平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

「斜陽」 太宰治①~生きるという事。それは醜くて、血の匂いのする、きたならしい事のような気もする

2021年01月09日 | 小説
 太宰治の『斜陽』。
 戦後社会で居場所をなくし、朽ち果てていくしかない人たちの物語だ。

 主人公のかず子たちの家は華族。
 戦後社会では、もはや戦前のような特権階級ではない。
 財産を税金で持っていかれ、お屋敷も売った。

 かず子の母は生粋の貴族で、スープの飲む時の姿も優雅。
 そんな母をかず子はこんなふうに評す。
 人と争わず、憎まずうらまず、美しく生きた人。
 
 かず子の弟の直治(なおじ)は貴族である自分を否定するために、
 阿片や酒に浸り、母親の愛情を拒んだ「悪漢」「不良」。
 しかし根が華族なものだから「悪漢」にも「不良」にもなれず、もがき苦しんでいる。

 そんなふたりが戦後社会に遭遇した時、どう対処したか?

 かず子の母は自分が滅びゆく存在であることを受け入れ、諦め、病で穏やかに死んでいった。
 弟の直治は戦後社会に抗い、たたかい、結局、居場所を見つけられずに自殺した。
 受け入れるか、抗うかの違いはあるが、
 ふたりとも戦後社会に破れて死んでいったのだ。

 では、かず子は戦後社会とどう向き合ったか?
 かず子はこう決意する。

『けれども、私は生きて行かなければならないのだ。
 私はこれから世間と争って行かなければならないのだ。
 ああ、お母さまのように、人と争わず、憎まずうらまず、美しく悲しく生涯を終る事の出来る人は、もうお母さまが最後で、これからの世の中には存在し得ないのではなかろうか。
 死んで行くひとは美しい。
 生きるという事。生き残るという事。それは、たいへん醜くて、血の匂いのする、きたならしい事のような気もする。
 けれども、私には、あきらめ切れないものがあるのだ。
 あさましくてもよい、私は生き残って、思う事をしとげるために世間と争って行こう。
 私のロマンチシズムや感傷が次第に消えて、何か自分が油断のならぬ悪がしこい生きものに変って行くような気分になった。』
(新潮文庫版149ページ・一部略)

 僕はこのくだりを読むと、毎回心がざわざわする。
・生きるという事は醜くて、血の匂いのする、きたならしい事。
・あさましくてもよい、生き残って世間と争って行こう。
 かず子さん、たくましい!
 彼女は母親のような諦めも、弟のような自殺も拒んだ。

『斜陽』は太宰治の「生への希求」の作品である。
 世の中が汚く見えて、居場所がなくて苦しんでいる人にとって、このかず子の決意は力を与えるだろう。
『生きるという事は醜くて、血の匂いのする、きたならしい事』と認識するだけで、すこしはたくましく生きられる気がする。
 
コメント (8)
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