平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

「光る君へ」 最終回「物語の先に」

2024年12月16日 | 大河ドラマ・時代劇
 道長(柄本佑)の死。
 道長の生きた意味とは──
「いくさのない太平の世を守られました」
「源氏の物語はあなた様なしでは生まれることはありませんでした」
 これだけで道長は救われたことだろう。
 何しろこれを大好きなまひろ(吉高由里子)に言われたのだから。

 そんな道長の人生に欠けていたものがある。
 まひろと共に歩む人生だ。
 しかし、これはかなわない。
 別の人生を歩まねばならない。
 だから、まひろは物語をつくる。
 貧しい家に生まれた三郎という少年の物語だ。
 三郎はそこで少女に出会う。
「続きはまた明日」
 道長の命を繋ぎとめるために、まひろは続きを明日にのばす。
 続きを知りたくて道長は生きようと思う。
 しかし……。
「生きることはもうよい」
 物語の力にも限界があった。
 物語は心を癒し、慰めることができるが、やはり「幻」でしかない。
「もうよい」と言われて、まひろは物語のラストを語る。
「川のほとりで出会った娘は名を名乗らず去っていきました」
「三郎が手を差し出すと、その鳥が手のひらに乗ってきたのです」
 つまり少女は「小鳥」だったのだ。
「小鳥」が意味する所は──「自由」そして「まひろ」。
 娘が名を名乗らずに去っていったのは、何ものにも囚われたくなかったからかもしれない。
 三郎の手のひらに止まったのは、三郎のことが好きだったからなのだろう。
 この作品で「小鳥」が象徴することはさまざまだ。

 そして「手のひら」。
 死の床にある道長はまひろに手を握られて、息を大きく吐き、安らぐ。
 手のひらの温もりは人に力を与える。
 命を繋ぎとめる力にもなる。
 それが愛するまひろなら尚更だ。

 しかし、倫子(黒木華)がやって来て道長の死を確認した時、誰も道長の手を握っていなかった。
 繋ぎとめる手がなくなって、道長は旅立っていった。
 人はひとりで死んでいくものだと思うが、孤独でさびしい死だ。
 死ぬ瞬間、道長は何を思ったのだろう?
 まひろのことか? この世のむなしさか?
 でも、もしかしたら道長は自分の手のひらの上に小鳥が止まるのを見たかもしれない。

 なかなかドライな死の描写だった。
 物語の限界を描き、死の孤独を描き……。
 それでいて、手のひらや小鳥のことなど感傷的な描写もあった。
 …………………………………………

 まひろは離れていても道長の死を確認できたようだ。

 夫・宣孝(佐々木蔵之介)の時のように人づてに「亡くなりました」では、本当かどうかわからず、
「幻を追いかけて狂ってしまう」と語っていたまひろ。
 しかし、道長は「まひろ」と語りかけてくれた。
 これで死を確認できた。
 
『めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな』

『百人一首』にもある、友にあてて歌ったとされる紫式部の歌で、
 賢子(南紗良)もそう言っていたが、視聴者には「道長」のことだとわかる。

 そして道長が亡くなって囚われるものがなくなったまひろ。
 自由になったまひろは旅に出た。
 そこで見たものは──
「道長様、嵐が来るわ……」
 太平の世の終わり、武家の時代の到来である。

 このラストについては賛否の分かれる所であろう。
 実にドライ過ぎる。
 もう少し感傷的で泣かせてほしい気もする。
「自由」「旅」もずっと内包していたテーマなんだろうけど、ここを掘り下げるか? と思った。
 ………………………………………

 個々の登場人物についても簡単に。

・頼通(渡邊圭祐)
  身内を登用。強権的に。
・道綱(上地雄輔)
  政とは「地位だな」
・源俊賢(本田大輔)
 「出世」できたのは明子のおかげだ。

 これでは世は乱れるよね……。
 道長の考えがまったく理解されていない……。
 道長が「世の中はまったく変わっていない」と嘆くのも当然。
 そんな中、

・隆家(流星涼)
「内裏の虚しい話し合いに出ずともよくなっただけで清々した」
 実に清々しい。

・公任(町田啓太)、斉信(金田哲)、行成(渡辺大知)
 道長との友情を貫き通した。
 特に道長と同日に亡くなった行成。

 女性たちは──

・倫子(黒木華)
「次の帝も、その次の帝も、わが家からお出ししましょう」
 道長と彰子をまひろに奪われた倫子にとって、
「家の隆盛」が彼女のアイデンティティだから仕方ないか。

・彰子(見上愛)
「他家を外戚としてはならぬ。わが家を凌ぐ家が出て来るやもしれぬ」
「皇統は一条帝の皇統のみになった」
 彰子も「家」を重視する考えになったようだ。
「一条帝の皇統」へのこだわりは一条天皇への思いゆえだろう。

・赤染衛門(凰稀かなめ)
『栄花物語』を書き上げた。作家としての自分の評価にこだわっている。
 倫子に「わたしの誇り」と言われたことで救われた。

・清少納言(ファーストサマーウィカ)
「一条の帝の心を揺り動かし、政も動かしました。
 まひろ様もわたしもたいしたことを成し遂げたと思いません?」
 清少納言らしい発言だ!

・いと(信川清順)
 最終的に、いとの心の中にいたのは惟規(高杉真宙)だった。

・賢子(南紗良)
「わたしは光る女君になります」
 恋多き女性に。
「上流だってすぐれた殿御はめったにおりませんことよ」
 このあたりは、さすがまひろの子。

 そして──
・乙丸(矢部太郎)
 まひろの永遠の同行者だった。
 それと、きぬ(蔵下穂波)は亡くなってしまったんですね。

 サブの登場人物にも「物語」がある。
 ひとりひとりを掘り下げてもドラマになりそうだ。

 平安時代を扱ったこと。
 物語が現実を動かしたこと。
 ひとりひとりの登場人物にドラマがあったこと。
 お見事な作品でした。
 一年間楽しませていただきありがとうございました。


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10 コメント

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基本的人権=侵すことのできない永久の権利 (コウジ)
2024-12-22 09:11:03
2020-08-15 21:49さん

基本的人権。
さかのぼればロックやルソーの『天賦人権論』に行き着きますよね。
『すべて人間は生まれながらに自由かつ平等で、幸福を追求する権利をもつ』

日本では、日本国憲法11条
『国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる』

ここで注目すべきは「生まれながら」「侵すことのできない永久の権利」という言葉で、一般的な既得権とは一線を画します。
………………………………

人類の歴史とは『人権が拡大していく歴史』とも言えますよね。
昔は王様にしかなかった人権が、貴族・僧侶→富豪・富農→国民へと拡大していきました。

なので、せっかく獲得した人権を国民が安易に捨ててしまうのは愚かですよね。
返信する
庶民が悪しき既得権を持っている? (2020-08-15 21:49)
2024-12-22 07:41:22
>人の歴史とは『既得権を壊して新しい既得権をつくることの繰り返し』だと考えています。

なるほど、おっしゃるとおりですね。
鎌倉時代室町時代の歴史は、公家が荘園に持っている権益を削って、武士が荘園の所有権を乗っ取っていった歴史と読み替えることもできます。
さまざまな「構造改革」にしても、既得権をぶっ壊して、そのあとに新たな権益をつくる動きだったのかもしれません。

ただ、既得権というと気をつけたいのが、基本的人権です。
低収入だったり生活保護を受けていたり、そういう人たちは生産性が低く社会のお荷物なので、人権を制限してもいいのではないか、といったニュアンスのネット言論が目立つようになりました。
この裏側にあるのは「俺たちは高額納税者だから、特別に高い行政サービスを受ける権利がある」「生活保護受給者などに頼って生きているような連中に人権などなし」といった類いの考えです。ネット愛国者ばかりではなく、比較的中庸な人にもこういった考え方が出ているような気がします。

公家と武士のように、強いもの同士が戦って、権益の奪い合いをするならまだいいんですが、政治力が弱い庶民から絞る方が楽なので、庶民の「生きる権利の制限」を既得権の打破という言葉に言い換えていくとしたら、怖いことですね。
返信する
人の歴史とは既得権の打破と再生の繰り返し (コウジ)
2024-12-19 08:56:56
2020-08-15 21:49さん

いつもありがとうございます。

音楽。
平安時代に合わないかと思っていましたが、案外しっくり来ましたね。
攻めた演出に拍手です。

貴族社会から武士社会へ。
大河ドラマで言えば、『炎立つ』→『平清盛』→『鎌倉殿の十三人』という流れ、年数で言えば約200年の時が必要なので、現状ではその予感という感じなのでしょうね。
紫式部の作家の鋭い感性がそれを捉えたという感じ。

『地方と宮廷のギャップ』
これをまひろは太宰府を見て実感しました。
隆家もそう。
地方のことなど考えずに宮廷政治に腐心している公卿たちはその象徴。
少女の頃、まひろは毎日町に出ましたが、『宮廷でない世界』は今作のサブテーマになっていたと思います。

現代政治でも、さまざまな既得権が存在していますよね。
武士は貴族の既得権を少しずつ打破していきました。寺社の既得権もそう。
明治維新ではブルジョワ市民が武士の既得権を破壊しました。
そして1945年の終戦で、財閥や華族制度などの既得権が否定されました。
人の歴史とは『既得権を壊して新しい既得権をつくることの繰り返し』だと考えています。

マルクスは『すべての既得権がない平等な人民社会』を構想しましたが、現状では理論で終わってしまっている感じですね。
返信する
雑感 (2020-08-15 21:49)
2024-12-18 20:53:29
雑感です。

1.架空の人物
直秀、乙丸、双寿丸、架空の人物がしっくり物語の中になじんで重要な役割を果たしていました。
架空の人物が不自然な脚本もあったりするので、今回はよかったです。

2.音楽
バッハ風の曲、ドビュッシー風の曲、ラフマニノフ風の曲、ゴリゴリにディストーションが効いたエレキギターの曲、いろいろ楽しめました。

3.社会の変化
貴族社会から武士社会と単純に言い切れないところもあります。
武士が荘園の現地管理人になることが多くなって発言権が増していき、武士の組合といった体で組織したのが幕府という解釈もできそうです。
ちなみに、わたしは鎌倉殿の13人は見ていなかったので分かりませんが、劇中で幕府はどういった感じだったんでしょうか。
ただし、太閤検地で土地私有はなくなり、荘園はなくなっています。なので、江戸時代になると、人事異動のように大名の国替えをさせることができるようになっていたわけです。
よく「信長・秀吉・家康」と言われますが、太閤検地を境に、荘園がない時代に激変していますが、大河ドラマではそういった視点はほとんどないわけです。
まあ、そんな能書きたれても面白くないので、無理もないですけど。

4.新しい中世と現代の荘園(脱線)
そして、今の日本ですが、政治家は収入も不透明ですし、税金も払わないで済んでいますね、つまり「不輸不入の権」を手に入れています。
彼らは見えない荘園のオーナーで、荘園領主です。
歴史の視点で言うと、荘園が存在する社会は、洋の東西を問わず中世に分類されるので、今の日本はもう一度中世に逆戻りしていると考えてもいいでしょう。
歴史が繰り返すものならば、今後どうなるんでしょうか。この「新しい中世」が、日本に何をもたらすのか…
そんなことまで考えてしまいました。
返信する
凪のお暇 (コウジ)
2024-12-18 11:59:41
megumiさん

「凪のお暇」もよかったですね。
確かmegumiさんに紹介していただいて見た作品でした。
返信する
同感です♪ (megumi)
2024-12-18 10:41:39
コウジ さん おはようございます。

私も、最後の2話は消化試合みたいで、物足りなかったです。

でも、概ね満足しています。
大河ドラマで満足なんて、久しぶりです。

「ブラッシュアップライフ」
私は未見ですが、性格が真逆の息子2人が揃って良い!と言います。

そう!
黒木華にハズレ無し。
「凪のお暇」も好きでした。

映画「せかいのおきく」は白黒ではありますが
オープニングから悪臭漂うので見続けることが出来ませんでした。
やはり、汲み取りトイレや肥溜めの実物をみた世代・体験者には無理ですね。笑
返信する
完走されたんですね (コウジ)
2024-12-17 09:22:13
megumiさん

コメントありがとうございます。

完走されたんですね!
僕は、ラスト2回がバタバタし過ぎて不満だったのですが、それ以外はお見事でした。

「先生、隣に座っていただけませんか」
見てみます。
日テレのドラマ「ブラッシュアップライフ」
黒木華さん、一見おとなしい女性がキレまくる瞬間がさすがだと思いました。
TBSの「下克上甲子園」では男勝りの野球部顧問役。
「イチケイのカラス」もよかったです。
黒木華にハズレなし?
最近では「孤独のグルメ」でデコトラの運転手役で出ていましたね。
返信する
一年間ありがとうございました (コウジ)
2024-12-17 09:09:38
TEPOさん

いつもありがとうございます。

老境。
若い頃の「ギラギラ」を捨てて、自分の人生をふり返ること。
たとえば清少納言は恨みを捨てて「まひろ様もわたしもたいしたことを成し遂げたと思いません?」
隆家は「内裏の虚しい話し合いに出ずともよくなっただけで清々した」
ふたりとも良い人生の総括だと思います。
いまだ「ギラギラ」の炎が消えていないは、俊賢、斉信、道綱でしょうか。
でも彼らの場合は、十分に出世した余裕の「ギラギラ」でしょうか?

彰子は──
>「政権の安定」を志した道長の思いを自分のものとした
おっしゃるとおりだと思います。
彰子の場合、目的では「家の隆盛」ではなく「政権の安定」。
自分が権力闘争の被害者でもあるので、その思いは強いんでしょうね。

倫子の「わたしと彰子はあなたの手のひらの上で転がされていたのかしら」にはドキッとしました。
「他に隠していることはないのね?」と問われた時、まひろは賢子のことを隠しましたが、さすがに言えませんよね。
言えば賢子は何らかの形で排除されるでしょう。
緊張感のあるシーンでした。

その後、倫子は冷静になって理性的な判断ができるようになりました。
道長の命を繋ぎとめるにはまひろしかいないと判断しました。
こう考え直せる所が倫子さまらしい所。

父親が道長であることは話しませんでしたね。
僕は「死の床で、まひろが賢子に自分と道長のことを語る」というラストを予想していました。
賢子はこれを受け入れることができる、強くて聡明な女性だと考えたので。
この件に関しては、まひろは賢子に不誠実かもしれません。

>最後の台詞は大石静さんが最初から考えていた
そうなんですね。
「嵐が来る……」
シャーロック・ホームズのラストが同じなんですよね。
ホームズの言う「嵐」とは「第一次世界大戦」なのですが、大石静さんがホームズを意識したかどうかはわかりません。
為時の「おなごでよかった」は『赤毛のアン』かと思いました。

最後に、一年間コメントをいただきありがとうございました。
返信する
十分、楽しみました (megumi)
2024-12-17 09:01:54
コウジさん おはようございます。

たいして期待もせず、キャストと雅な世界に興味を抱いて見始めましたが
1年間、欠かすことなく楽しく見ました。
フィクションと史実を取り混ぜながら、見事な出来だったと思います。

それにしても、黒木華さんは素晴らしい女優ですね。
柄本佑さんとの夫婦役の映画「先生、隣に座っていただけませんか」は
ご覧になりましたか?
彼女の凄味が活かされていますよ。
返信する
「老境」と「若い世代」 (TEPO)
2024-12-16 17:58:31
先週の予告編では、明子様が舌を出したり、誰かが手で道長の頬を挟んで「変顔」させていたりと、意外な人物の稚気(子どもっぽいおふざけ)シーンが続出していました。
それは皆まひろ・道長世代の人たちで、老境に入った彼らが、過去に色々なことはあったものの、取りあえずは現状と和解し、穏やかに暮らしている様子を反映しているように感じました。
ちらりと道長に対する恨み言は挟むものの、明子は道長の忠実な側近となった兄俊賢と舌を出し合い、清少納言は昔のようにまひろと仲良く談笑していました。
例の公式ガイドブックを元にしたネタバレ予想情報によれば、「源氏物語」ファンである「菅原孝標の娘」ちぐさは、父親に伴われて「憧れの籐式部先生」を訪れたことになっていましたが、本番ではまひろは自分が「源氏物語」の作者であることを隠してちぐさで遊んでいました。
道長の頬を挟んでいたのは道綱でしたが、道長側から見れば「呆れて」はいるものの「嫌い」ではない、といったところでしょう。

倫子様対まひろという今回―というよりも作品全体を通じての―最大の「対決」は、こうした「老境からくる和解」の雰囲気の中で展開していたように思いました。
たしかに、倫子はまひろに「自分から道長と彰子を奪った」と恨み言を言いました。
しかし、倫子は現時点での道長のことを思い、まひろに道長の「妾」になることを依頼します。
「妾」と言っても今更男女の関係をというのではなく、夫の死の床に付き添うという妻の特権の一部をまひろに譲るということでした。
かくして、本作最後の二人の「ラブシーン」が実現することになります。
>「続きはまた明日」
>道長の命を繋ぎとめるために、まひろは続きを明日にのばす。
>続きを知りたくて道長は生きようと思う。
このあたりのまひろの気持ちは痛いほどよく分かります。

老境に入ったまひろ・道長世代の人たちとは対照的に、若い世代は「ギラギラ」していました。

>彰子「他家を外戚としてはならぬ。わが家を凌ぐ家が出て来るやもしれぬ」
あの「仰せのままに」姫がここまで変貌するとは驚きです。
祖父兼家、あるいは父道長の権力志向と見えた側面が乗り移ったかのよう。
おそらく、「政権の安定」を志した道長の思いを自分のものとしたのかもしれません。

>賢子「わたしは光る女君になります」
本作では「桐壺帝:桐壺更衣:光源氏=道長:まひろ:賢子」という三項比例式が成り立っているのですが、まひろは倫子に賢子のことは言いませんでしたね。
親仁親王(→後冷泉天皇)の乳母へと抜擢されたのは、無論道長の父としての思い故でしょうが、その経緯には何も触れることなく、淡々と事実だけが紹介されていました。
賢子自身が自分の出自を知ったか否かについては本作は全くの沈黙。

最後に堂々たる「騎馬の鎧武者」として登場した双寿丸。
登場したばかりの頃は、ろくに刀も差さず、獲物はただの棒きれ。
さすがに「刀伊の入寇」の際は実戦だったので、穂のついた簡単な槍を振り回していました。
あれからしばらく年月が経過しているので、双寿丸が個人的に出世したのか、あるいは、武士そのものの存在感が増大したのか。
「嵐が来るわ……」という最後の台詞は大石静さんが最初から考えていたものだったそうです。
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