル。過去ノ劫〔こふ〕ヲバ荘厳劫〔しやうごんごふ〕、現在ヲバ賢劫〔けんごふ〕、未来ヲバ星宿劫〔しやうしゆくごふ〕ト名付〔なづく〕ベシ。三世共〔とも〕ニ二十ノ増減アルベシ。過去二十ノ増減ノ間ニ、千仏出給〔いでたまひ〕ヌ。現在二十増減ノ間ニモ、亦〔また〕千仏、未来モ亦復〔またまた〕爾也〔しかなり〕。然〔しかる〕ニ、釈尊ノ出世ヲ何〔いづれ〕ノ比〔ころ〕ゾト云ニ、現在賢劫ノ中ニ第九減劫ニ、初〔はじめ〕テ仏出玉〔いでたま〕フヲ、拘留孫仏〔くるそんぶつ〕ト奉名〔なづけたてまつる〕。此時ハ人寿四万歳ノ時也。拘那含牟尼仏〔くなごんむにぶつ〕出ハ人寿三万歳、迦葉仏〔かせいぶつ〕ハ人寿二万歳ノ時出給フ。此時ハ釈尊、補処〔ふしよ〕ノ位トシテ、都率〔とそつ〕ノ内院〔ないゐん〕ニ生ジテ、今日人寿百歳時出世シマシマシテ、十九出家、三十成道〔じやうだう〕給。八十入滅〔にふめつ〕ノ時至〔いたり〕テ、狗尸那〔くしな〕城ノ西北方、抜提河〔ばつだいが〕ノ西ノ岸ニシテ、利生〔りしやう〕ノ光、黄金〔わうごん〕ノ櫃〔ひつ〕キニ納〔をさまり〕給フ。二千余年ノ春秋ハ夢ノ如〔ごとく〕ニシテ過〔すぎ〕ヌレド、今教法〔きようぼう〕盛〔さかり〕ニシテ、世間モ出世モ、明〔あきらか〕ニ習学スル人ハ、過去・未来マデ皆悟ル。
 抑〔そもそも〕、南閻浮提〔なんえんぶだい〕ノ間ニ、十六ノ大国、五百ノ中国、十千ノ小国、無量ノ粟散国〔ぞくさんこく〕有トハ聞ユレドモ、異朝ノ事ハサテヲキツ。仏法・王法始マリテ、目出度〔めでたき〕所ヲ尋ヌレバ、天竺・震旦・鬼界・高麗・景旦国〔けいたんごく〕、我朝日本日域〔じちゐき〕ニモ、劫初〔こふしよ〕ノ当初ヨリ今ニ至マデ、仏法ニカクレゾ無カリケル。天竺ノ王ヲ始〔はじめ〕ヲバ、民主王〔みんしゆわう〕トゾ申ケル。其ヨリシテ釈尊ノ父浄飯王〔じやうぼんわう〕ノ御時マデ、八万四千二百一十王ト承〔うけたまは〕ル。盤古王〔はんこわう〕トゾ申ケル。其〔それ〕ヨリシテ後漢ノ明帝ノ御時マデ、八万六千二百四十二王ト承ル。我朝日域ニモ、天神七代、地神〔ちじん〕五代ゾ御座〔おはし〕マス。天神ノ始ヲバ、国常立〔くにのとこたち〕ノ尊〔みこと〕トゾ申ケル。其ヨリシテ伊弉諾〔いざなき〕・伊弉冉〔いざなみ〕ノ尊マデ七代ヲバ、天神ノ御代トテ過〔すぎ〕ヌ。地神五代ノ始ヲバ、天照大神〔あまてらすおほみかみ〕トゾ申ケル。今ノ神明〔しんめい〕、是〔これ〕也。其ヨリシテ葺不合〔ふきあへず〕ノ尊マデ、地神五代モサテ過ヌ。合〔あはせ〕テ十二代ハ神ノ御世也。其ヨリ以来、人王〔にんわう〕百代マシマスベキト承ル。
-------

仏教関係が12行、仏教的観点に基づく「世界」地理と日本神話が10行、合計22行ですね。
あまりに遠大な話なので承久の乱との関係が分かりにくいのですが、研究者の中にはこの部分、特に「劫」に関する記述を極めて高く評価する人がいます。
それは早稲田大学教授・大津雄一氏(1954生)です。
以前にも書いたように、私は『挑発する軍記』(勉誠出版、2020)所収の「慈光寺本『承久記』は嘆かない」という大津氏の論文に賛成できるところは一つもありませんが、仏教関係の知識の整理にはなるので、少し紹介してみます。

大津雄一『挑発する軍記』
https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=101165

この論文は、

-------
一  「文学」的価値
二  慈光寺本『承久記』
三  王の敗北
四  慶事
五  四劫と三千仏
六  『愚管抄』
七  『水鏡』
八  危機
九  歴史の語り方
十  したたかな人々
十一 不遜な発言
十二 慈光寺本の価値
-------

と構成されていますが、「五  四劫と三千仏」の冒頭で「娑婆世界ニ衆生利益ノ為ニトテ」から「過去・未来マデ皆悟ル」までを引用された後、大津氏は次のように述べています。(p171以下)

-------
 仏の出世は無始無終で際限なく、過去・現在・未来に三千の仏が出世する、釈迦の入滅後二千年が過ぎたが、その教えは盛んに行われ、これを学ぶ人は僧俗を問わず過去未来までみな悟るというのである。「三千」は限定的な数として理解されていない。仏の出世が無限であることを示す数詞としてある。
 釈迦入滅後二千一年目、日本では永承七年(一〇五二)から末法であり、仏法は正しく行われないという、平安期以降蔓延していた末法思想の悲観的な世界観はここには微塵もない。「諸行無常」などという嘆きとも無縁である。この後、南閻浮提〔なんえんぶだい〕の国々のうちで、「仏法・王法始マリテ、目出度所」として、天竺・震旦・鬼界・高麗・景旦国を挙げ、「我朝日本日域ニモ、劫初ノ当初ヨリ今ニ至マデ、仏法ニカクレゾ無カリケル」と記す。この無邪気ともいえる世界観は、四劫説に則った三世(三劫)三千仏説によっている。
 四劫説は、仏教の宇宙論的時間構造を説く。一つの世界が成立してから次の世界が成立するまでを、成劫・住劫・壊劫・空劫の四期に分ける。成劫は天界から地獄に至るまでの成立の期間、住劫は人間が安穏に存在する期間、壊劫は天界から地獄までが破壊される期間、空劫は破壊され尽くした後の空無の期間である。この四劫を一大劫とする。世界はこの生成と消滅のサイクルを繰り返す。
 『倶舎論』によるならば、一大劫を成す成・住・壊・空劫は、それぞれ二十の中劫からなる。劫には人間の寿命が八万四千歳(略して八万歳とする)から百年ごとに一歳ずつ減じて十歳に至る減劫と、十歳から百年ごとに一歳ずつまして八万四千歳に達する増劫とがあり、減・増劫二つを合わせた期間が一中劫である。他の成・壊・空劫も住劫と同じ長さであるとされる。 
 荘厳劫・賢劫・星宿劫の三劫については、それぞれ過去の大劫、現在の大劫、未来の大劫のことであるという説と、それぞれの大劫のうちの住劫にあたるという説があるが、いずれにしても、過去・現在・未来の住劫に千仏ずつの出生があるとするのが三世(三劫)三千仏説である。
-------

「『倶舎論』によるならば、一大劫を成す成・住・壊・空劫は、それぞれ二十の中劫からなる」の次は「住劫には人間の寿命が」と続かないと意味が通りませんが、「住」が抜けてしまったようですね。
この後、大津氏は『愚管抄』『水鏡』が四劫説の影響を受けているとされます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その5)─数量的分析

2023-02-15 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

それでは、慈光寺本の全体像を網羅的・具体的に把握するため、冒頭から少しずつ慈光寺本を読んで行くことにします。
今日は二月十五日ですが、承久の乱が承久三年(1221)、今から802年前の五月十五日に始まって六月十五日に終わったことに倣って、一ヵ月くらいで終えられたらいいな、と思っています。
なお、網羅的・具体的な把握とは数量的な把握でもあり、各々の記事の分量、全体の中におけるバランスも随時確認して行く予定です。
『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(岩波書店、1992)では、上巻は298~332頁までの35頁、下巻は333~368頁までの36頁、合計71頁分あり、1頁は原則として15行です。
ただ、巻初・巻末に15行に満たないページが3頁あり(p298は12行、p332は9行、p333は12行)、またp323~324にかけて、例の義時追討の院宣とその読下し文が載っているので、読下しの部分は重複していますから、p324は実質6行です。
結局、上下二巻は全部で、

 15×(71-4)+(12+9+12+6)=1044行

となります。
従って、10行で概ね1%の割合となります。
本当に厳密にやろうとすれば字数で計算する必要があるかもしれませんが、記事のバランスを考える上では行数で十分ですね。
ところで約一か月前、「慈光寺本に関する杉山次子説の問題点(その11)」では、

-------
慈光寺本の場合、岩波新日本古典文学大系では承久記上下全体が72ページ分(298-369p)なのに、伊賀光季関係の場面だけで12ページ分(312-323p)あり、全体の約17%です。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/26d4f2cc7c60f4968b411b939102a3e5

と書きましたが、p369は「承久記下終」とあるだけなので全体は71頁です。
また、伊賀光季追討の場面は、行数で数えると163行なので、

163/1044≒0.156

となって、正しくは全体の約16%ですね。
それにしても異常な割合です。
また、「もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その1)─今後の方針」で、

-------
例えば慈光寺本には佐々木広綱の息子・勢多伽丸に関する膨大な記事があり、岩波新日本文学大系本では63行、4頁強を占めています。
戦後処理の中でも特に重要な後鳥羽・土御門・順徳・六条宮・冷泉宮の配流関係記事ですら、

後鳥羽院 55行
土御門院 4行
順徳院  44行
六条宮・冷泉宮(二人まとめて) 5行

であるのに、勢多伽丸関係記事は後鳥羽院の約15%増しということになります。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bef1581e4af838417cc067d8247cfb42

と書いたように、下巻では勢多伽丸関係記事の分量の多さが気になりますが、こちらは63行(※)なので、

63/1044≒0.06

となり、全体の約6%です。
しかし、伊賀光季追討と比べても歴史的重要性が全くない話なので、何でこのような話を延々と語るのかがやはり謎ですね。
このように、慈光寺本の記事のバランスは、個々のエピソードの歴史的重要性に照らすと首をかしげたくなるものもありますが、逆に言えば、こうしたバランスの悪さが作者の個性を反映している訳です。
従って、藤原能茂説で全ての記事のバランスを説得力のある形で説明できるかどうか、も私の課題となります。
ということで、またまた前置きが長くなってしまいましたが、次の投稿から本文に入ります。

※追記(2023年7月1日)
 岩波新日本古典文学大系では、
  侍従殿・勢多伽丸(共通)…2行
  侍従殿のみ…8行
  勢多伽丸…53行
となっていて、合計で63行。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その4)─宇治川合戦の不在

2023-02-15 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

それでは、

(1)慈光寺本の作者は藤原能茂
(2)能茂が想定した読者は娘婿の三浦光村
(3)目的は光村に承久の乱の「真相」を伝え、「正しい歴史観」を持ってもらうこと

という仮説に基づき、多くの歴史研究者のように慈光寺本を自説に都合の良い部分だけ「つまみ食い」するのではなく、その全体像を網羅的・具体的に把握して、この仮説が成り立つかを検証して行きたいと思います。
その際には、視点を宝治合戦前の光村に置き、光村にとって慈光寺本がどのように見えたかを想像して行くこととします。
私としては、慈光寺本の描く承久の乱に際しての父子相克・兄弟相克が、光村にとって非常に生々しいものと思えたのではないかとの見通しを持っています。
また、慈光寺本だけでなく、流布本との比較も網羅的・具体的に行います。
国文学界の多数説とは異なり、私は慈光寺本が「最古態本」ではなく、むしろ流布本の「原型」(といっても現在の流布本から、「後鳥羽院」「順徳院」といった諡号を取り除いた程度のもの)が「最古態本」だと想定しています。
北条義時を大悪人と描く慈光寺本と比較すると、流布本は遥かに穏健で常識的な歴史観に基づいており、幕府要人にも説得的で、1230年代に公表されたとしても何の問題も生じなかったはずです。
そうした穏健な歴史物語に対し、独自の歴史観に基づき、これが承久の乱の「真相」だと主張したのが慈光寺本だろう、というのが私の見通しです。
流布本の作者にとってみると、慈光寺本は基本的な歴史観が特異で、歴史的事象を分析する姿勢が歪んでいるために、執筆の参考にはならず、一から全て書き直さなければならないような作品だった、としか思えません。
逆に、慈光寺本の作者にとっては、平凡な流布本の原型は参考資料として十分に役に立ち、そこから自分の歴史観にそぐわないものを削除し、自分独自の見解を付加すれば作業は容易です。
そのあたりも、慈光寺本と流布本の記事を具体的に比較した上で、流布本が慈光寺本を参考にしたのでなく、慈光寺本が流布本を参考にしたのだ、つまり流布本の「原型」が「最古態本」なのだ、ということを論証してみたいと思います。
ところで、慈光寺本と流布本を比較すると、慈光寺本には勝敗を決する戦いとしては一番重要だった宇治川合戦が存在しない、という問題があります。

野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/720bda78e0bd74b0ec0fa850e7591248

存在しないのだから記事の比較のしようがありませんが、何故に慈光寺本には宇治川合戦が存在しないのか。
この点に関しては、野口実氏が先行研究として重視する杉山次子氏は、もともと慈光寺本には宇治川合戦記事が存在したのだが、それがいつしか「欠落」したのだ、と言われています。
ただ、慈光寺本を通読する限り、特に記事の「欠落」を思わせるような部分はなく、ストーリーの流れはそれなりに自然です。

慈光寺本に関する杉山次子説の問題点(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/718d04b83821cfc68496cbf7d0dcc487

実は、慈光寺本の作者が藤原能茂で、能茂が想定した読者は娘婿の三浦光村だと考えると、この問題は極めて簡単です。
というのは、光村は承久の乱に参加しているので、自らは宇治川合戦に直接関与していないものの、兄・泰村が宇治川合戦で奮戦しており、宇治川合戦の経緯については能茂以上に熟知しています。
従って、能茂は宇治川合戦について書く必要が全くなかった訳ですね。
流布本には光村の名は一箇所だけに登場します。
即ち、

-------
 武蔵守、供御瀬を下りに宇治橋へ被向けるが、其夜は岩橋に陣を取。足利武蔵前司義氏・三浦駿河守義村、是等は「遠く向候へば」とて、暇〔いとま〕申て打通る。義氏は宇治の手に向んずれ共、栗籠〔くりこ〕山に陣を取。駿河次郎、同陣を双べ取たりけるが、父駿河守に申けるは、「御供仕べう候へ共、権大夫殿の御前にて、『武蔵守殿御供仕候はん』と申候へ(ば)、暇給りて留らんずる」と申。駿河守、「如何に親の供をせじと云ふぞ」。駿河次郎、「さん候。尤〔もつとも〕泰村もさこそ存候へども、大夫殿の御前にて申て候事の空事〔そらごと〕に成候はんずるは、家の為〔ため〕身の為悪く候なん。御供には三郎光村も候へば、心安存候」と申ければ、「廷〔さて〕は力不及」とて、高所に打上て、駿河次郎を招て、「軍には兎〔と〕こそあれ、角〔かく〕こそすれ。若党共、余はやりて過〔あや〕まちすな。河端へは兎向へ、角向へ」など能〔よく〕々教へて、郎等五十人分付て、被通けり。
-------

ということで(松林靖明校注『新訂承久記』、p104以下)、「駿河次郎」泰村は父・「三浦駿河守義村」と別行動をしたいと申し出ます。
義村からその理由を問われた泰村は、「権大夫殿」北条義時の御前で「武蔵守殿(泰時)と一緒に戦います」と誓ったので、その誓を破る訳には行かない、という理由に添えて、「御供には三郎光村も候へば、心安存候」と言います。
つまり、「三郎光村」は父・義村に同行した訳ですね。
この後、「桓武天皇より十三代の苗裔、相模国住人、三浦駿河次郎泰村、生年十八歳」(p105)は、「足利武蔵前司義氏」と功を競って、泰時の命令がないにもかかわらず宇治橋での戦闘を始めてしまいます。
結果的にはこれは失敗だったのですが、泰村の活躍は相当な分量で流布本に描かれています。
他方、主戦場となった宇治川合戦に加わらなかった「三郎光村」は特に活躍する場もなく、流布本には名前だけがチラッと出ただけで終わってしまいます。
ということで、宇治川合戦を描くと泰村の活躍だけが目立ち、光村にしてみれば良い気分ではないでしょうから、能茂にとっては書く必要がなかったばかりか、書かない方が賢明だったでしょうね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その3)─「正義の人」光村

2023-02-14 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

私も今月二日に田渕句美子氏の『中世初期歌人の研究』(笠間書院、2001)を読んで、三浦光村室が藤原能茂の娘であることに気付くまでは三浦氏に何の興味もなく、付け焼刃で基礎知識をかき集めているところですが、三浦氏研究の第一人者・高橋秀樹氏の見解は基本的には正しそうですね。

高橋秀樹氏「大吉文庫」
http://daikichibunko.a.la9.jp/

『北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)の前回紹介した部分の直前で、高橋氏は、

-------
 こうして『吾妻鏡』の記事を分析すると、安達氏が主導して三浦氏を討とうとしたという話は虚構であり、時頼と泰村との間では、最後まで和平交渉が重ねられていたが、和平を望む泰村の意に反して、三浦一族内の好戦派勢力に引きずられる形で挙兵に至ったというのが実像であろう。
-------

と書かれていますが(p178)、「三浦一族内の好戦派勢力」の中心は言うまでもなく光村です。
『吾妻鏡』宝治元年(1247)六月七日条には、頼朝法華堂の天井に隠れていたという承仕法師の証言が記録されていますが、「万事有骨張之気」があった光村が「禅定殿下(九条道家)のご命令に従って計画を実行していれば権力を握れたのに、優柔不断な兄のために一族滅亡となってしまい、悔やんでも悔やみきれない」と兄を強く非難するところまでは理解できても、その後、刀で自分の顔面を削り、顔が分かるかどうかを人々に尋ねた、というところで、光村の余りの激しさにちょっと引いてしまいます。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma38-06.htm

『吾妻鏡』には、この顔面エピソードの直前に「泰村・光村等令執権柄者、以氏族兮飽極官職可掌領所々」(泰村・光村が権力を握れば一族の官職も所領も思いのままだ)みたいなことも書かれていますが、少なくとも光村の激しさには、そうした私益追求という合理的判断とは次元が異なる何かがあるように感じられます。
この顔面エピソードと、戦闘に向かう光村が妻の藤原能茂娘と小袖を交換したという『吾妻鏡』六月十四日条の小袖エピソードに加え、能茂が慈光寺本の作者であった可能性を考慮すると、私は光村が「正義の人」だったのではないかと想像します。
即ち、北条氏が後鳥羽院の帰洛の希望を最後まで峻拒したため、後鳥羽院の遺骨を抱えて隠岐から戻ることとなった能茂は北条氏を深く恨み、慈光寺本によって承久の乱の「真相」を娘婿の光村に伝えつつ、本来あるべきであった三浦氏と北条氏との「正しい」関係、本来あるべきであった三浦氏と朝廷との「正しい」関係を示唆し、光村に北条氏打倒を期待したのではないか。
そして、光村と能茂娘は単に愛情で結ばれただけの夫婦関係ではなく、「正しい」歴史観に基づく「正義」を共有する思想的「同志」であったのではないか。
そして、光村が「正しい」歴史観に基づく「正義の人」であった以上、光村とその影響を受けた「正義の人々」にとって北条氏との妥協はありえず、最後まで自分たちの「正義」を貫き通すしかなかったのではないか。
ま、今のところ、こんな見通しを立てています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その2)─執筆の目的

2023-02-13 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

(その1)で書いた仮説に若干の追加を行います。
慈光寺本の作者が藤原能茂、想定読者が能茂の娘婿の三浦光村だとして、執筆の目的は何か。
それは宝治合戦での光村の役割が自ずと物語っていて、三浦一族が北条氏打倒のために立ち上がることを期待した、ということになります。
宝治合戦はいったい何故起きたのか。
近時の三浦一族研究をリードされている高橋秀樹氏の『三浦一族の中世』(吉川弘文館、2015)や『北条氏と三浦氏』(吉川弘文館、2021)などを見ると、承久の乱後の北条氏と三浦氏の関係は宝治合戦の直前まで本当に円滑だったようです。
『北条氏と三浦氏』によれば、

-------
【前略】頼朝時代から実朝時代に至るまで、幕府においては侍受領が禁じられていたことを考えれば、義村の駿河守任官は特別な待遇であった。義村の前任者は北条時房・北条泰時、後任は北条重時であるから、義村の任駿河守は、北条氏が持っていた枠を譲られての任官だったことがわかる。北条氏が鎌倉殿の外戚として源氏一門に準じて受領となったように、義村は北条氏の外戚の立場で、北条氏に準じる形で受領となったのであろう。ただし、この段階で義村が諸大夫層に準じていたとはいいがたいから、幕府における侍受領の初例とみた方がいいだろう。建仁二年(一二〇二)に義村の娘と北条泰時は結婚し、翌年嫡子時氏が産まれていた。時氏誕生から程なくして、義村の娘と泰時は離婚したとみられるが、それでも北条氏と三浦氏との関係に大きな変化はなかった。泰時嫡子の外祖父という立場で、義村は駿河守になったのである。北条氏と三浦氏との協調関係なしに、義村の身分上昇は実現しなかった。
-------

とのことです。(p97)
そして承久の乱で義村は弟・胤義の誘いを拒否して北条氏側に立ち、大将格として東海道軍に加わり、泰村も泰時の下、宇治川合戦で活躍します。
また、承久の乱の戦後処理に関して、高橋氏は「幕府占領軍にあって、新天皇の擁立、院領荘園をめぐる交渉という最重要事項は北条時房でも泰時でもなく、三浦義村によって担われた」(p108)とされます。
寛喜二年(1230)、義村孫の北条時氏は二十八歳で病死してしまいますが、その後も三浦氏と北条氏の関係は円滑で、暦仁元年(1238)正月、第四代将軍・九条頼経が上洛した際には義村が入京の行列の先陣となり、六月の春日社参詣でも行列の先陣は義村だったことは、義村の幕府での地位の高さを象徴しています。
翌延応元年(1239)十二月に義村死去、翌月の延応二年(仁治元年、1240)正月に北条時房死去、更に仁治三年(1242)六月には北条泰時も死去して幕府指導層は世代交代しますが、それでも義村を継いだ泰村は北条氏との協調関係を維持し、新執権・経時を支えます。
若干微妙な情勢となったのは寛元四年(1246)閏四月、経時が二十三歳の若さで病死し、時頼への代替わりに際して起きた宮騒動(寛元の政変)の時ですが、高橋氏によれば、

-------
 これらの情報を総合すると、寛元の政変とは、頼経とその側近が、執権就任間もない時頼を除こうとした事件で、時頼の後釜として誘われたのが北条一門名越流の北条光時であった。三浦氏も謀反への関与を疑われたが、泰村が弟家村を時頼側近に遣わして関与していないことを弁明し、それは頼経にも確認をとって証明された。ふたたび信頼を得た泰村も加えた「深秘の沙汰」で、頼経の京都送還を含む事件の処理が行なわれたということなのだろう。九月一日にも時頼は泰村を招き、政務の眼目についても意見を聞いている。寛元の政変によって、北条氏と三浦氏との関係が壊れることはなかった。
-------

とのことです。(p165)
さて、「寛元の政変によって、北条氏と三浦氏との関係が壊れることはなかった」とすると、その翌年に何故宝治合戦が起きたのかが非常に不思議に思えてきます。
つまり、三浦一族の研究が進めば進むほど、三浦氏は本当に北条氏のために協力的で、また、幕府における三浦氏の地位の上昇と権益の確保は北条氏との協調関係があってのことであることが明らかになり、従って両者が壮絶な殲滅戦を展開しなければならなかった原因が分からなくなります。
宝治合戦を論じた後、高橋氏は、

-------
 北条義時・三浦義村以来、数十年にわたった北条氏と三浦氏の盟友関係はここに終わった。しかし、その結果は、時頼・泰村という両家の当主が望んだことではなかった。北条氏と三浦氏の対決は、数十年の歴史のなかで、宝治元年六月五日の一日だけ、しかも、たった六時間に過ぎなかった。
-------

と言われますが(p178)、何か狐につままれたような話です。

-------
『対決の東国史2 北条氏と三浦氏』

唯一のライバルという通説は正しいのか? 『吾妻鏡』の記述を相対化する視点から検証。両氏の役割と関係に新見解を提示する。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b593892.html

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

慈光寺本は本当に「最古態本」なのか。(その5)

2023-02-12 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

新しいシリーズに取り組む前に、渡邉論文で気になった点を少し補足しておきます。
渡邉氏も他の多くの国文学者同様、慈光寺本が「最古態本」であり(p77)、慈光寺本を基礎として「他の後続諸本」が成立した、という立場です。
私は従前から慈光寺本が本当に「最古態本」なのかを疑っており、既に四回程検討しています。

慈光寺本は本当に「最古態本」なのか。(その1)~(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c25a682f90750c44c19caed426eb4141
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8ce17f2c51d4e775757e1a1365739939
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da774d684b1b10a3a5402115adb045b1
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/163881a9ba2466771003a2000f2fe64d

そして、渡邉氏が丁寧に分析された和歌関係記事の場合、その「記事内容が、他の後続諸本と大きく異なる」(p78)どころか、ごく僅かな、誰が書いても同じような部分を除き、全く重なり合っていません。
即ち、「他の後続諸本」の作者としては、慈光寺本の記事の配列から内容に至るまで、参考にできる部分が全くなく、結局、すべて自分で調べ直して書くしかないことになります。
これは和歌だけでなく、全体の約四分の一を占める戦後処理の部分についても同様で、記事の配列は全く違っていて参考にならず、内容も(勢多伽丸関係を除き)殆ど重なり合いません。
しかも、流布本には、流布本の方が慈光寺本より古いのではないかと思わせる記事があります。
即ち、順徳院の配流について、流布本には、

-------
同廿ニ日、新院、佐渡国へ被移させ給。御供には、冷泉中将為家朝臣・花山院少将茂氏・甲斐兵衛佐教経、上北面には藤左衛門大夫安光、女房右衛門佐局以下女房三人参給ふ。角〔かく〕は聞へしかども、冷泉中将為家朝臣、一まどの御送をも不被申、都に留り給。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/95463ff3ed9d424ab627e6c5ae5ede87

とありますが、藤原定家の息子・為家(二十四歳)が順徳院の佐渡配流に同行するとの噂があったものの、「一まどの御送をも不被申、都に留り給」というエピソードは、結局行かなかったのだから歴史的には何の重要性もなく、諸記録にも残りにくい話です。
しかし、これが流布本に記されたということは、為家の身の処し方に好意的ではない流布本作者が、行くと決まっていたのに都を一歩も出ないなんてひどい奴だな、と筆誅を加えたように感じられます。
とすると、そうした一時的な噂話を実際に聞いた人が作者で、成立時期も承久の乱からさほど隔たっていない頃と考えるのが自然です。
ま、別にこのエピソードが流布本にあって慈光寺本には存在しないことが、流布本が慈光寺本に先行する決定的証拠という訳ではありませんが、流布本も決して鎌倉後期とか南北朝時代に成立した訳ではないことの一つの証左にはなるのでは、と思います。

藤原為家(1198-1275)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%82%BA%E5%AE%B6

なお、『吾妻鏡』承久三年七月廿日条は、

-------
新院遷御佐渡國。花山院少將能氏朝臣。左兵衛佐範經。上北面左衛門大夫康光等供奉。女房二人同參。國母修明門院。中宮一品宮。前帝以下。別離御悲歎。不遑甄録。羽林依病自路次皈京。武衛又受重病。留越後國寺泊浦。凡兩院諸臣存没之別。彼是共莫不傷嗟。哀慟甚爲之如何。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

となっていて、流布本と比較すると、

「花山院少将茂氏」→「花山院少將能氏」
「甲斐兵衛佐教経」→ 「左兵衛佐範經」
「上北面には藤左衛門大夫安光」→「上北面左衛門大夫康光」
「女房右衛門佐局以下女房三人」→「女房二人」

という具合いに細かな違いはありますが、記載の順番は同じで、「花山院少将」が途中で病気となり京都に戻ったこと、「甲斐兵衛佐教経」(範経)が重病のため寺泊に留まったことも共通です。
要するに『吾妻鏡』は流布本とそっくりで、従来は流布本が『吾妻鏡』の記述を取り入れたものと考えられていたようですが、全く逆の可能性もありますね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その1)─今後の方針

2023-02-12 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

歴史学研究者が中世文学を資料として利用する場合、当該作品の全体像をきちんと把握した上で利用するのではなく、自分の学説に都合の良い部分だけを切り取って「つまみ食い」をするのが通例です。
慈光寺本の場合、「つまみ食い」の対象は亀菊エピソード中の義時が長江荘の地頭だとする部分と、八人の有力御家人宛ての義時追討院宣に限定されており、戦後処理、特に和歌に関係する部分などきちんと読んでいる歴史学研究者は僅少だと思われます。

「長江庄の地頭が北条義時だと考える歴史研究者たちへのオープンレター」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da89ffcbbe0058679847c1d1d1fa23da
北条義時追討の「院宣」が発給されたと考える歴史研究者たちへのオープンレター
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94e39f6b117aa61c0aef682dc46feb0e

また、歴史学研究者が国文学の研究成果を利用するに際しても、国文学の成果を鵜呑みにしている人が大半です。
例えば慈光寺本が「最古態本」だ、などという主張が歴史学研究者の間でも当然のこととして一人歩きしていますが、実際に従来の国文学者の議論を追ってみると、慈光寺本では「後鳥羽院」・「順徳院」といった諡号を用いていないので、それらを用いている他本よりも先行していまちゅ、といった幼稚園児レベルの議論はありますが、きちんと慈光寺本と他の本、特に流布本を具体的かつ網羅的に比較・検証した上で、慈光寺本が流布本に先行していることを論証した文献は(管見の限り)存在しません。
歴史学研究者も、長村祥知氏あたりは国文学の研究史を丁寧に追ってはいますが、独自の分析と言えるほどのものはありません。
そこで私は、慈光寺本に関する国文学の成果を根本から疑い、

(1)慈光寺本の作者は藤原能茂
(2)能茂が想定した読者は娘婿の三浦光村

という仮説に基づいて、この仮説が慈光寺本の記事と矛盾しないかを網羅的に検証してみたいと思います。
そして、その網羅的検証に際しては、視点を三浦光村に置き、もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら、ひとつひとつの記事が光村にとってどのように受け止められたであろうかを想像しつつ、検討して行きたい思います。

三浦光村(1205-47)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%85%89%E6%9D%91

暫定的な検討では、私の仮説が慈光寺本の記事と積極的に矛盾・抵触する部分はありませんが、綺麗に説明できない部分もあります。
例えば慈光寺本には佐々木広綱の息子・勢多伽丸に関する膨大な記事があり、岩波新日本文学大系本では63行、4頁強を占めています。
戦後処理の中でも特に重要な後鳥羽・土御門・順徳・六条宮・冷泉宮の配流関係記事ですら、

後鳥羽院 55行
土御門院 4行
順徳院  44行
六条宮・冷泉宮(二人まとめて) 5行

であるのに、勢多伽丸関係記事は後鳥羽院の約15%増しということになります。
いったい、これは何故なのか。
慈光寺本作者にとって勢多伽丸はどのような存在だったのか。
こうした問題も丁寧に検討してみたいと思います。

勢多伽丸
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%A2%E5%A4%9A%E4%BC%BD%E4%B8%B8

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

順徳院と九条道家の長歌贈答について(その11)

2023-02-12 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

(その1)で紹介したように、渡邉裕美子氏には『平家公達草紙 『平家物語』読者が創った美しき貴公子たちの物語』(笠間書院、2017)という、櫻井陽子・鈴木裕子氏との共著があります。

「自分たちの願望や憧れを込めて、様々な手法を使って、平家公達の横顔を二次創作」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6703ff7fe27f91124f8f3212ecd5e21c
「なぜ、これほどまで、隆房が陰に陽に登場するのでしょう」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cbcfa49a126ba3923496a500b44ee277
「こうした子孫の女性たちの存在感が、隆房まで有名にしたのかもしれません」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/37bc204a27979ec252726d8e427d1e56
「久我の内大臣まさみちといひし人のむすめ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3ab76a839eb0083d28c8781849db4898

同書は、

-------
『平家物語』に満足できないなら
自分たちで書けばいいじゃない?
『平家物語』の登場人物を借り、鎌倉時代の読者が創った
美しき御曹司たちが織りなす逸話集『平家公達草紙』。
公達への夢と憧れの詰まった、二次創作の元祖!

http://kasamashoin.jp/2016/12/post_3835.html

という内容で、国文学の初心者にも楽しく読める好著ですね。
鎌倉時代は、既に逸失してしまった作品を含め、相当数の「作り物語」が創作された時代で、渡邉氏が言われるように、こうした「作り物語」では「歌は物語に合わせて作られ、地の文が変われば作り替えられることが」あり、それは「作り物語では当然のことなので、このような営為は自然」だったと思われます。
しかし、『平家公達草紙』などは平家滅亡から一世紀近く経ってからの作品なので、登場人物は既に全員が死んでおり、自由に書いてもどこからも文句が出ません。
一般に「四部合戦状」として一纏めに論じられることの多い『保元物語』・『平治物語』・『平家物語』・『承久記』の場合も、前三者はそれぞれ保元の乱(1156)、平治の乱(1159)、源平合戦(治承・寿永の乱、1180-85)から相当期間経過した後に制作されたと考えられており、多少の創作があっても文句を言う人は殆ど生存していません。
しかし、『承久記』、特に1230年代の成立であることがほぼ確定している慈光寺本の場合はどうかというと、その時期にはまだまだ実際に承久の乱を体験した人々が多数存命であり、生々しい記憶を保持しています。
京方の残党狩りは、十津川方面に潜伏していた二位法印尊長が安貞元年(1227)六月に京都で発見され自害し(『吾妻鏡』同年六月十四日条)、更に寛喜二年(1230)十二月、叡山の日吉社八王子で法師として庵室に潜んでいた大内惟信が密告により六波羅に捕縛(『明月記』同年十二月十四日条)されたあたりでほぼ終息しています。
また、公家に対する責任追及も、義時追討の官宣旨に上卿(責任者)として関与し、「承久三年後篭居」していた久我通光が安貞二年(1228)三月二十日に「朝覲行幸時始出仕。弾琵琶」(『公卿補任』)とされたあたりで終わっています。
ただ、そうかといって、1230年代に入ったら承久の乱のことなど忘れ去られ、何を言っても書いても良い自由な時代がきたかというと、そんなはずもなく、幕府批判・北条義時批判を公言することは許されなかったはずです。
1230年代の執権は北条義時の嫡子・泰時(1183-1242)であり、六波羅探題北方も義時三男の重時(1198-1261)、南方も義時の甥の時盛(1197-1277)ですから、慈光寺本のように義時を大悪人として描く作品が公表されたら、関係者は処罰の対象になったでしょうね。
従って、慈光寺本が1230年代に成立したとしても、せいぜい秘密保持が可能なごく狭い範囲で閲覧されただけで、世間に広まることはなかったはずです。
ただ、慈光寺本は『平家物語』ほど完成度が高い作品ではないものの、その内容は複雑で面白く、作者は同書執筆のために大変な熱意をもって、膨大な時間と労力を注いで完成させたことは間違いありません。
とすると、何のために、という当然の疑問が生じてきます。
ところで私は、慈光寺本において藤原能茂が非常に奇妙な形で登場していることから、能茂が慈光寺本の作者ではなかろうかという疑問を抱きました。
そして、田渕句美子氏に能茂に関する専論があることを知り、田渕氏の『中世初期歌人の研究』(笠間書院、2001)を読むためにわざわざ埼玉県の某図書館まで行ってみたのですが、同書を確認するまで、私は能茂が優れた歌人だったらどうしようと不安でした。
渡邉論文を素直に読むと、慈光寺本の作者は「下手の横好き」レベルの歌人でなければなりません。
従って、能茂が優れた歌人であったならば慈光寺本の作者候補からはずすか、あるいは上手な歌人がわざわざ下手な歌を作るという工作をした理由を探らねばなりません。
しかし、「第四章 藤原能茂と藤原秀茂」の冒頭には、

-------
 藤原能茂(西蓮)は、勅撰歌人ではなく、家集もなく、今その作として伝えられている和歌は、慈光寺本『承久記』に見える「すず鴨の身とも我こそなりぬらめ波の上にて世をすごすかな」という一首のみにすぎない。この歌も能茂作とは必ずしも断定し難いであろう。後鳥羽院隠岐配流後も隠岐で院に仕えていたが、隠岐で編まれ初学の人も出詠した『遠島御歌合』に詠進していないから、おそらく和歌は苦手としていたのだろう。しかし、能茂の存在は、秀能や後鳥羽院を考える時に無視できぬものがあり、特に晩年の後鳥羽院との関わりは非常に深く、そして伝承の世界へも広がりをみせている。本節では能茂について述べておきたい。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0be06ac4886fc275de8e50db40a65dcd

とあり、私はホッと胸をなでおろした訳であります。
そして、更に読み進めると、

-------
ちなみに能茂には、友茂のほかに、娘が一人いたことが知られている。この女子は、後述するが三浦光村の室となった女性であり、およそ承久年間前後の誕生と考えられるので、この女子を都に残してきたのであろう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d3bf634d5a4254f70a203b669c775288

とあり、私は本当に吃驚しました。
即ち、ここで能茂が想定した慈光寺本の読者は三浦光村だったのではないかという可能性が出て来た訳です。
そして、光村が読者であれば、能茂が広く公表できない作品の制作に情熱を注いだ理由も自ずと明らかになります。

田渕句美子氏「藤原能茂と藤原秀茂」(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/58d88be0900cedfdbd79ed8793d9f809

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする