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ベック式!難単語暗記法ブログ

質の高い暗記法、芸術的なゴロ合わせ、感動の記憶法をあなたに!抜群に効果的な実例満載!

最澄

2018-05-25 | 入試問題+ゴロ合わせ

嗅覚散華 狷介さ。

久隔帖(きゅうかくじょう)・山家学生式(さんけがくしょうしき)(顕戒論(けんかいろん))(最(さいちょう)・天(てんだい)宗)


[句意]9から3券の券を買ってちょうだい、という句。


[point]

1.最澄天台宗をひらき、規則書『山家学生式』(818)を定め、『顕戒論』(820)で大乗戒壇(だいじょうかいだん)設立を主張し、書状『久隔帖』が知られる。

[解説]
1.最澄(767~822)近江生まれで、比叡山で修学し、804(延暦23)年遣唐使に従って入唐し、天台の教えを受けて帰国し、天台宗をひらいた。

2.彼はそれまでの東大寺戒壇における受戒制度に対して、新しく独自の大乗戒壇の創設をめざした。


3.最澄の受戒の主張は、南都の諸宗から激しい批判を浴びることとなり、『顕戒論』を著して反論した。


4.その死後、大乗戒壇の設立が公認され、最澄のひらいた草庵にはじまる比叡山延暦寺は仏教教学の中心となっていった。


5.最澄は比叡山(山家)で修行僧(学生)を養成するための規則書『山家学生式』を定めた。


6.最澄の現存する唯一の書は『久隔帖(きゅうかくじょう)』である。


2013早大・政経

 山家学生式を定めたのは誰か。

 ア最澄 イ恵慈 ウ空也
 エ日蓮 オ空海」

(答:ア最澄)

818年 最澄、『山家学生式』

ハイヤー散華 再調査。

818年 『山家学生式』最澄


最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張した。

Saicho wrote his own ideas about Buddhism in"Sangegakushoshiki," in which he emphasized that he wanted

to have those who took vows on Mt. Hiei spend 12 years in Rozan training on the mountain, and after 

finishing take over the guidanceof junior monks on Mt. Hiei if appropriate, or go out and work as Buddhist 

leaders all over Japan.


2014明大・国際日本(国際日本)

  12世紀頃、京末の都の話である。[ A ]を開祖とする天台宗の総本山がある[ B ]から続々と僧侶が下山し、仏法を民衆の間に広めた。これがいわゆる「鎌倉新仏教」の発端である。

問1 空欄Aに入る人物名を下記の1~4の中から選びなさい。

 1空海 2源信
 3最澄 4空也

問2 空欄Bに入る語句を下記の1~4の中から選びなさい。

 1高野山 2比叡山
 3身延山 4金剛山」

(答:A3、B2)

2014明大・文(文、史学地理、心理社会

 最澄は唐の天台山に学んで天台宗を伝え、比叡山に延暦寺を建てた。(カ)著作として『顕戒論』がある

820年2月 最澄、『顕戒論』

ハニワ見解 再調査。

820年  『顕戒論』  最澄

南都の僧綱から反駁にこたえて『顕戒論』を執筆。

In response to the counterargument from the Sogo (Priest Office) of Nara, he wrote "Kenkai Ron" (A Clarification of the Precepts).



問9 下線部(カ)に関連して述べた文として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。


 1.最澄は、南都仏教勢力の戒壇独占は認めていた。

 2.最澄は、南都諸宗の学僧と教義上の論争は慎重に避けた。
 3.最澄がめざしたのは、小乗戒壇の設立であった。
 4.最澄の著作『顕戒論』は、南都諸宗批判に向けられた。」

(答:4 ※1独占を非難、2論争を展開、4大乗戒壇の誤り)〉

2013早大・政経

1.山家学生式を定めたのは誰か。

 ア最澄 イ恵慈 ウ空也
 エ日蓮 オ空海」

(答:ア)〉

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987年 〈カペー朝の成立〉★★

2018-05-25 | 入試問題+ゴロ合わせ

 ●フランス(カペー朝)

Hugh Capet is crowned king of France, bringing a new dynasty to power.

急場なら行く 壁に乗る。

987年  パリ   ユーグ=カペー  カペー朝 ノルマン人撃退

987年、西フランク王国カロリング朝の断絶で、ノルマン人の撃退に功を挙げたユーグ=カペーは有力諸侯に推され、パリを首都にカペー朝を開いた。カペー朝の成立によってフランス王国」と称されるようになったが、国王は北フランスの一部を領有するだけで、王権は弱く、各地に大諸侯が分立していた。歴代の王はカトリックと結び、着実に王権を伸張してゆき、12世紀末には神聖ローマ帝国につぐ強国となった。

 AFTER  カペー朝の王権は、はじめは東フランク王国に比べても微弱であったが、12世紀頃から次第に強大なものになっていったとくにフィリップ2世、ルイ9世、フィリップ4世の三人が王権の拡大に大きな功績があったが、1328年に断絶し、ヴァロワ朝が成立した。

 

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日産コンツェルン

2018-05-25 | 入試問題+ゴロ合わせ

満州兄さん 阿諛養子。

満州 日産コンツェルン 川義介

[point]
1.日産コンツェルンは、鮎川義介が創始し、満州で発展した。

[解説]
1.日産コンツェルンは、鮎川義介(1880~1967)が、日本産業会社を中心に創始した新興財閥。

2.鮎川義介は山口県出身で、義弟の経営する不振の久原(くはら)鉱業に入って建て直し、日本産業と改称。この日本産業を持株会社にし、日産自動車日立製作所などからなる日産コンツェルンを形成。

3.さらに政府の要請で1937年、満州に本社を移転し、満州重工業開発株式会社と改称。満鉄にかわって満州の重化学工業を独占支配した。

2015明大・営:「
 日本の輸出の伸びに対して、各国からソーシャル・ダンピングであるとの非難が高まり、輸入制限や高関税の設定などで対応した。輸出の伸長とならんで、財政支出の拡大により産業界は活気づいて、1933年頃には生産水準が世界恐慌の前のレベルまで回復した。重化学工業の発展が著しく、(ス)新興財閥(新興コンツェルン)と呼ばれる企業のグループが台頭し、そのなかには満州や朝鮮へ進出したものもあった。

問13 下線部(ス)の新興財閥(新興コンツェルン)の名称と経営者の組み合わせとして正しいものを、A~Dの中から一つ選べ。

 A 日曹-大河内正敏
 B 日窒-野口遵
 C 森 -森喜朗
 D 日産-中野友礼

(答:問13B〈ち〉 ※日曹(中野友礼)理研(大河内正敏))〉

2014明大・経営

 欧州で第二次世界大戦が勃発すると、日本はドイツとの関係を更に深め、アメリカと関係がいっそう悪化し、日本は太平洋戦争へと突入していった。この時期、日本経済は(ウ)軍需と保護政策に支えられ、重化学工業が発達し、(エ)新興財閥と呼ばれる企業集団が台頭した

問3 下線部(ウ)に関連して、1937年に設立され、物資動員計画を作成する政府機関の名称を、漢字で楷書で正しく記入しなさい。


問4 1919年に、渋沢栄一らによって設立された半官半民の労使協調機関で、のちに産業報国運動を提唱した団体の名称を、漢字で楷書で正しく記入しなさい。


問5 下線部(エ)新興財閥と言われる企業集団が台頭したに関連して、新興財閥の一つで、日産コンツェルンを結成した経営者は誰か。正しいものを1つ選べ。


 A 鮎川義介 B 小平浪平
 C 浅野総-郎 D 大倉喜八郎」


(答:問3企画院

1937年(昭和12年)5月 企画院設置。

行く皆物資 企画院。

1937年 物資動員 企画院

、問4協調会

1919年12月渋沢栄一ら、協調会設立。

行く行く渋い 協調会。

1919年 渋沢栄一 協調会

、問5A)〉

2010明大・政経

設問6 下線部(カ)軍需品生産優先の体制に関連して、軍需品生産で利益をあげたとされる重化学工業の新興財閥のうち、満州産業開発五カ年計画において重要な役割を果たすなど、満州ととくに関係の深い財閥の創始者は誰か。A~Eからひとつ選べ。

 A 中野友礼  B 森矗昶
 C 大河内正敏 D 鮎川義介
 E 野口遵」

(答:D)

Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス
海外での市場を狙い、産コンツェルンは満州で、コンツェルンは朝鮮で鉱山などの事業を展開し、現地社会にも強い影響を残した。
Aiming for overseas markets, Nissan Konzern Company Group and Nicchitsu Konzern Group developed their businesses such as mining ventures in 
Manchuria and Korea respectively, which left a strong mark on modern 
society.


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