幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

加藤浩次 世田谷区の2万人PCR検査に猛反対「一時の安心にどれだけお金をかけるのか…全く意味ない」 ”天に向かって唾を吐く!”

2020-08-25 13:13:33 | 新型コロナウイルス
https://news.yahoo.co.jp/articles/8777872e663b4f7990a84bad0e1cd841cd655117 8スポニチ/25(火)
 極楽とんぼの加藤浩次(51)が25日、日本テレビ「スッキリ」(月~金曜前8・00)で、東京都世田谷区の新型コロナウイルスの感染拡大防止策に対して否定的な考えを述べた。

 世田谷区は24日、区内の介護事業所や保育園・幼稚園で働く職員など計約2万3000人を対象に無料で検査を実施すると発表。検査は民間業者に委託し、1日1000件程度を想定。経費は約4億1400万円としている。

 加藤は「一時の安心にどれだけお金をかけるのか、ということになると僕は思ってしまうんですけど」と大規模PCR検査に巨額の税金を投じる策を疑問視。

 「時間とお金をかけてしっかり効果があればいいと思うんですけど。世田谷区だけ介護事業者、保育園や幼稚園で働く職員方にやったところで、その方たちが世田谷区以外に住んでいたりとか、世田谷区の中に他から入って来る人もいる。子供たちの親は他のところで働いている人もいる。そこで抑え込めるのか。それを見つけることによって意味はあるんだろうか」と何度も首を傾げた。

 これほど大規模な検査となると、結果が出るまでにそれなりの時間もかかるため「(時間が)それだけかかるんだったら全く意味がないと思ってしまうんですよ」とも。「結果が出るまで4日かかるとしたら、その4日間に感染する可能性もありますから。感染した後に“陰性”って出て何の意味があるの?」と苦言を呈した。

 さらに「陰性だったらと安心した人が街に出てしまって、その人が偽陰性の可能性がありますからね。偽陰性の可能性もあるのにそれ(大規模検査)をやることに何の意味があるのかな」と続けた。

感想
コロナ感染者を減らすには
1)PCR検査を徹底して行う
2)感染者を隔離する
3)重症リスクのある人は早期に入院して治療する
4)既に効果が認められている(中国や日本の病院でも)アビガンを保険適用にする
ことだと思います。

NYは検査を徹底して感染者を抑え込んでいます。
ニュージーランド、台湾、韓国などもPCR検査を徹底して抑えています。

PCR検査を増やさない日本だけがいまだに感染者を増やし続けています。

そう言うことを、世界のデータを把握されて発言されているのでしょうか?
とてもそうでないと思います。
ご自分の与える影響を考えてご発言して欲しいものです。
逆にご自分の評価を下げる発言になっています。
まさに天に向かって唾を吐く行為のように思えます。

アベノマスクに500億円
布マスクは不織布のマスクよりも防止効果が低い。
9割が使われていない。
そうすると450億円の税金をどぶに捨てたようなものです。
このことの批判はないようです。
世田谷区のPCR検査に4億円、この方が感染防止にどれだけ効果があるでしょうか?
感染防止になれば医療費の削減も図れます。
また入院や自宅待機の経済損失も防ぎます。
マスクの500億円はマスク業者を喜ばしているだけです。
その点も考察された上でのご発言でないないように思います。

「C.C.ユング ヨブへの答え」 ”何故神はイエス・キリストを遣わされたのか”

2020-08-25 12:33:33 | 本の紹介
神は人間ヨブが彼を追い越したことをひそかに認め、人間の水準にまで追いつかなければならないことを知った。そこで神は人間に生まれ変わらなければならない、というのだ。ここにイエスの誕生につながる問題がある。旧約と新約の世界にまたがる神と人間のドラマを、意識と無意識のダイナミックなせめぎあいを通して、ユングは雄大に描いている。

・『ヨブ記』の中に顕わになっている神の暗黒面に対して、どのように対決するのか、あるいはそれが彼に対してどのような影響を与えるのかということである。

・われわれは神の中に分裂と苦悩があることを承知しているが、しかし、それがあまりにも無軌道で、それゆえ道徳的に無力であるとなると、理解ある共感を呼ぶどころか、時間をかけなければ治らない傷のように後をひく無軌道な激情をかきたれられてしまう。

・『ヨブ記』はじつに、われわれの時代にとって特別に重要な意味をもっている神体験のあり方の、原型の役を演じているのである。

・「無知の言葉をもて、神の計りごとを暗かしむるこの者は誰ぞや?」
どの言葉が無知なのか? ヤーヴェはもちろん友人たちを指しているのではなく、ヨブを非難している。しかしどこに彼の罪があるというのか? もし彼を非難することができるとすれば、それはただ一つ、神の正義に訴えることができると信じた楽観主義だけである。その点ではたしかに彼は間違っていた。それはヤーヴェのそれに続く言葉から明らかである。神は正しくあろうとは少しも思わず、むしろ自らの力を誇示して、それを正義に優先させている。そのことにヨブは思いも及ばなかった、なぜなら彼は神を道徳的な存在だと思っていたからである。彼は神の前納を少しも疑っていなかったが、それ以上になおその正義を望んでいたのである。

・イエスは最初ユダヤ教の改革者として、またもっぱら善である神の預言者として現れる。それによって彼は宗教の危機的な状況を救う。
「神は人間を喜びとする。彼は愛の父であり、私があなたがたを愛するようにあなたがたを愛し、あなたがたの昔の罪を償うために私を彼の息子として遣わした。」

・キリストは二重の意味で仲保者である。彼は神に対して人間を助け、この実在の前で人間が感ずる恐れを和らげる。彼は神と人間という結合しがたい二つの両極の間で、重要な中韓の位置を占める。

・「人間の息子」の名を持つエゼキエルとエノクの二人が普通の人間であるのに対して、キリストはすでに親・懐妊・誕生の点で、古代的な意味での英雄。半神である。

・『ヨハネ黙示録』 キリストは彼に7つの教会に公開状を送らせる。

・人類は「神は人間になることを欲した。そして今の欲している」という問題を背負わせられたのである。

・私が心を実在すると考えているということである。彼らは心が産み出した事実のほうしか信じない[心そのものを信じない]ので、そのためにウランそのものか、それとも実験装置が、爆弾を組み立てたと結論せざるをえなくなる。このことは実存しない心がそれに対して責任があると仮定するのと同じくらいに馬鹿げたことである。神は明らかに心的な事実であって物理的な事実ではない。同じようにこの人々は、宗教的心理学がはっきりと分離すべき二つの領域に・すなわち一方は宗教的人間の心理学と他方は宗教すなわち宗教的内容の心理学とに・分かれるということを、まだ理解できないのである。

・神がわれわれに作用を及ぼすということを、われわれは心を通じてしか確認することができないし、しかもその場合にこの作用が神から来るのか無意識から来るのか区別することができない、すなわち神と無意識が二つの異なるものであるのかどうか確かめることはできないのである。神と無意識とはどちらも超越的な内容を表すための極限概念である。

・従来の解決は、キリストのみをただ一人の神人として認めることによって、この困難を免れていた。[ところが]神の第三の位格・聖霊・が人間の中に内在するということによって、多くの人間のキリスト化が生じ、次いでこの多くの人間が混じり気のない完全な神人であるのかどうかと問題が持ち上がる。こうした変化によって、しかし、原罪から解放されていない普通の人間たちがたちまち自我インフレに陥ることは避けられないということをまったく無視するにしても、堪えがたい葛藤が生じることであろう。こうした場合には、パウロの場合を、つまり彼の意識の分裂を思い起こしてみるのが賢明であろう。彼は一方では自らを神から直接に召命を受け啓示を与えられた使徒であると感じているが、他方では「肉の棘」と彼を悩ますサタンの使いから逃れることのできない罪人であるとも感じている。すなわち啓示を受けた人間でさえ依然としてもとのままの人間であり、彼に内在している存在-その姿はどれほどの広がりをもつのか見当もつかず、彼をあらゆる方面から包み込んでおり、地の底のように深く天のように広い-の前に立てば、ちっぽけな自我以上のものではないのである。

感想
私はクリスチャンではないですが、三浦綾子さんの本をほぼ全て、犬養道子さんの「旧約聖書」/「新約聖書」、遠藤周作さんの「沈黙」/「死海のほとり」、井上洋治神父の書籍など読んできました。
教会にもしばらく通いました。

旧約聖書の「ヨブ記」はとても印象が強烈でした。
私にとってキリスト教を信じられるかは二つのハードルがありました。
・復活を信じる
・自分がヨブのようになってもなお神を信じる
辿り着いたのは、論証することよりも信じたいとの思いだと思いました。

なぜ神はイエス・キリストを遣わされたかをユングが説明した、ユングの数ある著作の中でも最高傑作と訳者(林 道義氏)が評しています。

仲保者(ちゅうほしゃ)
https://www.churchofjesuschrist.org/study/scriptures/gs/mediator?lang=jpn

「イエス・キリスト」; 「贖しょく罪ざい」 参照

執り成しをする者。イエス・キリストは神と人との間の仲保者である。キリストの贖罪は,人々が罪を悔い改め,神と和解する道を開いた。

だれでもわたしによらないでは,父のみもとに行くことはできない, ヨハ14:6.
神と人との間の仲保者もただひとりであって, 1テモ2:5.
キリストはさらにまさった契約の仲保者である, ヘブ8:6 (ヘブ9:15; 12:24; 教義107:19).
メシヤはすべての人の子らのために執り成しをしてくださる, 2ニフ2:9 (イザ53:12; モサ14:12).
偉大な仲保者に頼り, 2ニフ2:27-28.
新しい聖約の仲保者イエスを通じて完全な者とされ, 教義76:69.

「シンデレラ・コンプレックス」コレット・ダウリン”グ著 ”シンデレラの生き方でいますか?

2020-08-24 13:30:00 | 本の紹介
・母親カンガルーのおなかで、誰かの肌のぬくもりのなかで生きたい。空気や活力や生命そのもの以上にわたしが欲するのは、安全でいられて、ぬくぬくぬくもっていられて、世話をしてもらえることだ。

・自由はわたしたちをおびえさせる。それをわたしたちはまもなく知った。自由は女の子に負えそうもない可能性をいろいろ提供する。昇進、責任、男の道案内なしのひとり旅の機会、自分自身で友人をつくる機会。ありとあらゆる好機が女の前に広がってきたが、その自由とともに新たな要求もやってきた。

・依存を自覚し、欲求不満を感じ、腹立ちを感ずる女性たち、自立を望みながら、しかしそれがどういうことになるかを恐れる女性たち。束縛をかなぐり捨てようとする女性たちの努力を麻痺させているのは、実際、恐怖だった。

・シンデレラ・コンプレックス
女が本気で「解放」を目指す企ては、ただひとつしかない。そしてそれは、自分自身を内面から、解き放つことだ。本書の主題は、個人的、心理的な依存が-他者に面倒をみてもらいたいという根深い願望が-今日、女を押さえつけている主力だということにある。私はそれを「シンデレラ・コンプレックス」と名づける-網目のように入り組んだ抑圧された姿勢と恐怖、そのために女は一種の薄明かりのなかに放り込まれたまま、精神と創造性を十全に発揮できずにいる。シンデレラのように、女は今日もなお、外からくる何かが自分の人生を変えてくれるのを待ち続けているのだ。

・『女と金と力』で心理学者フィリス・チェスラーが述べるように、女は車のバックシートに何の心配もなくすわっていたいためにわざと(かならずしも意識的にではなく)そういうことをする。
「あらゆる階層の女性がが、家庭の内外を問わず、服従、卑下、無力を伝達するために基本的なボディランゲージを用いる……この姿勢は他人の気持ちをほぐし、男を『上位』に置こうとするものだ」

・「女性の恐怖症の多くは、過保護の親をもったことに原因があります」とルース・モールトンはいう。

・長いあいだわたしは、自分のかかえる問題は父に関係があるのだと感じていた。三十代になってようやく、実は母に対して抱いていた思いが、ごく幼いうちにわたしのなかで羽をひろげはじめた内なる葛藤の一部だったのではと気づきはじめた。

・母はただ服従していた。この同じ服従心をほとんどすべての女性のうちに見ながら、わたしは育ったのだ-自分の「面倒をみてくれている」男性、自分がすべてを依存している男性に、つき従っていかねばという要求。

・女性の所属欲求が男性より強いことを心理学者たちは早くから知っていたが、やっと最近、女児の研究がその理由に照準を定めた。湯尾時期に端を発する、自分自身への能力への根深く拭いがたい不信のためん、女の子は自分が生き延びるには庇護が必要なのだと確信するようになる。

・女の子は男の子を一歩リードしつつ人生のゲームを始める。言語、知覚、認識の面で、幼年期には女の子のほうが勝っている。

・幼い女の子の恐怖心は、しばしば母親のとる姿勢が原因で始まる。心配する母親は、この自分を-この母親を-不安にさせるゆおな行動をとらないよう、子供に教える。危険を避けるようにと幼い娘に教えることで、不安な母親は、知らぬ間に、子供が恐怖を扱うすべてを学ぶのを妨害する。

・いくつかの研究によれば、女の子は-とりわけ利発な女の子は-自信という面で深刻な問題をかかえている。彼女たちは自己の能力を過小評価する。さまざまな課題について-初めて挑むものも経験ずみのものもふくめ-自分がどれくらいうまくできるかと思うかと問うと、女の子は悪露この子よりも低い評価を出し、また通例、実際の出来をも過小評価する。

・自信のなさは多くの女の子の患う病であり、これに関連する幾多の問題へのtつながる。女の子は暗示にかかりやすく、誰かの反対にあうと、自分の知覚的判断を取り消す傾向がある。

・「過剰な手助け」がなぜそれほど破滅的なのか? 「学習は挫折に耐える能力を必要とするからさ」とローアス・ホフマンは説明する。「親が、それ助けろとばかりにすばやく反応すると、子供にそのような忍耐力が育たない」

・「自立をは、自分ひとりでやり遂げられる、事故の能力に頼ることができる、事故の判断を信頼できる、そういったことを学んだ結果、うまれるものである」と、ジュディス・バードウィックは『女性心理』で述べている。他者の助けがあるときのみ達成できるという観念を、女の子は一貫して強化される。そしてついには、人生の難問に独力で立ち向かえないという考えを内在化させるに至る。

・女性だけが罹る「依存病」とでもいうべきものがある。そのひとつが神経性無食欲症という奇怪な飢餓症候群だ。

・「従順な人格の女の子は、尊重され認められるためには、何か並々ならぬ自立を要することをしなければと思い込む。そして行きづまると、自分の手にある唯一の自立は、自分の肉体をコントロールすることだと思うのだと」と、この病気の権威であるヒルデ・ブルッフ博士は語った。

・「夫に依存せずして一体全体やっていけるものかという、多くの女性が抱く一種の怯えがあるのです」と、元保健教育福祉省のケネス・マクファーレンはいう。「彼女たちは、一生のあいだずっと、そんなことはできないと教えられてきました。これは条件づけのプロセスです」

・最初からわたしにとってのゴールは、申し分ない安心感を与えてくれる程度に夫にがんばってもらうことだった。彼の能力はわたしの能力だった。しかし、彼の失敗は彼自身のもの。

・ニューヨークの心理学者、ダグマー・オコナーは、ルーズヴェルト・ホスピタルのセックス・セラピー。プログラムで六百人以上の女性の診察に当たり、オルガスムのない患者とオルガスムを体験する女性とを比較した。オルガスムのないグループでは、88%の者が、子供時代から十代を通して「良い娘」だったと自己評価した。従順で、学校の成績がよく、両親との衝突もなかった。興味深いことに、オルガスムを体験する女性のきおの範疇にはいるのは30%にすぎなかった。

・女がいま経験している、いわゆる「二重負担」からくる疲労困憊は、葛藤の結果である-家にこもって女がこれまでずっと享受してきた家庭の安全にしがみついていたい気持ちと、自由になって自足したい要求とが衝突している。この未解決の、したがってそのなかにいると感覚が麻痺してしまう葛藤が、「ジェンダー・パニック」を生み、女を低レベルの仕事やもう飽き足らなくなった仕事に就かせておき、家庭で限界以上の状態をつづけさせるのだ。

・自由でありたいという要求と、籠に入れられて守られたいという要求の葛藤は、密かな増殖をもたらすがゆえに、油断ならない。・・・。依存の正体を突きとめないかぎり、それの徹底宗田は不可能だ。そのことだけは確かである。だから依存の傾向を見極めるのが、そこを通過する第一歩となる。意識的に、その徴候を探さ根がならない。

・内なる声が「動け!」と命じたあの瞬間は、正直いって、意志力とは何ひとつ関係ない。圧倒的な葛藤に直面して「自己の意志で奮い立ち」、死ぬ覚悟で行動に出るというのは不可能だ。もし意志力が答えであるなら、私はこの本を書かなかったろう。内なる自我の前方跳躍は、長くいぎぶかい過程の結果であった。内なる矛盾の正体を見極め、それから徹底操作に当たった過程である。意志に動けと命じることはできない。自分が明晰になり、葛藤を解消したときに、ごく自然に機能できるのだ。

・自由と自立は他者から-社会一般から、あるいは男から-もぎ取ることのできないということを、私は学んだ。そうではなくて、内面から苦心しつつ育てていくしかできないのだ。それを達成するには、安心したいがために松葉杖のごとく利用してきた依存心の数々を、残らず捨て去らねばならない。しかしその交換は、さほど危険ではない。自己を信ずる女は、能力を超えたむなしい夢を見て自己を欺く必要がないのだ。同時にまた、自分に適応能力があり、その用意もある課題を前にして、ぐらつくこともない。現実的で、地に足がついていて、自己を愛しているからだ。ついには、自由に他者を愛する-自己を愛するがゆえに、そうした一切は、どれもこれもが、自由へと跳躍した女に属する。

感想
親は子どもが心配なので、失敗しないようになんでもやろうとしがちです。
しかし、失敗をするからこそ学ぶことができることも多くあります。

母親の幸せ感がもし、「女性は結婚して子どもを産むこと」だったとしたら、それは子どもを縛り付けたり、子どもの可能性を狭めているのかもしれません。

母親の幸せと娘の幸せとはもともとが別のものなのです。

シンデレラは、継母の虐めの酷い状況から、王子様が救ってくれました。
このシンデレラ・コンプレックスの本を読み、シンデレラは虐めに耐えてはいましたが、そこから脱出する企てについては何もなかったように思いました。

「待ちぼうけ」北原白秋作詞/山田耕筰作曲 ウイキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%85%E3%81%A1%E3%81%BC%E3%81%86%E3%81%91

歌詞は中国の法家の思想書の一つ『韓非子五蠹篇』の中にある説話「守株待兔(しゅしゅたいと、(くひぜをまもりてうさぎをまつ)」から録られたものである。
説話の内容は、昔宋に農民がいた。彼の畑の隅に切り株があり、ある日そこにうさぎがぶつかり、首の骨を折って死んだ。
獲物を持ち帰ってごちそうを食べた百姓は、それに味をしめ、次の日からは鍬を捨て、またうさぎがこないかと待っていたが、二度と来なかった。そのために作物は実らず、百姓は国の笑いものになった。

「待てば海路の日和あり」の言葉もあります。

待つことも大切です。
何もしない方がよいこともあります。
つまり、意図して何もしないことをすること。

しかし、何もしないと何も変わらないこともあります。

今どうすべきなのか、これはきっと多くの失敗を重ねて学ぶのでしょう。
失敗を体験するには限界がありますから、本から学ぶことがとても重要なのだと思います。

対馬丸事件「口外するな」 口止めで被害全容いまだ不明 ”反省しなかった政府”

2020-08-23 04:20:04 | 社会
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E4%B8%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6-%E5%8F%A3%E5%A4%96%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%AA-%E5%8F%A3%E6%AD%A2%E3%82%81%E3%81%A7%E8%A2%AB%E5%AE%B3%E5%85%A8%E5%AE%B9%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%A0%E4%B8%8D%E6%98%8E/ar-BB18fHtj 朝日新聞社 2020/08/22

対馬丸事件76年の慰霊祭にマスク姿で集まった参列者=2020年8月22日午前10時1分、那覇市の小桜の塔、木村司撮影© 朝日新聞社 対馬丸事件76年の慰霊祭にマスク姿で集まった参列者=2020年8月22日午前10時1分、那覇市の小桜の塔、木村司撮影
 22日で76年を迎えた対馬丸事件。その犠牲者数はいまなお特定できていない。戦中も、戦後も、詳しい実態調査がなされなかったためだ。当時は大本営発表の下、日本軍による箝口令(かんこうれい)さえ敷かれ、その記憶が、戦後も生存者らに重くのしかかってきた。

 対馬丸記念館(那覇市)に保管されている資料には、漂流して救助された生存者が、憲兵らから「口外するな」などといわれた証言が複数残る。沖縄では撃沈のうわさも流れたが、憲兵に「流言飛語を流す非国民」として留置場に入れられた遺族もいた。疎開は地上戦を前に日本軍の食糧確保という目的もあり、さらに勧めるため秘匿されたともいわれる。

 生存者の上原清さん(86)=うるま市=は6日間漂流し救助された後、警察から「対馬丸のことは誰にも話すな」と言われた。当時10歳。現在は体験談を修学旅行生らに語る上原さんだが、公に話せるようになったのは、事件から50年ほど経ってからだった。「悲惨な経験を口止めされた記憶が、ずっと心の傷のようになっていた。生き残ったことへの悔いや罪悪感もあった」

 コロナ禍で講話の機会は減っているが、今はこう思う。「犠牲になった友人たちに対し、私ができるせめてもの弔い。機会ある限り、伝え続けていきたい」

感想
対馬丸記念館
http://tsushimamaru.or.jp/

対馬丸事件の犠牲者の鎮魂と、子供たちに平和と命の尊さを教え、
事件を正しく後世へ伝える為に対馬丸撃沈から60年目に沖縄県那覇市に開館しました。 

対馬丸
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E4%B8%B8

太平洋戦争中の1944年(昭和19年)8月22日、政府命令による学童疎開輸送中にアメリカ海軍の潜水艦の攻撃を受け沈没[5]。犠牲者数1,484名を出した。

この事件は知りませんでした。
口止めして、反省しないことは他にもあったようです。
起きたことを正しく公表しない。
その流れは今でもあるのでしょう。
森加計問題。桜を見る会。
データの改ざんなど
隠すことはまた起こすことにつながります。
公表して反省すべきは反省し、そして次にいかすことではないでしょうか。

「人生は運よりも実力よりも『勘違いさせる力』で決まっている」ふろむだ著 ”錯覚資産を活用する”

2020-08-23 03:48:08 | 本の紹介
・「人々が自分に対して持っている、自分に都合のいい思考の錯覚」は、一種の資産として機能するということだ。これを「錯覚資産」と呼ぶ。

・思考の錯覚を理解した方がよい理由
1) 詐欺に引っかからないようにするには、詐欺の手口を知っておく必要がある。
2) 自分の周囲の人たちを、詐欺から守るため
3) 誰に騙されたわけでもないのに、知らず知らずのうちに、有害な思考の錯覚に陥ってしまうことがある。
4) 錯覚資産がないと、実力をなかなか伸ばせないからだ。

・「実力がある」から、よいポジションを手に入れられるのではなく、「実力があると周囲が錯覚する」から、よいポジションを手にいらられているという部分が大きいのだ。

・錯覚力タイプは、エリートコースに乗り、いい先輩の丁寧な指導を受け、重要な仕事を任され、みんなに助けられ、実力アップの機会に恵まれる。実力タイプは、数年後に廃棄が決まっている老朽化システムのお守りや雑用ばかりさせられ、ろくな経験を積めず、実力が伸び悩む。

・誰もが錯覚資産をいう悪魔の力を駆使しているこの世界では、錯覚資産なしには、自分の人生の活路を切り開くことはできないのだ。

・老人ホームの老人に、観葉植物を配った。
老人のうち半数では、職員が観葉植物の世話をした。残りの老人は、自分で観葉植物の世話をした。
6か月後。
職員が観葉植物を世話した老人の30%が死亡していた。一方で、自分で観葉植物の世話をしている老人のうち、死亡したのは15%にとどまった。

・老人ホームの老人を、学生ボランティアが何度か訪問した。
半分の老人は、その学生ボランティアが訪問する日時を、その老人が決めた。残りの半分の老人は、自分で日時を決められなかった。
2か月後
日時を自分で決められた老人は、そうでなかった老人に比べて、より幸せで、健康で、活動的で、薬の服用量が少なかった。
その数か月後、学生ボランティアの訪問日時を自分で決めた老人の死亡数が極端に多いと知らされ、研究者は愕然とすることになった。
これらのことは、「自分で物事をコントロールする」ということが、心身にどのような影響を与えるを調べる研究だった。
ひとたびコントロールできた老人は、そのコントロールを失うと、酷く死にやすくなることがわかったのだ。

・人間は、コントロールしたいという、強い欲求を持っている。コントロールできると、より幸せで、健康で、活動的になる。

・「成功するかどうかはコントロールできない」という現実を直視するよりも、「成功するかどうかはコントロールできる」という幻想の中で生きたほうが、はるかに幸せなのだ。
しかし、「成功するかどうかはコントロールできる」という幻想に浸れば浸るほど、逆に成功確率は下がっていく。なぜなら、現実が見えていないと、成功確率を下げるような選択をし続けてしまう。
実は、このジレンマの解決策の1つが、前述した「運の運用」なのだ。

・「自分が死んだときに、臓器提供する」と意思表示している人の割合は、次のようになる。
ドイツ      12%
スウェーデン   86%
オーストリア   100%
デンマーク     4%
正解は、「デフォルト値の違い」だ。
臓器提供への同意率の高い国では、「提供したくない人」がチェックを入れなければならない。チェックを入れない人は、臓器提供するとみなされる。同意率の低い国は、その逆なのだ。

・恐ろしいことに、人間は、判断が困難なとき、自分で思考するのを放棄して、無意識のうちに、デフォルト値を選んでしまうことが多いのだ。

・「『大腸がんの人』の98%は、この検査で陽性になる」と「『大腸がんじゃない人』の2%は、この検査で陽性になる」
20代後半の男性は、日本に320万人くらいいる。そのうち、大腸がんにかかっている人は70人もいない。
アメリカで行われた実験
スティーブという人がいる。その人の性格は次のようなものだ。
「他人に関心がなく、現実世界にあまり興味がなく、物静かでやさしく、秩序や整理整頓を好み、細かいことにこだわる」
スティーブは、図書館の司書でしょうか? ⇒80%
それとも、農家のひとでしょうか?    ⇒30%
でも、アメリカでは、司書1人に対して農業従事者は20人以上いる。
1人×0.8=0.8人
20人×0.3=6人
つまり、実際には、スティーブは農業従事者である確率の方がずっと高い。
1) 人間の直感は、「思い浮かびやすい」情報だけを使って、判断をする。
2) 人間の直感は、正しい判断に必要な情報が欠けていても、情報が欠けているという感覚を持たない。

・利害と感情と欺瞞は、錯覚を育て、守り、覆い隠し、日常の薄皮一枚下で、大繁殖させるのだ。

・思考の錯覚のまとめ
1) ハロー効果
2) 少数の法則(統計的には、ぜんぜん有意といえないようなごく少数のサンプル数のデータから、そのデータが示す法則性が真実だとおもいこんでしまうこと)
3) 運を実力だと錯覚する
4) 後知恵バイアス(物事が起きてから、自分はそれが起きることを予測していたと考える傾向)
5) 利用可能性ヒューリスティック(脳がすぐに利用できる情報だけを使って答えを出すことだ)
6) デフォルト値バイアス(取りうる選択肢の中で、過剰にデフォルト値を選んでしまう傾向)
7) 認知的不協和の理論(自分の中で矛盾や葛藤があるとき、無意識のうちに、その矛盾を解消しようとする)
8) 感情ヒューリスティックス
9) 置き換え(答えるのが難しい質問を突き付けられると、無意識のうちにそれを簡単な質問に置き換え、簡単な質問の答えを、元の難しい質問の答えだと思いこむ認知バイアス)
10) 一貫して偏ったストーリーを真実だと思いこむ(すべての情報を与えられるより、一貫して偏った情報だけを与えられたほうが、魅力的で説得力があり正しいと感じる認知バイアス)

・錯覚資産には次の3つの次元がある。
1) 錯覚の種類
2) 錯覚の強さ
3) 錯覚の範囲

・現実世界は、「実力が正しく評価される健全でフェアで気持ちのいい世界」なんかじゃない。思考の錯覚のの泥沼の中で、錯覚資産という卑怯な武器で殴り合う、油断のならないジャングルなのだ。

感想
勘違いさせる力、それも大きいと思いました。
人事評価は難しいです。
人によって異なっています。
また評価する人の力にも左右されます。
実力以上に高く評価され、よい仕事に就くと、それを体験して力を付けます。
そのチャンスを与えられない人は、力があっても伸ばすことができません。

ある部署に一番よくできる人がいました。
その部長がその人を他の部署に出しませんでした。
自分にとって助かるから。
人事から本社に1人出すように言われました。
それはとてもよい異動でした。
その部長は二番目にできる人を出しました。
それから異動した人はそのチャンスを生かし出世しました。
しかし、部長に留められた人は出世できませんでした。
この部長は人材育成よりも、自分のことしか考えていなかったのです。

勘違いさせる力、恋愛でも同じかもしれません。
もてる女性は男性に勘違いさせます。
スキンシップをしたり、気があるようなそぶりを、自然にしている女性がいます。
男性は、自分に気があるのかなと思って声をかけます。
最近の男性は断られるのが怖くて声をかけなくなっています。
でも勘違いした男性は声をかけます。
女性がお化粧や服装、髪型でよりきれいにする一因は勘違いさせるためでもあるのではないでしょうか?
もちろんきれいでいたい。身だしなみというのもありますが。

勘違いさせる力を磨くことも必要かなと思いました。
そして勘違いで巡ってきた運。
自分はそれはできないとか、力がないとか思わずに、その運を掴むことにかけてみることが、未来を切り開くことになるのではないでしょうか。

「有縁を度すべし」という宗教用語があります。
様々な縁があります。
それを放っておくとその縁は生かされません。
度すべし。その縁を生かして行動するとそれは未来を切り開く大きなきっかけになるのではないでしょうか。
大きなことをなした人は縁を上手く活用しているように思います。