出逢って52年。出逢いは大学生。明治大学軽音楽部。23歳でダウンタンブギブギで作曲と作詞。山口百恵さんへの楽曲提供(70曲)を。
山口百恵さんと30年後に再開した。
出逢いは入学した日。宇崎さんは中学高校グラスバンドやっていたので、大学に入ったら軽音楽部に入った。そうしたら先輩からすぐ勧誘して来いと言われた。そして声をかけたのが阿木燿子さん。阿木さんが大学入って門をくぐってすぐに声をかけられた。音楽はやったことなかった。宇崎さんが全て教えるからと言われた。宇崎さんは「運命の人」に巡り合ったと思った。大学時代から結婚しようと何度も伝えていた。それを聞いて、「では来年ね」と柳に風で流していた。(断られるとは思っていなかったのか?)「これは決まっていることだ」と思っていた。
「イエスタディ」 母に捧げる歌だと。こんな歌の作り方があるんだと。
詩を書いてくださいと周りの人に言っていた。阿木さんの家に行って父や母にも頼んでいた。阿木さんが好きな曲はと尋ねたら、「骨まで愛して」だと。骨まで愛しての詩の切実な感じが好きだった。
彼と知り合っていなかったら詩を書いていなかった。阿木さんの詩を見てちょっと違うな。面白い曲を書かしてくれる詩だった。「港のヨーコ横浜」が最初の作詞家としてデビュー。新聞のチラシの裏に詩が書いてあった。アルバムのタイトルのメッセージだけ聞いていた。それが「脱どん底」だった。出だし「ちょっと前なら覚えていないが」がスーダラ節からイメージが抜けなかった。それで語りにした。
山口百恵さんの歌を創るきっかけは山口百恵さん本人からの依頼だった。30年振りに最近会った。なんで僕たちに依頼があったの?と尋ねた。山口百恵さんが16歳だった。番組で一緒になった時があって、僕たちの曲を聞いて依頼されたと。「プレイバック2」をスタジオでもう一度これを二人で聞いて、お互いが作詞と作曲を褒めあっていました。プレイバックは詩の中で巻き戻しがあった。直ぐに作曲はできた。本当は明日創らないといけないということで苦労した。いろいろと冒険させて貰った。山口百恵さんの引退で、もう書かないのかな、もう書かなくてよいのかなと。縁で仕事をさせていただいている。
彼は私が感動する詩を書いた時に、私と結婚してよかったと思うらしい。尊敬できないと一緒に暮らせないと思う(宇崎さん)。今はメロディを先に書いている。そしてよい詩を書いて欲しいと思っている。最近は「このメロディでいいの?」と言われる。「遺作になるとしたらこれでよいの?」と言われる。
ロックで「曽根崎心中」が二人のライフワークになっている。
「What a Woderful world ワンダフルワールド」 黒人でなおかつ白人に受け入れられる曲である。言葉は分かりやすく温かい。
二人で英語を習いだした。阿木さんは予習復習をやるけど、宇崎さんは何もしないでレッスンに行くだけ。学生時代も阿木さんは一所懸命暗記していたが、宇崎さんは一生懸命カンニングペパー作っていた。
感想;
出逢いは不思議です。声をかけられていなかったら、勧誘を受けていなかったら、二人の楽曲は生まれませんでした。
「縁は奇なるもの」と言いますが、まさにその通りだと思いました。その縁を二人は生かされたのでした。
それにしても仲の良いご夫婦でした。
山口百恵さんと30年後に再開した。
出逢いは入学した日。宇崎さんは中学高校グラスバンドやっていたので、大学に入ったら軽音楽部に入った。そうしたら先輩からすぐ勧誘して来いと言われた。そして声をかけたのが阿木燿子さん。阿木さんが大学入って門をくぐってすぐに声をかけられた。音楽はやったことなかった。宇崎さんが全て教えるからと言われた。宇崎さんは「運命の人」に巡り合ったと思った。大学時代から結婚しようと何度も伝えていた。それを聞いて、「では来年ね」と柳に風で流していた。(断られるとは思っていなかったのか?)「これは決まっていることだ」と思っていた。
「イエスタディ」 母に捧げる歌だと。こんな歌の作り方があるんだと。
詩を書いてくださいと周りの人に言っていた。阿木さんの家に行って父や母にも頼んでいた。阿木さんが好きな曲はと尋ねたら、「骨まで愛して」だと。骨まで愛しての詩の切実な感じが好きだった。
彼と知り合っていなかったら詩を書いていなかった。阿木さんの詩を見てちょっと違うな。面白い曲を書かしてくれる詩だった。「港のヨーコ横浜」が最初の作詞家としてデビュー。新聞のチラシの裏に詩が書いてあった。アルバムのタイトルのメッセージだけ聞いていた。それが「脱どん底」だった。出だし「ちょっと前なら覚えていないが」がスーダラ節からイメージが抜けなかった。それで語りにした。
山口百恵さんの歌を創るきっかけは山口百恵さん本人からの依頼だった。30年振りに最近会った。なんで僕たちに依頼があったの?と尋ねた。山口百恵さんが16歳だった。番組で一緒になった時があって、僕たちの曲を聞いて依頼されたと。「プレイバック2」をスタジオでもう一度これを二人で聞いて、お互いが作詞と作曲を褒めあっていました。プレイバックは詩の中で巻き戻しがあった。直ぐに作曲はできた。本当は明日創らないといけないということで苦労した。いろいろと冒険させて貰った。山口百恵さんの引退で、もう書かないのかな、もう書かなくてよいのかなと。縁で仕事をさせていただいている。
彼は私が感動する詩を書いた時に、私と結婚してよかったと思うらしい。尊敬できないと一緒に暮らせないと思う(宇崎さん)。今はメロディを先に書いている。そしてよい詩を書いて欲しいと思っている。最近は「このメロディでいいの?」と言われる。「遺作になるとしたらこれでよいの?」と言われる。
ロックで「曽根崎心中」が二人のライフワークになっている。
「What a Woderful world ワンダフルワールド」 黒人でなおかつ白人に受け入れられる曲である。言葉は分かりやすく温かい。
二人で英語を習いだした。阿木さんは予習復習をやるけど、宇崎さんは何もしないでレッスンに行くだけ。学生時代も阿木さんは一所懸命暗記していたが、宇崎さんは一生懸命カンニングペパー作っていた。
感想;
出逢いは不思議です。声をかけられていなかったら、勧誘を受けていなかったら、二人の楽曲は生まれませんでした。
「縁は奇なるもの」と言いますが、まさにその通りだと思いました。その縁を二人は生かされたのでした。
それにしても仲の良いご夫婦でした。