- 大正時代(大正天皇 原敬内閣~高橋是清内閣)
1921(大正10)年 〈ワシントン会議始まる(~1922年)〉★
Washington Conference begins; it results in the signing of the Four- Power Treaty, the Nine-Power Treaty and the Washington Naval Treaty.
引く武威(ぶい)は主に ワシが説く。
1921年 ハーディング
主力艦を制限 ワシントン会議
四カ国条約 九カ国条約
幣原喜重郎 加藤友三郎
徳川家達
1921年、アメリカ大統領ハーディングはワシントン会議を提唱。原敬内閣は加藤友三郎・幣原喜重郎・徳川家達らを全権として送り、太平洋問題に関する四(し)カ国条約、中国問題を扱う九カ国条約(1922年)、主力艦を制限するワシントン海軍軍縮条約(1922年)を締結。この結果、ワシントン体制と呼ばれる新たな国際秩序が成立した。
〈四カ国条約と九カ国条約〉 ワシントン会議は太平洋、および極東問題の解決をめざしたもので、太平洋問題では四カ国条約が結ばれ、日英同盟は廃棄された。また、中国問題では九カ国条約が成立し、石井・ランシング協定が廃棄された。「日英同盟」が四文字であること、「石井・ランシング協定」が九文字であることを意識すれば、それぞれの条約で廃棄された事項が簡単に識別できる!
[point]
1.ワシントン会議では、九カ国条約のかわりに石井・ランシング協定が、四カ国条約のかわりに日英同盟(日英同盟協約)が破棄された。
2.ワシントン海軍軍縮条約で主力艦保有比率が、対英米6割と決定。
[解説]
1.戦後唯一の超大国化したアメリカは、ヴェルサイユ条約に外交的に手足を縛られることを嫌い、調印しなかった。そのアメリカが、東アジアの諸問題処理と軍縮について、各有力国をワシントンに呼びつけるようにして開いたのがワシントン会議(1921~22年)。
2.四カ国条約(1921.12/13)→太平洋諸島の勢力現状維持に合意。この条約に伴い日英同盟が破棄された。中国大陸進出などをめぐる日米対立があり、アメリカの廃棄要望にアメリカとの友好を第一とする英が同意したもの。
3.九カ国条約(1922.2/6)→中国問題に関してアメリカの主張に沿って、日本の特殊権益を否定した条約。したがって大戦中に結ばれ、日本の特殊権益をあいまいに認めていた石井・ランシング協定(寺内正毅内閣のとき1917年に締結)は破棄された。
4.海軍軍縮条約(1922.2/6)→主力艦(戦艦・航空母艦)保有比率が英米5日本3仏伊1.67(対英米6割)と決定。10年間は主力艦の建造禁止。なお補助艦(駆逐艦・巡洋艦)については不調に終わる。
5.日本は日英同盟を破棄され、中国に関する独占的な地位を否定されて散々な目に。海軍軍縮条約でもアメリカの優越が決定。以後、日本外交はワシントン体制の枠のなかで英米と協調していくしかなくなった。枠を無視すれば破滅が待っていた。
〈2017関西学院大・全学部2/1:「
第一次世界大戦勃発後の1915年1月、日本は大隈重信内閣のもとでいわゆる二十一カ条の要求を袁世凱政府に対して行なったが、これにより列強の警戒感はさらに高まった。そこで日本は1917年には海軍の一部をヨーロッパに派遣するなど大戦への協力姿勢を一段と強めることにより、連合国との協調をはかった。1918年に休戦が成立し、翌年にf)パリで講和会議が開かれると、日本も連合国の一員としてこれに参加し、戦後国際秩序の一翼を担うことになった。
問5.下線部fに関連し、パリ講和会議及びそれに続く国際体制に関連する記述として、誤っているものを下記より選びなさい。
ア.日本は西園寺公望・牧野仲顕らを全権とする交渉団をパリ講和会議に派遣した。
イ.パリ講和会議では日本が人種差別撤廃案を提案したが、条約案には含められなかった。
ウ.ワシントン会議において九カ国条約が締結され。これに伴い日英同盟が廃棄された。
エ.ワシントン海軍軍縮条約は全全権の一人であった加藤友三郎海軍大臣のもとで調印された。」
(答:ウ× ※九カ国条約→四カ国条約)〉
〈2017関西大・全学部
(F)第一次世界大戦の終結後、アメリカの提唱でワシントン会議が開催された。これには、海軍軍縮と東アジアにおける日本の勢力拡大を抑制する意図が込められており、太平洋諸島の現状維持と太平洋問題から生じる紛争の平和的解決をめざす(6)【(ア)九カ国条約(イ)四カ国条約(ウ)不戦条約】が締結された。」
(答:イ※パシフィック)
〈2017早大・文
問4 下線b石井-ランシング協定に関する説明として誤っているものはどれか。1つ選べ。
ア 第2次大隈内閣が外務大臣をアメリカに派遣して調印した。
イ 当時、アメリカは第二次世界大戦に参戦していた。
ウ アメリカは中国における日本の「特殊権益」を認めた。
エ 両国は中国の領土保全・門戸開放を承認しあった。
オ ワシントン会議で締結された九カ国条約にともない廃棄された。」
(答:ア× ※大隈重信内閣→寺内正毅内閣)〉
〈2017明治大・文
A.1933年(昭和8)5月の[ a ]の締結によって、柳条湖事件以来の日中間の事実上の戦争状態は停止されたかに見えたが、「満洲国」では内戦状態が続くとともに軍部は華北分離工作を進めた。中国国内では、抗日運動の気運が高まり、1936年12月の[ b ]をきっかけとして国共合作への動きが強まった。1937年7月、盧溝橋において日中両軍の衝突が起こり、現地では停戦協定が成立したが、[ c ]内閣は華北派兵を決定し、全面戦争となった。1938年1月、政府は、「爾後[ d ]せず」との声明を出したが、かえって戦争終結への道を遠ざける結果となった。その後、重慶に首都を移した中国政府は、欧米諸国の支援を受けて抗戦を続けたため、日本軍はその援助ルートを遮断するために南進し、1940年9月、[ e ]に進駐するに至り、英米との対立をさらに深めることとなった。
問1.空欄a~eに入るのに適当な語句を漢字(dは漢字とひらがな)で記せ。なお、cには人名(姓名)を入れよ。
問2.下線部は、この内閣が出した「第1次声明」とも呼ばれるものであるが、同年11月に出された「第2次声明」は一般にどのように呼称され、英・米両国はそれにどのような条約に反しているとの反応を示したか。条約名を記せ。
(答:問1a塘沽停戦協定(日中軍事停戦協定)、b西安事件、c近衛文麿、d国民政府を対手と、e北部仏印。問2〔呼称〕東亜新秩序声明〔条約名〕九カ国条約)〉
〈2013早大・政経
問 下線部②ワシントン会議について、正しいのはどれか。
イ 補助艦の制限が議論されたが、米・英・日の意見対立で失敗した。
ロ 国際連盟の設立が決定された。
ハ 四カ国条約が締結され、日英同盟の破棄が決定された。
ニ 英・米・独・日など15カ国が不戦条約に調印した。
ホ 日本の補助艦を対米6.975割とする軍縮条約が調印された。」
(答:ハ〇 ※イ×補助鑑については大きな対立は未だ起きていない。このあと超ド級の巡洋艦などの建艦競争が生じ問題化していく、ホ×主要艦を対英米6割)〉
〈2013早大・国際教養
問 1922年に起こった出来事として誤っているもの、はどれか。1つ選べ。
ア 主力艦保有量の比率に関する海軍軍縮条約が調印された。
イ 中国問題に関して9カ国条約が調印された。
ウ 日英同盟協約の破棄が同意された。
エ 日本はシベリアから撤退した。
オ 山東懸案解決条約が結ばれた。」
(答:ウ× ※×四か国条約1921年に応じて破棄)〉
〈2012慶大・商:「
Ⅲ.次の文章を読み、下記の設問に答えなさい。
1914年7月に、第一次世界大戦が始まった。第2次[ 34 ]内閣は、ヨーロッパ諸国が中国問題に介入する余力のないことを利用して、1915年に中国の袁世凱政府に二十一カ条の要求を突き付け、大部分を承認させた。日本の中国進出に対しては、アメリカがもっとも批判的であった。そこで、アメリカとの関係を調整するために、1917年に日本の特派大使[ 35 ]がアメリカの国務長官ランシングと交渉し、中国の領土保全・門戸開放と日本の中国における特殊権益の承認を確認しあった。
(ツ)1918年、ドイツが降伏し、第一次世界大戦は連合国側の勝利に終わった。翌年にパリで講和会議が開かれ、日本も5大連合国の一員として[ 36 ]らを全権として派遣した。6月に講和条約が開かれ、ヨーロッパでは新しい国際秩序のヴェルサイユ体制がつくられた。パリ講和会議では、アメリカ大統領[ 37 ]の提議により、国際連盟の設立が決められた。国際連盟は、1920年に発足し、日本は常任理事国の一つとなった。
1921年、アメリカ大統領[ 38 ]は、海軍軍縮と太平洋および極東問題を審議するために、ワシントン会議を開催した。日本は海相の[ 39 ]・駐米大使[ 40 ]らを全権として派遣した。ワシントン会議においては、まず、米・英・仏・日の間で、太平洋諸地域の現状維持を決めた四カ国条約が結ばれ、これにより[ 41 ]が廃棄されることになった。翌1922年、九カ国条約とワシントン海軍軍縮条約が結ばれた。それらの一連の国際協定にもとづくアジア・太平洋地域の新しい国際秩序は、ワシントン体制とよばれた。」
(答:34大隈重信、35石井菊次郎、36西園寺公望、37ウィルソン、38ハーディング、39加藤友三郎、40幣原喜重郎、41日英同盟協約)〉