●昭和時代(昭和天皇 浜口雄幸内閣)
1930(昭和5)年 〈ロンドン海軍軍縮会議〉★★
London Naval Conference; terms of the resulting naval arms limitation treaty provoke intense criticism of the government by the military.
戦(いくさ)を阻(はば)む 論通す。
1930年 浜口雄幸内閣 ロンドン海軍軍縮会議 統帥権干犯問題
1929年にアメリカで起こった世界恐慌が広がる中、浜口雄幸内閣は外相に幣原喜重郎を起用し、協調外交を復活。1930年、イギリスのマクドナルド首相の提唱で開かれたロンドン海軍軍縮会議に全権団を派遣し、ロンドン海軍軍縮条約の制限に関する条約に調印し、英:米:日の補助艦の保有量の比率を10:10:7と決めた。これに対し、軍部や右翼は統帥権の干犯であると政府を激しく攻撃した。
[point]
1.浜口内閣は1930年、国内の反対を抑えロンドン海軍軍縮条約に調印したところ、統帥権干犯として問題化された。
[解説]
1.浜口雄幸内閣は、ふたたび幣原喜重郎外相による協調外交が復活。対中国関係を改善するために、1930(昭和5)年には中国と日中関税協定を結び、条件つきではあったが中国に関税自主権を認めた。
2.また英米に協調する軍縮の方針に従って、1930(昭和5)年、ロンドン海軍軍縮会議に参加した。同会議では、ワシントン海軍軍縮条約で除外された補助艦(巡洋艦・駆逐艦・潜水艦)の保有量がとり決められた。当初の日本の要求のうち、補助艦の総トン数の対英米約7割は認められたものの、大型巡洋艦の対米7割はうけ入れられない(6割に決定)まま、政府は条約調印にふみ切った(ロンドン海軍軍縮条約)。主力艦建造禁止もさらに5年延長することがきまった。
3.これに対し、調印は統帥権の干犯であると、野党立憲政友会、海軍軍令部、右翼などは、激しく政府を攻撃した。なお、海軍内部ではこれをきっかけに賛成の「条約派」と反対の「艦隊派」という派閥抗争が生まれた。同内閣の井上準之助蔵相が、海軍の予算を大幅に削った(緊縮財政)ことも艦隊派の不満を高めることとなった。
4.軍の最高指揮権である統帥権は天皇に属し、内閣が管掌する一般国務から独立し、その発動には陸軍参謀総長・海軍軍令部長が直接参与するとされた。ただし憲法解釈上の通説では、兵力量の決定は憲法第12条の編制大権の問題で、内閣の輔弼(ほひつ)事項であり、第11条の統帥大権とは別であった。
5.政府は枢密院の同意を取り付けて、条約の批准に成功したが、同年11月には浜口首相が東京駅で右翼青年に狙撃され重傷をおい、翌年退陣を余儀なくされまもなく死亡した。
〈2013早大・社会科学
問6.下線部(6)海軍軍縮会議に関連する記述として不適切なものはどれか。2つ選べ。
イ ワシントン会議の日的の1つは、東アジアにおける日本の膨張をおさえることであった。
ロ ワシントン会議当時、軍令部が主力艦の対米英7割論を主張した。
ハ ワシントン海軍軍縮条約では、今後10年間主力艦建造の禁止が決められた。
ニ ロンドン海軍軍縮会議では、主力艦建造中止をさらに10年間延長することが決められた。
ホ 口ンドン海軍軍縮会議では、海軍軍令部の加藤寛治部長が反対論を押し切って条約に調印した。
(答:ニ×5年の誤り、ホ×加藤友三郎の誤り ※ロ〇7割の主張は正しいが、認められたのは6割。)〉
〈2013早大・社会科学
問7.下線部(7)統帥権に関連する記述として不適切なものはどれか。1つ選べ。
イ 統帥権の発動には、参謀総長と海軍軍令部長が参与した。
ロ 帷幄上奏(いあくじようそう)権とは、軍令機関が閣議を経て天皇に上奏する権能のことである。
ハ 軍制では、平時には陸軍省と海軍省がそれぞれ陸海軍の行政、人事の実権を握った。
ニ 通常の憲法解釈では、兵力量の決定は内閣の補弼事項である。
ホ 軍令部条例では、兵力量の決定にも軍令部の同意が必要とされた。」
(答:ロ× ※軍を指揮統率する権能を統帥権という。この統帥権ついての輔弼(天皇に意見を言うなどの補佐をおこなう)の権能が帷幄上奏権とよばれ、陸軍参謀総長と海軍軍令部長が内閣から独立して専断的に行使できた)
〈2013立命館・文法済営などA方式
民政党の[ E ]内閣がロンドン海軍軍縮条約を締結したことは統帥権干犯であるとの批判を呼び起こし」
(答:浜口雄幸)