幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「強制収容所のバイオリニスト ビルケナウ女性音楽隊員の回想」ヘレナ・ドゥニチーニヴィンスカ著

2017-03-21 08:50:20 | 本の紹介
当時を思い起こし、考えた末にわたしが今、言えることは、それはひとつです。「あのような非人間的な状況にあっても、過酷な運命に打ち克つように、あるいは辛い体験を少しでも和らげるようにと他の人たちに手を差し伸べた人間がいた」ということです。

ユダヤ人に手を貸したり、救出したりすることは非常に困難で危険でした。それでも人々は様々な手段で彼らに手を差し伸べました。わたしのギムナジウム時代の友人マリア・ヴォザチンスカは自分の洗礼証明書をユダヤ人同級生のイーダ・クレインに渡しました。これによってイーダはアーリヤ人としての身分証明書でパレスチナに脱出することに成功しました。

「組織化」という言葉は収容所では、ある品物を他の品物と交換することによって自分に必要な品物を手に入れることでした。
「組織化」によって入手できる品物は他にもありました。それはカナダ、つまり選別後すぐにガス室とクレマトリウムに送られたユダヤ人が降車場に残した衣服や持ち物を貯蔵、分類していた倉庫のことですが、そのカナダで働いている囚人が失敬した品物です。この「組織化」という形態は命を賭して行われました。見つかると厳しい処罰が待っていました。

ヨーロッパの高度な文化を創造したドイツ民族から、どうしてこんな無法と悪が生まれたのでしょうか?異民族を、他の人間を屈辱的絶滅に到らせる憎悪の思想をドイツ民族はいかにして習得することができたのでしょうか?

周囲の囚人たちは音楽隊の存在を様々な目で見ていました。ある囚人はわたしたちのことを「絹の環境」の中で生きている収容所のエリートとみなし、わたしたちが演奏していること自体に怒りを露わにしました。メンバーの中には強制的に音楽隊に入れられた者がいたことなど、彼らは知りませんでした。
わたしたち元収容所音楽隊メンバーは戦後になってからも囚人社会から、そして収容所体験のまったくない人たちからも、冷たい視線を浴びせられました。そういうこともあって、わたしたちはあの時代について語ることをタブーとしてきました。

年のせいでわたしの物忘れは酷くなっていますが、強制収容所で体験したことだけは忘れようにも忘れられません。それは警告のための記憶です!
わたしの運命、苦痛に満ちた体験は平均的ポーランド人が味わった一部分だと思っています。わたしは小さな歯車でした。その歯車は弱かったけれど、何とか持ちこたえました。確かなことはひとつ。もしもわたしにバイオリンがなかったら、生きのびることはできなかったでしょう。人生が終わりを迎えようとしている今、そんなことを書く価値はあるのでしょうか?それは読者のみなさんの評価に委ねることにします。

感想
生きるためには必至でした。
カポ(囚人から選ばれた監督者)として生きようとするために、仲間のユダヤ人に厳しく当たった。そうしないとナチスから役目をはく奪された。

ガス室送りが10人と決まると、できるだけ自分たちのグループから出さないように画策した。それは他のグループの人がガス室送りになることを意味していた。

今、それを批判することはできない。
それは戦争という人を殺し合うこと自体が起こしてしまうではないでしょうか?
その戦争を実施した政治家を選んだ国民に責任がある。

戦争が始まりだすと、誰も止めることはできない。
戦争の兆しはもっと前から起きている。
秘密保護法、集団自衛権、そして共謀罪と、着々と戦争に向かっているのを感じる。
自民党の議員全員が戦争をできる国にしたいのでしょうか?
平和の党を標榜する公明党がその協力をされている。
同じ過ちを繰り返さないと良いのですが・・・。

ドイツでは同じ過ちを繰り返さないために若者への教育を行っている。
アウシュビッツ強制収容所にも多くのドイツの若者が訪問して過去の歴史と直面している。
日本はほとんど教えていません。
ノモハン事件、インパール作戦などで無謀な作戦でいかに多くの尊い若者を餓死と病気で何万人の命を奪ったか。
その反省もされていない。

「福祉の町 ベーテル ヒトラーから障害者を守った牧師父子の物語」橋本孝著 "希望を持つ”

2017-03-20 11:46:36 | 本の紹介
ボーデルシュヴィング(父)は、貧乏人は心も貧しいし、人間の誇りを失ってしまっていることを適切に感じ、この人たちには、夢中で働けるような仕事を与えなくてはならないことを、身をもって体験したのだった。
飢えに苦しんでいる子どもたちの父親を捜してお金を与えたところ、父親はお金を飲み代に使ってしまった。目に見える援助だけでは意味がないことを思い知らされた。
 
4人の子どもたち全員をジフテリアで亡くした。4人の子どもたちの墓ところに妻のためにベンチをこしらへ、神は自分たちにこのような苦難を通して何を言おうとされているのかを、じっくり考えた。彼は後に「当時、神は人間に対して何と過酷なのだろうということに、はじめて気づきました。そして、そこから私は他の人への慈愛を持つようになりました」と告白している。
ボーデルシュヴィング夫妻は心の底から揺り動かされ、弾劾から突き落とされてしまった。
その後、4人の子どもたちに恵まれた。
 
初めてベーテルを訪れた留岡幸助は日記にベーテルの当時の様子を詳細に紹介している。
ベーテル院には「祈れ、働け!」という言葉があり、自立できるように、皆がそれぞれ自分にあった職を身につけるための訓練所があるのだ。彼の日記には、例えば浴場館、肉類販売館、煉瓦工場、病院などの仕事場が紹介され、今はその浴場館はないが、すでに2,564種類の職種の仕事ができるようになっている。
 
障害者たちの受難の道
1939年5月15日ニュールンベルグで党(ナチス)大会が開催され、いわゆるニュールンベルク法が決議された。この法律の中身は純血保護法とライヒ市民法、すなわち「ドイツ人の血とドイツ人の名誉を保護するための法律」である。その法律には「不治の病をもてる者は、安楽死が与えられる」との条項があった。
ヒトラーは、アーリヤ人こそ、優秀な民族で、これが世界を制覇すれば、地球は繁栄すると考えた。こうして、ユダヤ人迫害という人種差別が、いわゆるホロコーストが行われた。このホロコーストは、実は優生学や安楽死と関係があるのだ。すなわち、国家にとって無用な人たちや足手まといになる人たち、劣等な因子をもっている人を抹殺することは、優秀な民族を残すことに不可欠であるという考え方だ。
 
ブランド教授(障害者の安楽死推進者)とフリッツ(息子)との会話
「抹殺されなければならないのは、もう社会に適応しなくなった者です」
(フ)「教授どの、社会に適応しないという意味はあいまいです。私だって、他の人と比べて社会に適応するかどうか、あやしいものです。それに、私は社会に適応しない人にこれまであったことがありません」
「そのような不治の病をもったまま生きることは本人たちにも不幸せなのです。安楽死によって、彼らは幸せになるのです。それに、身内や親戚の者だって幸せなのです。されに国のため、多くの国民のためには足手まといになってしまうから、国にとっても良いことなのです」
(フ)「この世の中には、生きるに値しない人とか、社会に不適応な人はおりません。神は決してそのような人間をお創りになりませんでした。国家にとって有用か、国家の目的に合うかの問題は人間個性の尺度にそぐわないのです。人間というものは生存目的に適うようにだけ生きているのではありません。安楽死は紙の掟に反します。それにキリスト教徒にとってこのような安楽死は非難されるべきです。なぜなら、イエス・キリストは一番悲惨な人のために十字架に架かり、復活されました。国民を助けるために、何千という人々を犠牲にしてはなりません。それは大きな間違いです。他の健常な人たちを助けるという大義名分で、非人間的なことをすることは何人にも許されません」
 
何時間だったのだろうか。フリップ牧師の話は続く。ブラントは弁明するが、その誤記は次第に迫力を欠いてゆく。フリッツの声はますます明晰に現状を分析する。
 
(フ)「あなた方は世界のクリスチャンの信をなくします。もっと見えない敵が増えていきます。ドイツだけでなく、世界の信者が敵になります」
 
この言葉はブランドの心に響いた。彼は反論するすべを失った。
 
ブラントはベーテルの障害者を安楽死することはなかったが、他ではヒトラーの意志を実践した。戦後、彼の罪を問う裁判で、ブラントは弁明している。
「命令と服従という二つのことが重くのしかかってきて、任務上やむを得ずとった処置だったというのが私の弁明です。・・・私はあの時、唯一本気で警告してくれた方(フリッツ)で・・・。私の人生で一番重い闘い(フリッツとのやり取り)でした」
 
ブラントは絞首刑の判決を受け、1948年6月2日処刑された。
 
1993年に天皇皇后両陛下がベーテルを訪問された。美智子皇后のたっての希望でした。それから10年かけて、日独の多くの人たちの善意で、日本庭園(枯山水庭園)が出来上がった。

感想
浦河に統合失調症の人々が共同生活するべてるの家があります。
べてるとはヘブライ語で神の家との意味です。
そのベーテルの家はドイツのベーテルから名前を取られています。

いろいろ考えさせられた本でした。
自分の考え方の持ち方がどう生きるかにもつながるように思いました。

ロゴセラピー 心と身体は病んでも精神は病まない。
ベーテルは当初てんかん患者さんのための施設として始まりました。



「絶対役立つ臨床心理学 カウンセラーを目指さないあなたにも」藤田哲也監修 "自分のための心理学”

2017-03-19 10:01:58 | 本の紹介
・パーソナリティを5つの特性で表す
1)外向性
2)神経症傾向(情緒安定性)
3)勤勉性(誠実性、統制性)
4)協調性(調和性)
5)開放性(経験への開放性) 創造的で想像的、風変りと紙一重

・臨床現場ではセラピストの4割以上が複数の心理療法を折衷して実践していると言われている。

・ロジャーズの治療的な人格変化の必要十分条件
1)二人の心が心理的に接触
2)クライエントは、不一致の状態にあり、傷つきやすいか、不安定な状態にあること
3)セラピストは、二人の関係の中で一致し、統合されている状態にあること
4)セラピストは、クライエントの内的照合惑を共感的に理解するという体験をしており、この経験をクライエントに伝えるように努めていること
5)クライエントは、セラピストの無条件の肯定的な配慮(眼差し)と共感的な理解を、最低限、知覚していること

・フォーカシング・ショートフォーム(ジェンドリン)
1)クリアリング・ア・スペース;気がかりなことや、からだの感じに気づき、イメージを使って机の上に並べるなどして、それを見渡します。
2)フェルトセンス;取り上げたいものを選び、フェルトセンスとして感じてみます。
3)ハンドル表現;感じているフェルトセンスに会いそうな表現(名前)を探してみる。言葉に限らず、イメージや動作なども。
4)ハンドル表現を響かせる;ハンドル表現がしっくりくるかどうか、フェルトセンスに確かめる。
5)問いかける;「これ(ハンドル表現)は、何を自分に伝えているのだろう?」といった問いかけを用い、意味が創造されるのを待つ。
6)受け取る;創造された意味を大切に受け取る。

・ライフストーリー;人生や生活についての物語(事実がどのように語られるかの体験に重きが置かれる傾向がある)
・ライフヒストリー;人生や生活についての歴史(事実)

・「無知の姿勢」 をセラピストに求める(クライエントとの協同的な対話時)
クライエントこそが自身の問題を解消させるための専門性を有していると考える。
セラピストの仕事は、好奇心に導かれながら、クライエントに教えを請い、クライエントとの間で新たなストーリーが生成されるよう、自由に会話が交わされる空間をしつらえることになる。

・ストレスホルモン;
アドレナリン;血圧や心拍数、呼吸数を増加させる。
コルチゾール;蓄えられているブドウ糖の供給を促す。

感想
心理学やカウンセリングは知識として知っておくことも必要ですが、自分の気持ちを知る、自分の気持ちをコントロールするのに必要だと思います。

心理学やカウンセリングを教えている人で、自分の気持ちをコントロールできていない人を時々見ます。
そういう人の口から出る心理学やカウンセリングの言葉は重みを感じません。
ロゴセラピーでは、まずはロゴセラピー的に自分が生きないと、ロゴセラピーを人に伝えないと考えます。
心理学やカウンセリングはセルフカウンセリングとして活用したいです。


<防衛大>任官拒否者の卒業式締め出し 詐欺事件が契機 ”安倍首相の指示で実施”

2017-03-18 10:56:38 | 社会
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170317-00000044-mai-soci 毎日新聞 3/17(金)
 防衛大学校は2014年春から、自衛官にならない任官拒否者の卒業式への参加を認めていない。毎日新聞が情報公開請求で入手した内部資料によると、この「締め出し」のきっかけは、13年に発覚した複数の防大生による詐欺事件だった。19日にある今年の卒業式でも、任官拒否者は排除される。

 防大は第2次安倍政権下の14年春から、首相や防衛相らが出席する卒業式とは別に、任官拒否者を集めて「卒業証書授与式」を開いている。

 防大出身のある幹部自衛官は「任官拒否であろうと同期。なぜ別の卒業式にするのか理解できない。価値観はいろいろ。任官拒否は悪いことではない」と指摘。自衛官OBも「任官拒否し民間で活躍している人は多い。やっかみとしか思えない」と話すなど「締め出し」に首をかしげる。

 卒業式出席の可否を検討した14年2月の内部資料には、「任官拒否者と同等に扱うことにより、任官の意義が薄れる可能性」「任官拒否を是認する雰囲気が残る」とあった。任官拒否の増減は景気動向に左右される傾向があり、将来の幹部自衛官を手放したくない思いがにじむ。

 また、内部資料の中の「想定問答」では、13年に傷害保険金詐取で少なくとも10人の防大生が書類送検された事件があり(全員が起訴猶予処分)、これが卒業式分離の契機だと説明。「防大の根幹を揺るがす大事件で、遠因の一つに防大生としての誇りの欠如がある。これを機に綱紀粛正を図る」とある。

 任官拒否への風当たりは元々強い。防大生の学費は無料で、特別職国家公務員として月10万円ほどの「給与」もある。12年ごろは任官拒否者の学費返納制度の創設が検討されたこともある。

 防大創設当初も分離方式だったが、元警視総監の土田国保氏が1978年に学校長に就き、取りやめた。「防衛大学校五十年史」は「任官辞退者であろうと、本校で受けた教育を生かして国家社会のために働いてくれるはずだ、という確信が土田氏にはあった。同級生の絆を尊重し、青年の誇りと名誉を傷つけてはならない、との配慮もあった」と記述する。バブル期の91年春に任官拒否者は最多の94人になったが、分離は復活しなかった。

 内部資料によると、第1次安倍政権当時の07年3月にも任官拒否者の卒業式分離が防大内で検討されていた。この時は「在野で自衛隊の支持者として活躍してもらうためには、彼らの心情にも配慮する必要がある」などとして大学内の全関係部署が反対し、見送られた。だが、第2次安倍政権の14年2月に再検討され、卒業式分離が決まった。安倍政権以外の時期で「締め出し」が検討がされた形跡は内部資料からうかがえない。【町田徳丈】

感想
なんとまあ、心の狭いことを。
防衛大学の教育者は政治に左右されています。
本来は、教育は中立だと思うのですが。

阿部首相は本当に戦争ができる日本にしたいんだなと思います。
安倍首相を支持されている方は、子どもたちが戦死した日本を復活させたいのでしょうか?

原発避難訴訟、国の責任認める 「津波予見できた」 前橋地裁判決  ”画期的な判断”

2017-03-18 10:48:48 | 社会
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG17H7Z_X10C17A3000000/ 日本経済新聞2017/3/17
 福島第1原子力発電所事故後に福島県から群馬県に避難した住民ら137人が国と東京電力に1人あたり1100万円(総額約15億円)の損害賠償を求めた集団訴訟の判決が17日、前橋地裁であった。原道子裁判長は請求の一部を認め、国と東電に賠償を命じた。「国は2002年には津波の到達を予見できた。国が事故を防げなかったのは違法」として国の責任を認めた。

廃炉に向けた作業が進む東京電力福島第1原発(2016年10月、福島県大熊町)
 全国20の地裁・支部で避難者ら計約1万2千人が起こしている集団訴訟で最初の判決で、原発事故をめぐり国の賠償責任を認めたのは初めて。東電も津波を予見できたと認定した。
 原裁判長は判決理由で、02年7月に政府の長期評価が巨大地震で津波が原発敷地を大きく上回ると試算していた点などを挙げ、「遅くとも02年7月から数カ月後の時点で、国は非常用配電盤を浸水させる規模の津波の到来を予見できた」と指摘。国には東電に対策を命じる権限があり、「東電に対策を取らせれば事故を防ぐことが可能だった」と結論づけた。
 また東電について「常に安全側に立った対策を取る方針を堅持しなければならないのに、経済的合理性を優先させたと言われてもやむを得ない対応だった」と厳しく批判した。
 主な争点は▽東電や国が津波を予見し、対策を取ることができたか▽国の指針にもとづく東電から避難者への賠償額が妥当か――の2点だった。
 東電や国は「02年7月の長期評価は科学的知見として不十分で、事故は予見できなかった」として過失を否定。国は「そもそも、東電に津波対策を命じる権限がなかった」とも主張していた。

感想
自民党の時代、その後の民主党の時代に対策をしてこなかった結果なのでしょう。
大切なことは問題を明確にしてこれからに生かすことなのですが・・・。

福島原発の事故は本当に防げなかったのが? 対策するチャンスはあったのかhttp://blog.goo.ne.jp/egaonoresipi/e/c0e5e428cc34e875e5a9417fa3f08740


「原発と大津波 警告を葬った人々」 添田孝史著 ”想定外ではなく、想定内だが対策しなかった!”
女川1号機の設置許可を申請したのは1970年、福島第一1号機の申請から4年後のことだ。
東北電力は土木工学や地球物理学など社外の専門家らを集めた「海岸施設研究委員会」を設けて議論した。

「明治三陸津波や昭和三陸津波よりも震源が南にある地震、
例えば貞観地震や慶長地震による津波の波高はもっとたかくなるだろう」といった検討の結果、敷地の高さを14.8mにすることを決めた。
同社副社長だった平井弥之助氏の存在が大きかった。
平井氏は東北電力を退いて電力中央研究所の技術研究所長の職にあったとき、「海岸施設研究会」に加わり、貞観津波を配慮せよと強く主張していた。
貞観津波は869年に発生した巨大な津波で、女川原発建設当時はその発生源がよくわかっていなかった。
平井氏の実家の近くに神社があり、現在の海岸線から7km以上内陸にあるが、そこにまで過去の大津波が到達したという文書が残されている。
平氏氏はその史実に触れて、「大津波に備える必要がある」と力説していた。
大島氏は、平井氏について
「法律による規定・基準を超えて、自然に対する畏れを忘れず自分の判断で技術者としての結果責任を果たすよう指導してこられた」とも述べている。
女川原発は海水ポンプも高さ14.8mの敷地内にあり、津波に対して強い設計になっていた。
一方、福島第一原発は海水ポンプの高さ4mの埋め立て地においており、これが水没すれば原子炉の冷却が出来なくなって炉心損傷を引き起こす恐れがあった。
女川原発は、福島第一原発より三倍以上津波に強く作られていたのだ。

(1997年3月各自自体に通知した)七省庁手引きの方針は、電力会社には、とても都合の悪いものだった。
この報告書では原子力の安全審査における津波以上の想定し得る最大規模の地震津波も加えることになっており、
さらに津波の数値解析は不確定な部分が多いと指摘しており、
これらの考えを原子力に適用すると多くの原子力発電所で津波高さが敷地高さ更には屋外ポンプの高さを超えるとの報告があった。

2002年3月、東電は福島第一原発で想定される津波の高さを5.7mに見直し、保安院に報告書を提出した。
これに合わせ6号機の非常用海水ポンプ電動機w20cmかさ上げする対策をとった。
もしも、七省庁手引きの方法にしたがって福島第一原発が津波地震を想定していたら、その高さは最大13.6mになった。
もしも土木学会手法が、当時の原発の約半分は達成していた「安全率二倍」を最低基準として設定していたら、福島第一原発の想定は約12mになっていた。

中央防災会議は2002年10月に「日本海溝・千島海溝周辺海溝型地震に関する専門調査会」を設置した。
2004年2月の第二回調査会では、冒頭で事務局は地震本部の長期評価で示された「海溝沿いの津波地震」を防災の検討対象としない、方針を示した。
過去に起こった記録がない、もしくは、記録が不十分な地震は、正確な被害想定を作ることが難しいからという理由だった。
これに対し、委員からの反対が続いた。委員らの反対を押し切り、事務局は宮城から茨城沖で津波地震が起こることを想定しないことにした。
それどころか、これまで起きたことが記録に残っている1611年三陸沖、1677年延宝房総沖も、
くりかえして起きていないためデータ不足という理由で、想定対象からはずしてしまう。
結局、津波地震は、明治三陸が起きた岩手沖を中心とした領域だけ想定することにした。
宮城県以南では警戒しないことに決めたのだ。
その結果、東北地方太平洋沖地震では、南にいくほど中央防災会議による想定を大きく超えた津波に襲われ、そこで死者が多くなった。
津波の犠牲者の8割は岩手県南部の陸前高田市以南で遭難した人たちだ。
七省庁手引きが公表される前に、電事連は報告書案を入手し、通産省を通じて事務局あった建設省に原発の津波想定を上回る水位にならないように圧力をかけていた。

1997年7月、電事蓮津波対応WGから通産省に送られた文書は、
「最大規模の津波の数値を公表した場合、社会的に大きな混乱が生ずると考えられるから、具体的な数値の公表は避けていただきたい」
「現状の津波予測には限界があり、予測には誤差がある旨強調されている。精度に限界があることを必要以上に強調しないでいただきたい」
「検討結果の公表に際しては、事前に公表内容の調整をさせていただきたい」など強い調子で要望している。
18,000人を超える死者と原発事故の大きな犠牲を払って、ようやく、1997年の七省庁手引きに想定方法に戻ったのだ。

2002年当時、福島県は東電の発電量の1/4を生み出していた。
福島の原発が止まれば経営への影響が大きい。原発の設備利用率が1%下がると利益が100億円減る。

福島第一原発の当時の想定6.1m。
東北大震災の4日前に東電と保安院は非公開の打ち合わせをしていた。
そこでは、地震本部の津波地震
1896年明治三陸沖タイプの場合 15.7m
1677年房総沖タイプの場合 13.6m

感想
事故が起きた時、想定外と言われましたが、事前に把握していました。
10~20年後に廃炉になる福島第一原発に、津波対策費100億円を投資したくないために、
学会や通産省に東電が働きかけて、対策を引き延ばししたでけのことでした。
まさに当時の東電のトップ層の責任は明確です。それを許した通産省、保安院も同罪ではないでしょうか?
一方、女川原発は東北電力は設計段階から津波の対応をしていました。設計は福島第一原発とほぼ同じ時期でした。
東北電力には貞観地震を考慮しなければならないという強い信念を持っている人がいました。
そしてそれを採用した東北電力の当時のトップ層の見識でした。
東電と東北電力、まさに人の違いでした。

共産党議員が大震災時の電源消失について質問した時、できていないので対応すると返答した当時の安倍首相も、何も対策をしなかったのです。
まさに判断ミスで日本を大災害をもたらした責任者のお一人ではないでしょうか。
人を責めることより、次に同じ問題を起こさないように反省をして問題点を次に生かすことが大切です。
どうも日本人はそれを忘れてしまうようです。

インパール作戦で5万人が病気と飢餓で兵士が亡くなりました。
ノモハン事件では5千人の兵士が無謀な計画のために亡くなりました。
反省も責任も取っていません。かつ、それについては学校で教えることをしていません。
決して風化させていはいけないと思います。

自民党と公明党は集団自衛権を強行採決しようとしています。
充分に議論されずに強行採決がされたら、決して忘れずに選挙で一票を投じなければと思います。
そうしないと国民の多数の声を無視した政治が今後も通ることになります。
ドイツのワイマール憲法をヒトラーが無視して行ったように、日本国憲法違反のことがまかり通ってしまいます。
それは法治国家ではなくなって、政権を握っている人の判断で何でもできてしまう日本になってしまいます。
戦争を決して国家間の問題解決にしてはなりませんし、それによって解決はしません。
結果は何百万人との人が亡くなります。同じ過ちを繰り返さないために一人ひとりが自分のできることをすることではないでしょうか。