平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

江~姫たちの戦国~第1回「湖国の姫」

2011年01月10日 | 大河ドラマ・時代劇
 市(鈴木保奈美)の結婚から浅井の小谷城落城まで。
 歴史ダイジェスト、あるいは民放の歴史バラエティの再現ドラマを見ている感じ。

 <ドラマ>と<再現ドラマ>の違いを論じるのは、別のテーマになるので避けるが、作品としてすべてが軽い感じがする。
 「坂の上の雲」のような気品や重厚さがほしい、大河ドラマには。
 たとえば秀吉(岸谷五朗)。
 市が嫁ぐことになって落ち込んでいる。でも信長(豊川悦司)や重臣たちのいる前で、そんなことするだろうか?
 足利義昭(和泉元彌)。
 確かに義昭は誇張して遊べるキャラなのだが、軽すぎる。

 思っていることを簡単に口に出してしまうことも気になる。
 浅井長政(時任三郎)の前で信長は<義昭は天下取りの道具>と語る。
 長政は市に<自分は信長殿を裏切るつもりだ。そのことを信長に知らせてもいい>と語る。
 先程の秀吉の市に対する恋愛表現もそう。
 信長が副将軍就任を断った時も、義昭はただ不快な顔をしていればいいのにせりふで自分の気持ちを説明していた。
 わかりやすいと言えばわかりやすいが、これが<ドラマ>でなく<再現ドラマ>に見えてしまう理由のひとつ。

 <ドラマ>らしいと思ったのはたとえばこんなシーンだ。
 小谷城にやって来て初めて長政と琵琶湖を眺める市。
 この時は「琵琶の湖と民を愛してほしい」という長政の言葉を聞いているだけだが、「そしてその数ヶ月後」と脚本・田渕久美子さんお得意のナレーションに拠る時間経過をさせた後、同じく琵琶湖を眺めるシーンがあって、市はこう言う。

 「ここからの景色は見飽きぬのう」

 <初めて来た時の市>と<数ヶ月後の市>の変化を映像で的確に描いている。
 表情の変化だけで、彼女の心の変化がわかる。
 これが<ドラマ>だ。
 せりふでやたら説明するのがドラマではない。

 さて、この作品、今後このような形でいくのだろうか?
 今回だけがダイジェストで、江が出て来ればしっかりとしたドラマになるのだろうか?
 予告に拠れば<江が信長に父を見る>みたいな珍説が出て来るようだが、少し不安。
 僕はドラマとして面白ければ、多少の史実の改変はOKという立場だが、その改変が説得力のある作劇で描かれていなければNG。
 ともかく安易で浅い戦国ホームドラマにしてほしくない。


※追記
 今回のクライマックスは長政が市に「市、わしの妻として生きよ」というシーンと茶々(芦田愛菜)が「ややこをおろすなら、私も初を刺して死にまする」というシーンだが、後者は説得力がない。
 なぜなら茶々の描写がそれまで全く描かれていないから。
 平凡だが、茶々が「生まれてくるのは弟かな、妹かな」と楽しみにするシーンとか<生まれてくる子に何かを感じる>みたいなシーンでもあれば大分違っていた。
 ちなみに小谷城落城の時には市と長政の間には姉妹の他に男の子がふたりいて、ふたりとも信長に磔にされて殺されたらしい。(「ワイドスクランブル」で黒鉄ヒロシさんが言ってた)
 これを描くと描かないでは後のドラマの性質が違ってくる。
 田渕久美子さんは後者を選んだようだが、このスウィートな選択が吉と出るか凶と出るか。
 ドラマの軽さとならなければいいが。

※追記
 ナレーションは今後も市でいくのだろうか?
 死んでしまった人間がナレーション。
 「ゲゲゲの女房」でも同じ手法がとられたが、「ゲゲゲ」の成功に乗っかっている?
 市がナレーションをすることにちゃんと意味があればいいのだけれど。


コメント (6)
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