嗅覚散華 狷介さ。
(久隔帖(きゅうかくじょう)・山家学生式(さんけがくしょうしき)(顕戒論(けんかいろん))(最澄(さいちょう)・天台(てんだい)宗)
[句意]9から3券の券を買ってちょうだい、という句。
[point]
1.最澄は天台宗をひらき、規則書『山家学生式』(818)を定め、『顕戒論』(820)で大乗戒壇(だいじょうかいだん)設立を主張し、書状『久隔帖』が知られる。
[解説]
1.最澄(767~822)近江生まれで、比叡山で修学し、804(延暦23)年遣唐使に従って入唐し、天台の教えを受けて帰国し、天台宗をひらいた。
2.彼はそれまでの東大寺戒壇における受戒制度に対して、新しく独自の大乗戒壇の創設をめざした。
3.最澄の受戒の主張は、南都の諸宗から激しい批判を浴びることとなり、『顕戒論』を著して反論した。
4.その死後、大乗戒壇の設立が公認され、最澄のひらいた草庵にはじまる比叡山延暦寺は仏教教学の中心となっていった。
5.最澄は比叡山(山家)で修行僧(学生)を養成するための規則書『山家学生式』を定めた。
6.最澄の現存する唯一の書は『久隔帖(きゅうかくじょう)』である。
〈2013早大・政経
山家学生式を定めたのは誰か。
ア最澄 イ恵慈 ウ空也
エ日蓮 オ空海」
(答:ア最澄)
818年 最澄、『山家学生式』
ハイヤー散華 再調査。
818年 『山家学生式』最澄
最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張した。
Saicho wrote his own ideas about Buddhism in"Sangegakushoshiki," in which he emphasized that he wanted
to have those who took vows on Mt. Hiei spend 12 years in Rozan training on the mountain, and after
finishing take over the guidanceof junior monks on Mt. Hiei if appropriate, or go out and work as Buddhist
〈2014明大・国際日本(国際日本)
12世紀頃、京末の都の話である。[ A ]を開祖とする天台宗の総本山がある[ B ]から続々と僧侶が下山し、仏法を民衆の間に広めた。これがいわゆる「鎌倉新仏教」の発端である。
問1 空欄Aに入る人物名を下記の1~4の中から選びなさい。
1空海 2源信
3最澄 4空也
問2 空欄Bに入る語句を下記の1~4の中から選びなさい。
1高野山 2比叡山
3身延山 4金剛山」
(答:A3、B2)
〈2014明大・文(文、史学地理、心理社会)
最澄は唐の天台山に学んで天台宗を伝え、比叡山に延暦寺を建てた。(カ)著作として『顕戒論』がある。
820年2月 最澄、『顕戒論』
ハニワ見解 再調査。
820年 『顕戒論』 最澄
南都の僧綱から反駁にこたえて『顕戒論』を執筆。
In response to the counterargument from the Sogo (Priest Office) of Nara, he wrote "Kenkai Ron" (A Clarification of the Precepts).
問9 下線部(カ)に関連して述べた文として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。
1.最澄は、南都仏教勢力の戒壇独占は認めていた。
2.最澄は、南都諸宗の学僧と教義上の論争は慎重に避けた。
3.最澄がめざしたのは、小乗戒壇の設立であった。
4.最澄の著作『顕戒論』は、南都諸宗批判に向けられた。」
(答:4 ※1独占を非難、2論争を展開、4大乗戒壇の誤り)〉
〈2013早大・政経
1.山家学生式を定めたのは誰か。
ア最澄 イ恵慈 ウ空也
エ日蓮 オ空海」
(答:ア)〉