三成(田中圭)と官兵衛(岡田准一)の違い。
小田原攻めで秀吉(竹中直人)が駿府城に入る時、
三成は、家康が謀反を企んでいるという噂を聞いて「なりませぬ、殿下! 駿府城ご入城は危のうございます」と言う。
一方、官兵衛は、「噂に振りまわされているようでは世の笑い者になる」と反論する。
北条の処遇をめぐっても、
三成は<後の災いになるから北条を滅ぼしておくべき>と主張するのに対し、
官兵衛は<寛大な心で許して心服させ、味方として取り込むべき>と反論する。
三成は<人を信じない人物>
官兵衛は<人を信じる人物>
三成の発想の根本が<不信>であるのに対し、官兵衛は<信じること>から入る。
これは本来なら逆かもしれない。
官兵衛は軍師だし、裏切りが当たり前の世界で生きてきたのだから、人は信じられないものという前提で物事を考えるのが普通だ。
おね(黒木瞳)と淀(二階堂ふみ)の違いもこれに似ている。
おねはおおらかに他者を取り込むのに対し、淀は他者を排し、拒絶する。
この対立関係の中で秀吉は揺れているが、どうやら<不信>の方に傾きつつあるようだ。
<不信>と<信じること>
どちらが正解なのだろう?
後の家康によって豊臣が滅ぼされることを考えると、<不信>の方が正解であったように思えるし、関ヶ原を考えると、逆のような気がする。
関ヶ原での三成の敗北はまさに<不信>が招いたこと。
三成が<寛容で他者を受け入れる人物>だったら、加藤清正も福島正則も他の大名たちも反徳川にまわっていたかもしれない。
いずれにしても<不信>は友達が少なくなりますよね。
不信は<他者排除>の論理。
まあ、信じすぎても問題はあるわけで、バランスが必要なんでしょうけど。
あと、今回面白かったのが以下のエピソード。
おねの悪口を言う淀に対して、秀吉は「茶々、おねのことをとやかく言うのは許さん」。
まだ、秀吉は正気を保てているようだ。
一方、利休の竹の花入れに対しては、「わしは派手なものが好きだ」と投げすてる。
他者の価値観を受け入れることができなくなった秀吉。
三成のいくさ下手に関しては、忍城の攻防を描いた『のぼうの城』を思い出してしまいました。
レビューはこちら→『のぼうの城~長親と三成の人望』
小田原攻めで秀吉(竹中直人)が駿府城に入る時、
三成は、家康が謀反を企んでいるという噂を聞いて「なりませぬ、殿下! 駿府城ご入城は危のうございます」と言う。
一方、官兵衛は、「噂に振りまわされているようでは世の笑い者になる」と反論する。
北条の処遇をめぐっても、
三成は<後の災いになるから北条を滅ぼしておくべき>と主張するのに対し、
官兵衛は<寛大な心で許して心服させ、味方として取り込むべき>と反論する。
三成は<人を信じない人物>
官兵衛は<人を信じる人物>
三成の発想の根本が<不信>であるのに対し、官兵衛は<信じること>から入る。
これは本来なら逆かもしれない。
官兵衛は軍師だし、裏切りが当たり前の世界で生きてきたのだから、人は信じられないものという前提で物事を考えるのが普通だ。
おね(黒木瞳)と淀(二階堂ふみ)の違いもこれに似ている。
おねはおおらかに他者を取り込むのに対し、淀は他者を排し、拒絶する。
この対立関係の中で秀吉は揺れているが、どうやら<不信>の方に傾きつつあるようだ。
<不信>と<信じること>
どちらが正解なのだろう?
後の家康によって豊臣が滅ぼされることを考えると、<不信>の方が正解であったように思えるし、関ヶ原を考えると、逆のような気がする。
関ヶ原での三成の敗北はまさに<不信>が招いたこと。
三成が<寛容で他者を受け入れる人物>だったら、加藤清正も福島正則も他の大名たちも反徳川にまわっていたかもしれない。
いずれにしても<不信>は友達が少なくなりますよね。
不信は<他者排除>の論理。
まあ、信じすぎても問題はあるわけで、バランスが必要なんでしょうけど。
あと、今回面白かったのが以下のエピソード。
おねの悪口を言う淀に対して、秀吉は「茶々、おねのことをとやかく言うのは許さん」。
まだ、秀吉は正気を保てているようだ。
一方、利休の竹の花入れに対しては、「わしは派手なものが好きだ」と投げすてる。
他者の価値観を受け入れることができなくなった秀吉。
三成のいくさ下手に関しては、忍城の攻防を描いた『のぼうの城』を思い出してしまいました。
レビューはこちら→『のぼうの城~長親と三成の人望』