「吾輩は猫である」のラストは次のような形で終わる。
主人の残したビールを飲んで酔っ払ってしまい、水の入った甕(かめ)の中に落ちるのだ。
──やられた。どうやられたのか考える間がない。
我に帰ったときは水の上に浮いている。苦しいから爪でもって矢鱈(やたら)に掻いたが、掻けるものは水ばかりで、掻くとすぐもぐってしまう。水から縁(ふち)までは四寸余もある。足をのばしても届かない。飛び上っても出られない。もがけばがりがりと甕に爪があたるのみで、あたった時は、少し浮く気味だが、すべればたちまちぐっともぐる。もぐれば苦しいから、すぐがりがりをやる。そのうちからだが疲れてくる。
その時苦しいながら、こう考えた。こんな呵責に逢うのはつまり甕から上へあがりたいばかりの願である。あがりたいのは山々であるが上がれないのは知れ切っている。吾輩の足は三寸に足らぬ。甕のふちに爪のかかりようがなければいくらも掻いても、あせっても、百年の間身を粉(こ)にしても出られっこない。出られないと分り切っているものを出ようとするのは無理だ。無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない。自ら求めて苦しんで、自ら好んで拷問に罹(かか)っているのは馬鹿気ている。
「もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎりご免蒙(こうむ)るよ」と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。
次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても差し支えはない。ただ楽である。否(いな)楽そのものすらも感じ得ない。日月(じちげつ)を切り落し、天地をして粉虀(ふんせい)して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。
これが漱石の「死」に対する考え方なんだろうな。
ひとつは、「死」は突然、不条理にやって来る。
劇的でも何でもない。
何とドライでクールな考え方だろう。
ふたつめは仏教的な人生観。
「出られないと分り切っているものを出ようとするのは無理だ。無理を通そうとするから苦しいのだ」
仏教ではこれを「諦め」「諦念」という。
やってもどうにもならないことは諦める。
老いも死も避けられないんだから、そのまま受け入れる。
大きな時代の流れを個人が押し戻すことなど出来ないのだから、受け入れる。
無理に抗おうとするから苦しくなる。
たとえば、漱石は明治の世の中に違和感を抱いていたが、それを告発することも、社会運動で改革をめざすことも、偽悪で逆に社会を挑発することもしなかった。
どうにもならないことは抗ってもしょうがないと「諦め」ていたからである。
やはり漱石は「高踏派」なんですね。
みっつめは「死」は安らかなものであること。
「吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい」
生きることは厄介で、腹の立つことばかりで、ままならず、不安で、苦しいもの。
どんなに平凡な人生でも、死や病気の恐怖はあるし、生活やお金の不安はあるし、思いどおりにいかないし、人間関係は厄介だし、何かが欠けてる気がするし、心はいつも落ち着かない。
そんな中、死は太平をもたらしてくれる。
南無阿弥陀仏。
ありがたい。ありがたい。
こういう心境で死にたいものですね。
「吾輩は猫である」のラストの死の描写は淡々としているが、深くて、ある意味、劇的ですらある。
猫は見事な市井の哲学者だった。
主人の残したビールを飲んで酔っ払ってしまい、水の入った甕(かめ)の中に落ちるのだ。
──やられた。どうやられたのか考える間がない。
我に帰ったときは水の上に浮いている。苦しいから爪でもって矢鱈(やたら)に掻いたが、掻けるものは水ばかりで、掻くとすぐもぐってしまう。水から縁(ふち)までは四寸余もある。足をのばしても届かない。飛び上っても出られない。もがけばがりがりと甕に爪があたるのみで、あたった時は、少し浮く気味だが、すべればたちまちぐっともぐる。もぐれば苦しいから、すぐがりがりをやる。そのうちからだが疲れてくる。
その時苦しいながら、こう考えた。こんな呵責に逢うのはつまり甕から上へあがりたいばかりの願である。あがりたいのは山々であるが上がれないのは知れ切っている。吾輩の足は三寸に足らぬ。甕のふちに爪のかかりようがなければいくらも掻いても、あせっても、百年の間身を粉(こ)にしても出られっこない。出られないと分り切っているものを出ようとするのは無理だ。無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない。自ら求めて苦しんで、自ら好んで拷問に罹(かか)っているのは馬鹿気ている。
「もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎりご免蒙(こうむ)るよ」と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。
次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても差し支えはない。ただ楽である。否(いな)楽そのものすらも感じ得ない。日月(じちげつ)を切り落し、天地をして粉虀(ふんせい)して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。
これが漱石の「死」に対する考え方なんだろうな。
ひとつは、「死」は突然、不条理にやって来る。
劇的でも何でもない。
何とドライでクールな考え方だろう。
ふたつめは仏教的な人生観。
「出られないと分り切っているものを出ようとするのは無理だ。無理を通そうとするから苦しいのだ」
仏教ではこれを「諦め」「諦念」という。
やってもどうにもならないことは諦める。
老いも死も避けられないんだから、そのまま受け入れる。
大きな時代の流れを個人が押し戻すことなど出来ないのだから、受け入れる。
無理に抗おうとするから苦しくなる。
たとえば、漱石は明治の世の中に違和感を抱いていたが、それを告発することも、社会運動で改革をめざすことも、偽悪で逆に社会を挑発することもしなかった。
どうにもならないことは抗ってもしょうがないと「諦め」ていたからである。
やはり漱石は「高踏派」なんですね。
みっつめは「死」は安らかなものであること。
「吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい」
生きることは厄介で、腹の立つことばかりで、ままならず、不安で、苦しいもの。
どんなに平凡な人生でも、死や病気の恐怖はあるし、生活やお金の不安はあるし、思いどおりにいかないし、人間関係は厄介だし、何かが欠けてる気がするし、心はいつも落ち着かない。
そんな中、死は太平をもたらしてくれる。
南無阿弥陀仏。
ありがたい。ありがたい。
こういう心境で死にたいものですね。
「吾輩は猫である」のラストの死の描写は淡々としているが、深くて、ある意味、劇的ですらある。
猫は見事な市井の哲学者だった。
記事の作成、お疲れ様です。
死にゆく猫の心理描写が淡々と描かれていますね。
諦めもありますが、仕方が無い様
宗教的であり哲学でもある。 此の猫は 漱石の幻影のようですね。
其のまま受け入れる・・
キリスト教には死を拒絶する教え、イエスのように復活すると言う考えも
あります。 概念が違う物です。
多分、人間以上に考える動物かもです。
近い将来、猫から総理大臣が出るかもです。
いつもありがとうございます。
キリスト教ではこういう時、どう考えるんでしょうね?
というわけで、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のサソリのエピソードを思い出しました。
食べ物を求めるイタチに追われて井戸に落ちたサソリは「このまま無駄に死ぬくらいならイタチに食われて、イタチの明日の糧になった方がよかった」と後悔する。
大西洋で海難事故に遭ったかほる子のエピソードでは、かほる子は、ボートに乗らず自分が犠牲になって他の人を助け、それが神の祝福に通じると考える。
死に向き合った時のキリスト教と仏教の違い、面白いですね。
いつもありがとうございます。
>近い将来、猫から総理大臣が出るかもです。
以前、象が転んださんは「記憶にございません」のレビューを書いていらっしゃいましたが、テレビドラマ「総理と呼ばないで」も書いた三谷幸喜さんの発想はこれなんでしょうね。
つまり、総理にまったく向かない存在が総理になったらどうなるか?
漱石が現代にいたら、猫が総理大臣をやる小説を書いていたかもしれません。