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平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

江~姫たちの戦国~第17回「家康の花嫁」

2011年05月10日 | 大河ドラマ・時代劇
 天下が欲しい。
 関白の位が欲しい。
 茶々(宮沢りえ)が欲しい。
 そのためには手段を選ばない。妹も母親も売る。
 その結果、秀吉(岸谷五朗)は<罪>を背負うことになるが、それさえも乗り越えて、秀吉はこれらのものを求めずにはいられない。
 強すぎる欲望。激しい業。
 
 この作品で、秀吉はそんな人物として描かれている。
 そして、作家はそんな<激しい業>の持ち主である秀吉にある意味、敬意を表している。
 日本の歴史上、こんな人間はいないから。
 普通の人間の道徳観などを吹き飛ばしてしまう様な<強い欲望>。
 普通の人間のものさしでは計ってはいけない<欲望の塊>。
 この秀吉を非難することはたやすい。
 だが、非難する人間は、そうすることで自らの<小市民性>を思い知るのだ。
 秀吉と比べて、自分は何と平凡に、欲望を抑えて、小さな幸せにしがみついて生きているのかと。

 今回、僕はこの作品を肯定的に描いているのですが、作家が秀吉を通して描きたかったこととは、こういうことではないかと思います。
 だから茶々も心を動かされた。
 家康(北大路欣也)も頭を下げた。
 この自分の欲望に忠実すぎる人間にはかなわないと思ったから。

 では、この<欲望の塊>が行き着く所はどこか?
 若くて勢いがある時はまだいい。
 乱暴にたてる茶も「見事で美味しい」ものになる。
 だが、若さや勢いがなくなれば、無惨な<欲望の塊>の老人でしかない。
 今後、秀吉はそんなふうに描かれていくのであろう。
 もののあはれ、諸行無常……、秀吉の死と大坂城落城でそんなことが描かれるに違いない。
 あるいは、それを描いてくれれば、深い作品になると思うのですが……。 


コメント (3)
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