・『死んでもいいけど、死んじゃだめ」の言葉は、僕が、昔の僕自身に伝えたかった言葉でもあります。そして、いま死を考えざるを得ないほど孤独でつらい想いを抱えている人に、知って欲しい言葉です。
・大学3年生のときに(「あなたのいばしょ」)創設し、スタートから2年経った現在まで、約36万件の相談を受けました。いまも一日平均1,000軒の相談が寄せられます。その約4割が10代の子どもたちです(2022年6月現在)。
・僕は2回、本気で「死にたい」と思ったことがあります。
小学6年生のときは、崖下に身を投げようとして、当時住んでいた高台にあった家のフェンスによじ登りましたが、飛び降りる勇気がありませんでした。高校3年生のときには、担任の先生が親身になって助けてくれたおかげで、なんとか生き続けることができました。
僕は偶然にも、紙一重のところで死なずに生きることができました。
しかし、それは運がよかっただけのことです。
当時の僕と同じように、悩みや問題を抱え、誰にも相談できず死んでいる人は大勢います。
あまりに生きているのが苦しいと、そのつらさが死ぬ怖さを上回り、人は命を絶つという絶対にあってはならない選択をしてしまうことがあります。
そのような悲しい出来事をひとつでも減らすために、安心してつらい想いを打ち明けられる場をつくりたい、何よりも、孤独を感じている人が気楽に相談できる場所をつくりたい。「あなたのいばしょ」は、その思いから生まれました。
・死にたいほどつらいときに「死んではいけない」と言われると、そこには絶望しかなくなります。「死ぬ」という選択肢を消さないからこそ、「いま生きること」を選べる場合があるのです。
・僕がこの本でどうしても伝えたいのは、孤独や生きづらさを感じるのは、恥ずかしいことでもなく、自分が弱いからでもないということです。
そして、もしいま自分は一人ぼっちだと感じていたり、将来への不安をや心の重苦しさを感じたりしているのであれば、迷わずに誰かに頼って欲しいということです。
・生きていれば、心が悲鳴を上げるときもあれば、「もう笑顔になんてなれない」と絶望するときもあります。
そんなときは、ひとりで我慢したり無理をしたりしなくていいのです。
あなたの周りには、親身になってくれる人や応援してくれる人が必ずいます。
・僕が育ったのは、愛媛県のとある小さな町。自然豊かで、近所付き合いがさかんな地域でした。父と母は25歳近い年の差があったものの一般的な過程で、人の出入りも多く、幼い頃は寂しさを感じることはありませんでいた。
・穏やかな毎日が変わり始めたのは、小学校の低学年頃からです。
母が次第に家を空けるようになり、そのことを責める父とのケンカが絶えなくなったのです。母には持病があり、外出はその治療法を探すという理由からでしたが、ときには何日も外泊が続くようになりました。
父も仕事が忙しかったので、家には一人だけということが増えました。母がいないので来客もなくなり、食事は父が買ってきた出来合いのものばかりになりました。
たまに母が帰ってくると、いつも夫婦ゲンカが始まります。父は短気な性格で、母は感情の起伏が激しい人でした。だから、近所に聞こえるような大声で怒鳴り合いが始まり、ときには、お互いが物を投げたり暴力を振るったりすることもありました。
二人のいさかいはだいたい夜中だったので、小学生の僕は、両親の怒鳴り声や物が壊れる音が聞こえないように、枕で耳をふさいだり小声で歌を歌ったりして、その時間をやり過ごしました。
・母が家を出ていったのは、小学5年生のときです。
・それまでの父は、母とは衝突するものの僕にとっては良き父親でした。ところが母がいなくなったあと、父は僕にきつく当たるようになったのです。
もともと父は厳格な人でしたが、次第にイライラすることが多くなり、親子の会話がへりました。そして、暴言を吐かれたり、ときには、暴力を振るわれたりするようになっていきました。
・父のいる家は、安心できる居場所ではなくなりました。だから僕は、もうひとつの居場所だった学校へは毎日通い、それまでと同じように過ごしました。
しかし家に帰ると、折り合いの悪い父がいます。その恐怖や自分の居場所がないという不安から、僕は次第に眠れなくなりました。その結果、朝起きられず、たったひとつの安全な居場所だった学校へも行けなくなってしまったのです。
・父は、学校を休んで部屋にいる僕を厳しく責めました。僕自身も学校へ行きたいと思っているのに叱責され、ますます居場所がなくなっていきました。
身を守るには、父となるべき顔を合わせないようにするしかありません。
父が家にいる間は2階の部屋にこもり、父が不在のときや寝静まったときを見計らって階下に降りて冷蔵庫のなかにあるものを食べる。眠れないので夜通し起きていて、昼間少しウトウトする。そんな昼夜逆転の生活が始まりました。
・心がすり減って何もしたくなくなりました。生きようとする気力がなくなって、お腹も空かず、お風呂に入ろうとも思えないのです。
・そのうち何かを口にしても、まったく味が感じられなくなりました。数日何も食べないことも多く、僕はガリガリにやせていきました。
・そうすると視界が真っ暗になり、いっそのこと命を絶ったほうが楽になるという思いが頭をもたげてきます。その声にあがらうには、生きようとする気力が必要です。
でも、僕にはもうその気力が残っていませんでした。
ある夜、僕は庭に出ました。僕の家は高台にあり、庭のフェンスを越えたら楽になれる」と思いました。・・・
真っ暗な闇のなかで、生きる苦しさと死ぬ怖さがせめぎ合い葛藤する。そんな日が続きました。
・そのうち、僕の体調はさらに悪化し、最終的に、一日に何度もパニック症状が起きるようになりました。そのたびに息ができないくらい心臓が痛くなるのです。救急車を呼んで欲しいと頼みましたが、父は無視し続けました。
しかし、たまたまやってきた祖母がやせ細った僕を見て驚き、父を促して病院に行ったところ、そのまま入院と診断。ようやく、僕は父から解放されました。
病院では、カウンセラーや医師と話をしたりしましたが、僕の孤独や苦しみが解消したわけではなりません。
・入院中、意外な人物がお見舞いに現れました。僕を置いて出ていった母です。・・・
あの元の暮らしにもう二度と戻りたくない。その思いが強かった僕には、母と暮らすという選択肢しか残っていませんでした。
・退院してすぐに上京し、中学1年生の2学期から僕は東京の中学校に通い始めました。
新しい家で待っていたのは、一人きりの生活でした。持病が少し良くなっていた母は、再婚者と始めた仕事で忙しく、ずっと家を空けていたからです。外泊がつづくこともあれば、夜中や僕が登校しているときに帰宅していることもありました。二人で家で顔を合わせることは、ほとんどありませんでした。
・最初は、そのお金でお弁当を買っていましたが、すぐに飽きて、近所の定食屋さんで毎日夕食を食べるようになりました。
・洗濯などの家事も自分でやり、学校のプリントも母の筆跡をまねてサインして提出していました。
・中学3年生になり進路を決めるときは、自分の偏差値で入れそうな学校のほかに、ある高校を記念受験しました。その高校には留学プログラムがあり、好きだった英語が学べることが魅力だったのです。・・・
結局、合格したのは祈念受験したその高校だけで、僕は幸運にもその高校に入学することができました。
ところが、さっそくある問題が起こります。2年時の留学先について話し合う大事な三者面談を、母がすっぽかしたのです。自分の子どもが1年近く過ごす留学先について聞くのですから重要な面談です。保護者が現れないのは、前代未聞の事態でした。
このことをきっかけに、担任のF先生は僕の家庭環境に気づき、親身になって相談になってくれるようになりました。
僕の家にはもうひとつ問題がありました。
入学金や学費は払ってくれていたものの、母親と再婚相手には留学にかかる費用を出すだけの経済力がなく、留学費があることを確認する「残高証明書」を提出できなかったのです。
結局、留学直前に父方の祖母が亡くなり、僕に遺してくれていた遺産をつかうことでなんとか留学することができました。F先生が各方面を調整し助けてくれたからこそできた手続きでした。
・「普通の幸せ」を味わった留学時代
高2の春から12月頃まで、ニュージーランドで過ごすことになりました。・・・幸せを絵に描いたようなホストファミリーが、僕をあたたかく迎えてくれました。
じつは、この家族に出会えたのもF先生のはからいでした。先生は「普通の家庭の幸せを味わってきなさい」と。僕の留学先を選んでくれたのです。
その言葉通り、僕は何年もの間忘れていた「普通の家庭の幸せ」をたっぷり味わいました。
・重い足取りで帰国した僕を待っていたのは、再婚相手と離婚し一人になっていた母でした。
その日から僕は母親との壮絶な確執、そして人生で一番苦しいい日々が始まりました。
・持病が悪化していた母は、働くことができない状態になっていました。憎いと思っていた母ですが見捨てるわけにもいきません。生活費を稼ぐために僕はすぐアルバイトを始め、コンビニやレストランの配膳などのほか、ときは工場の日雇いアルバイトなどもかけもちしました。
慣れないバイトをして家に帰ると、情緒不安定だった母は小さなことでよく感情が高ぶり、何かにつけて僕を責め立てます。・・・
やがて、僕と母は毎日激しく罵倒し合うようになりました。
・心を押し殺し、自分に嘘をついている生活。17歳の僕には、そんな生活は苦しくてたまりませんでした。そして、生きるのがこんなにつらいのなら死んでしまいたいと思うようになりました。その思いを抑えられなくなり、実際にリストカットしたこともあります。
・バイトから帰ったある夜、僕は限界を迎えました。もう死にたい、逃げ出したいという思いを止められなくなったのです。
しかし、このまま黙って学校を辞めれば迷惑をかけてしまうと考えて、F先生にメールを書くことにしました。1年生のときからずっと担任で僕を気にかけてくれていたF先生に迷惑がかかるのだけは避けなければいけない。そんな思いからです。高校3年生になる直前のことです。・・・
書き終わったときはには、深夜3時を過ぎていました。バイトで疲れ果てていた僕は、そのまま気絶するように眠りに落ちました。
・次の日、電話の音で目が覚めました。寝ぼけながら出て見ると、F先生からでした。
「お前、いまどこにいるんだ?」と聞かれ、ぼんやりした顔で「家で寝ています」と答えると「マンションの下まで降りてこられるか」とF先生は言いました。「はい」と答えて携帯電話を見て見ると、先生から何十件もの着信が入っていました。
言われた通り、マンションの入り口まで降りると、そこにF先生が立っていました。
本来であれば、授業が行われている時間です。先生は自分の授業を調整して駆けつけてくれていたのです。
僕の姿を見て、こわばっていたF先生の顔は心の底からホッとした表情に変わりました。その様子を見たとき、僕は生まれて初めて「この人は信頼できるかもしれない」と思いました。
それまでの僕は、信頼できると思える大人に出逢ったことはありませんでした。表面的な慰めや無責任な助言を受けた経験はあっても、心を開いて自分の悩みや苦しみを相談できると思える大人は一人もいなかったのです。
だから最初は、本当にF先生に頼っていいのかどうか戸惑いましたが、先生は、そんな僕に根気よくつきあってくださいました。教師としてではなく、一人の人間として向き合ってくださる先生に、僕は少しずつ自分の気持ちを吐き出し、胸のなかにある苦しさを打ち明けていきました。
あとになって聞いたのですが、先生はその日の朝、メールを見てすぐに僕の家に向かってくれたそうです。
ところが、母は実際とは違う住所を学校の書類に書いていました。そのため、先生は前に僕がしていた話を頼りに住んでいる場所の検討をつけ、近所の人に聞いて回りながらマンションを探し当ててくれたのでした。
・先生は、その後も何かと相談にのってくれましたが、僕の事情を知って無理に学校へ来るようにとは言いませんでした。その代わり、アルバイトを終えた僕が5時間目から登校すると「よく来たな」と笑顔で褒めてくれました。そうやって信頼できる人に見守ってもらえることが、僕にとっては大きな安心につながりました。
アルバイトと学校の両立もなんとかできるようになり、物理的に一緒にいる時間を減らしたことで、母とのイザコザも減っていきました。その結果、経済的、時間的には苦しいいものの、精神的は少しずつ落ち着きを取り戻していきました。
・過去を悲観するより、どう生きたいのかを考える
間違いなく言えるのは、F先生がいなかったら僕は生きていないし進学もしていない。いまの活動もしていないということです。
F先生は社会人を経て教職に就いた人で起業経験があり、そこで得た生き方や考え方などを僕に語ってくれました。
先生の言葉で、いまも大切にしているのが「過去に悲観的になるのではなく、これからの人生を自分がどう生きたいのかを考えなさい」と言う言葉です。
それまでの僕は、今日を生きるのに精いっぱいで、将来について考えたこともありませんでした。だから、最初そう言われたときは、正直どうやって考えればいいのかよくわかりませんでした。でも先生は、授業でも僕個人に対しても、ことあるごとにそう話すのです。
「自分はいった何がしたいのだろう」と考えたとき、頭にうかんだのがバイト先で出会った人たちでした。
一緒に働いて人のなかには、親に虐待されている高校生もいれば、家の事情で出生届を出してもらえず戸籍のない人もいました。大学進学のために働いている20代の人もいました。みなそれぞれに深刻な悩みや問題を抱え、必死で生きている人たちでした。
彼らと出会ったことで、苦しいのは自分だけではないと初めて知りました。また、そんな彼らとともに過ごすことで、自分自身を肯定できたような気がしました。そして、社会が抱える問題を始めて意識したのです。
私立の高校へ通い、さらに留学までできた僕は、彼らから見ればとても恵まれた存在でした。
・理不尽な社会のしくみを変えたい
僕も含めて彼らに共通しているのは、ほとんどが一人親だということでした。
一人親家庭は経済的に厳しく、何より、子どもが頼れる人の数が圧倒的に少ないという共通点があります。
どういうことかというと、僕がそうだったように、一緒に暮らす親とうまくいかなくなったら頼れる人が誰もいなくなるのです。
また、そもそも親が働いているので、頼れる人と過ごせる時間自体が少ないのです。
僕は、ひとり親家庭の子どもを支援する制度について調べてみました。するとそこには、さまざまな問題がありました。特に心の問題については、相談窓口が存在するものの、きちんと機能しているとんはとても言えない状態でした。
・こんな理不尽なことがあっていいのだろうか。僕は憤りを感じました。
そしてこれからの人生で自分に何ができるのか、何をしたいのかと考えたとき、この状況をなくすために活動したいという思いが湧いてきたのです。
僕は、「これからの人生を自分と同じような一人親家庭で育った人のために使いたいと決意し、そのために大学に進学しようと決めました。僕が望む状況を社会で実現するためには、どうしても進学して勉強することが必要だったからです。
・しかし、強い思いを持って進学を決めたものの、学力的にも経済的にも高いハードルがありました。
まず、成績は最下位に近く、中学高校を通して英語以外の科目で50点以上を取ったことがない僕には猛勉強が必要でした。でも、アルバイトを辞めるわけにはいきません。睡眠時間を削り、とにかく必死に勉強しました。
また学費の面は、奨学金を取得できるようにF先生に相談に乗ってもらいました。
進学を決めてからの毎日はとにかく無我夢中だったので、当時の記憶はあまり残っていません。くじけそうになると、F先生の「過去を悲観するより、これからどう生きたいのかを考えよ」という言葉を思い出しました。
そのようにハードルをひとつひとつクリアしていきましたが、卒業式の日には、まだ進路を決めることができずにいました。その後、慶応義塾大学に進学できたのは、9月入学の制度があったからです。
F先生のほかにも、いろいろな人の助けを借りて、僕は無事に大学に入ることができました。一人親家庭の子どもが孤独を感じず、いつでも気楽に相談できる社会のしくみをつくる。すべては、この目的のためでした。
・2020年、大学3年生のときに、友人に声をかけて2人でNPO法人「あなたのいばしょ」を設立しました。
相談の手段としてチャットを選んだのは、電話にあまりなじみのない若い世代に気楽に利用してほしかったからです。また必要なときにいつでもつながれるように、365日24時間受付できる体制も最初から整えました。
立ち上げの翌日には40件以上もの相談が寄せられ、これは予想以上に大変で慌てましたが、すぐに多くのボランティアや専門家の方が、僕たちの活動に加わってくれました。
また、海外在住の日本人からも広く相談員を募り、時差を活用して無理なく24時間体制を維持できるしくみも考えました。
・これから生きていく上で、この2つを覚えておいてください。
ひとつは、孤独には一人で対処できないということ。
もうひとつは、孤独を感じたら、必ず誰かに頼ってほしいということです。
・「積極的な孤独」と「望まない孤独」の2種類がある
・苦しいときは、気楽に頼っていい
・学校には必ずスクールカウンセラーが存在しています。彼らは、まさに生徒の悩みを聞く仕事ですから、いつでも頼っていいのです。その他に、保健室の先生もいます。
・知らない相手だから相談できることもある
・時間の経過によって悩みが消えたりつらい出来事を忘れられたりするのは、過ぎていく時間のなかで人と触れ合って慰めてもらったり、何らかの出会いがあって気づくことがあったりして、こころが回復するきっかけがあったのです。
・複数の相談相手を持とう
・相談するときに意識しておいて欲しいのが、相手の返答や対応は「加点方式」で考えるということです。
・結果ではなく「プロセス」を見る
・自分が培った精神力や自信はゆらがない
・虐待を受けていたら、勇気を出して頼って欲しい
・避けて欲しいのは、「悩みによって苦しむこと」です。
・あなたを傷つけるような言葉が届いたとしても、それはあくまでも、相手の見方であり、ひとつの意見です。あなた自身の存在意義が揺らぐわけではありません。このことを心に留めておいてください。
・睡眠時間の確保はマスト
・「親ガチャ」という言葉に救われた
・日々起きることを味わうのが「生きる意味」
人それぞれ生きる意味の捉え方違うでしょうし、すでに生きる意味を見出している人もいるでしょう。でも、もしあなたが「生きる意味を探さなければ」「なぜ生きているのかわからない」と悩んでいるのであれば、「そんなものは、なくてもいいですよ」と伝えたいのです。
なぜなら、生きる意味を無理やり探そうとしなくても、自分の人生をしっかり生きていくことができるからです。
もっと言えば、毎日起こる出来事を味わいながら生きること自体が、僕たちの「生きる意味」だからです。
・夢は必ずしも必要ではない。
生きる意味や人生の本質とは、自分が日々選択して、いまやりたいと思う身近なことをやり、生きていくことだと僕は思います。
・あなたも誰かを教える存在
・誰かの役に立てるのはすばらしいこと
・特別な技術がなくても助けられる
・「本気の他人事」で考えよう
誰かの相談に乗るときには、いくつかの注意点があります。
自分の心を第一に考え、自分の孤独に対処できていて余裕がある状態で手を差し伸べること。
そして、誰かに声をかけるときには、「本気の他人事」で向き合いましょう。
・大丈夫、なるようになる
・誰かとつながって、「生きる権利」を使い続けていこう
感想;
大空幸星さんが、こんなに大変な悲惨な境遇だとは知りませんでした。
私立の高校(郁文館グローバル高校 国際科 )、慶応大学なので、ある程度私立に行ける家庭環境かと思っていましたが、そうではなかったのです。
高校のF先生、本当に素晴らしい先生ですね。
この本には、F先生に自殺しようと思ったときのメールが掲載されています。
大空幸星さんがたまたまその高校を選ばれたのが幸運でした。
そんな先生がおられる高校も素晴らしい高校に思えます。
大平光代さんは叔父さん(後の養父)との出会いが立ち直るきっかけでした。
大変な環境や状況から立ち直った人には、多くの場合、支えてくれる人がいました。
サヘルローズさん親子が公園暮らしから抜けだせたのは、学校の給食のおばさんがいたからでした。
姜尚中さんが大学卒業しても、在日韓国人とのことで就職先がないのを支援してくれた人がいます。
高知東生さんがドラッグからの立ち直りを支援し、啓発活動に誘ってくれた人がいます。
大空幸星さんが書かれているように、一人で這い上がるにはとても厳しい社会になっているのです。ぜひ周りの人に相談して欲しいと願われています。相談した人がダメなら諦めずに違う人にと。きっと相談に乗ってくれる人がいるからと言われています。
大空幸星さんは、個人が頑張れる限界がある。社会が、政治が頑張れるような仕組みにしないといけないと強く思われ、そして進学、「あなたのいばしょ」立ち上げ、そして政治家へ。自民党に入ったのは、実際に変えていくためだと言われています。
菅元首相が「まずは自助、そして共助、最後に公助」と発言されていましたが、自助できない社会に日本がなっているのです。また共助できる余裕のある人がいない社会になりつつあるのです。本来、自助、共助できる社会を公助でしないといけないのですが・・・。
奨学金は給付でなく、ローンが主です。卒業後、その返済に苦しむ人も多いです。
一人親世帯の貧困、特に母子家庭の貧困は過酷です。
大学教育のお金がないから、貧困の連鎖が続いています。
日本は貧困国になってしまっています。韓国は過去10年で年収が2倍以上、日本はマイナス4~6%です。
母子家庭の平均年収は236万円。生活が困窮し教育格差などが起こりやすい傾向に
⇒
これでは食べていくだけでも精一杯です。
母親は自分の食事を減らし子どもに。ミルクを薄めて飲ませているとの記事もありました。
これでは母親が体調を崩してしまいます。そして食べることさえ出来なくなってしまいます。
コロナ禍で小中高が一斉休校は一人っ子世帯にとって過酷過ぎました。
学校の昼食が主な食事の家庭もあったのです。
それをある教育評論家「英断だ」と称賛していましたが、「この人は駄目だ」と思いました。どれだけ大変だったか。仕事を辞めざるを得なかった母親も出たのです。
自助ではどうしようもなかったのです。
過去を振り返ることより、これからどうするかを考える。
生きる意味を見つけようと悩むよりも、いまどう選択して生きるか、未来のために。
を言われていました。
これはまさにロゴセラピーの考えだと思いました。
F先生はこれを実践されていたからこそ、生徒に伝えてこられたのでしょう。
ロゴセラピ―では心と身体の上位に精神があると考えます。
この精神がまさにその人の生き方なのです。
大空幸星さんは、自分のような人を手助けしたいとの思いが、彼の行動の原動力であり、生きる意味、目的になっているのでしょう。
大空幸星さんの大変なこれまでの生活をまさに、財産として生かされているように思いました。
相談件数 315, 556 件
ボラ ンティア相談員 597 名 (国内:494名/海外:103名)
⇒
これだけの実績を短期間で立ち上げられたのは、大空幸星さんの思い・熱意と仲間の協力ですが、それだけのニーズがあり、既存の相談窓口が充分機能していなかった証明にもなるのでしょう。
参考;
男性 276,291人
女性 286,079人
不明 3,141人
合計 565,511人
⇒
これでもつながり難いのです。
インターネット相談の実施
1.相談件数の年次推移 2022 年 1 月から 12 月までのメール相談件数(延べ件数,返信済み)は,1145 件(男性 481 件 女性 643 件 その他 21 件)であった。
2021 年は 1237 件,2020 年は 1579 件であり,全相談件数は減少傾向である
⇒
受信相談件数は相談員数に比例しています。相談が減っているのは、相談員数が減っているからです。またいのちの電話が電話優先で、ネット相談を行っているセンターはHPから一桁台です。
若者は、ほとんど電話で相談しないです。若者の自殺は高止まりです。
若者の死因のトップが自殺です。
いのちの電話は若者の自殺対応が後手後手というか、真剣に取り組もうとの姿勢がないことが、結果から伺えます。
全国50か所のいのちの電話では、約5,800名(2023年現在)のボランティア相談員が活動しています。
約7,000名(2013年)の相談員が約10年で1,200名も減っているのです。
それでも「あなたのいばしょ」のほぼ10倍の相談員がいます。
もっとできることがあるのではないでしょうか?
これまでと同じ対応ではなく、新しいツールを活用する(「あなたのいばしょ」のように自宅から相談を受けられる、相談員養成もネット活用など)ことでもっと社会のニーズに応えられると思うのですが・・・。
今のいのちの電話のトップは、これまでのいのちの電話の社会貢献度を下げることをしていると認識していただきたいです。
「あなたたちが、いのちの電話の活動の社会貢献度を下げているのですよ。先輩たちの努力をダメにしているのですよ。いのちの電話の未来は今のままだとますます貢献度が下がります」と言いたいです。
今からでもまだまだ遅くないのですが・・・。
大空幸星さんが、相談先として挙げられている相談先に、「いのちの電話」は入っていませんでした。
また厚労省のだす相談先にも「いのちの電話」が入っていないことも多いです。
それだけ貢献度が下がり、若者対応の相談先でないとの認識なのです。
統計データを見ると、ネット(メール)相談には電話よりも若い年代層の相談比率が高いようです。
いのちの電話の関係者の方はとても一生懸命なさっておられると思いますが、そのエネルギーをかける対象が違っているように思えてなりません。
電話を始めたとき、心理の専門家は「電話でできるか」と言っていました。
そして若者はコミュニケーションツールは電話からSNSに変わりました。
その対応が出来ていません。
もっと若者支援に目を向けていただきたいです。
東京いのちの電話が始まった頃に比べ、30年で若者からの相談比率が約1/6まで減っているそうです。今はもっと減っているかと思います。
いのちの電話は若者の自殺をどう考え、自分たちはどうしたいと思っているので
しょう。
厳しいことを言っているかもしれませんが、期待しているからです。
日本でいのちの電話を「やろう」と言われたドイツ人宣教師ルツ・ヘットカンプ女史、それに賛同された、 筑波大学教授稲村 博先生たち、今のいのちの電話の現状を見られたらどうされるか? すなわち、いま何が大切で、何をしようとされるかを考えて行うことだと思うのですが・・・。
『心の絆療法』稲村博著を読むと、いのちの電話には本当に多くの若者が電話して来ていたことが書かれています。
この本はとても良い本です。人を癒すのは人との絆であると言われています。
まさに、大空幸星さんがやろうとされていることです。
なぜできないのでしょうか?
大空幸星さんとの違いは、トップの思いと熱意の差ではないかと思ってしまいます。
京セラの創業者稲盛和夫氏はパーフォーマンスについて以下のことを言われています。
結果=考え方 × 熱意 × 能力
この中で一番大切なのは、考え方で、次が熱意(どれだけ時間をかけるか)になり、能力が考え方と熱意で何とかなる。
まさに大空幸星さんは、考え方(思い)があり、そして友だちを誘い、調べていろいろチャレンジされ、そうすると協力者が得られたのです。
若者の自殺を何とかしたいとの思い。
今のいのちの電話のトップ(連盟と各センター)にはそれがとても弱いように思います。そうでないセンターもあるかと思いますが・・・。
茨城いのちの電話はLINE相談を始められています。
「新しいことは、違うところから生まれる」とはよく言われていることですが、まさにその通りですね。
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