冷静な皮肉屋の秀忠(向井理)。
父親の家康(北大路欣也)には反抗。
しかし、江(上野樹里)と遭遇すると、「跳ねっ返りのおなごのくせに!」「元服したての子供のくせに!」。
少女マンガですね。
不良の彼がヒロインにだけ心を開くという図式。典型的なパターン。
脚本の田渕久美子さんはこういうのがお得意なんですよね。
どこかのパターンを借りてきて、物語にミックスさせる。
「篤姫」は「シンデレラ」だし、勝家と反発する江の関係は、昔よくあった父と娘のドラマ。
「篤姫」の時は新鮮だったが、最近は安っぽく見える。
僕が<安易でない>と考えるのは、たとえば今回の秀吉(岸谷五朗)と利休(石坂浩二)のやりとり。
茶碗を使って、ふたりの間の葛藤を見事に描いている。
「わしがこの茶碗を嫌いなのは知っているだろうが!」
「忘れておりました」
「黒きは古き心、赤きは雑なる心」
「雑なる心だと!」
こういうやりとりを僕は見たい。
小道具を上手く使った、これぞプロの仕事だ。オリジナルだ。
決してどこかで見た様な「跳ねっ返りのおなごのくせに!」「元服したての子供のくせに!」ではない。
期待していた江と秀忠のやりとりだが、今後もこんな感じなのかな?
安易な物作りはやめてほしい。
父親の家康(北大路欣也)には反抗。
しかし、江(上野樹里)と遭遇すると、「跳ねっ返りのおなごのくせに!」「元服したての子供のくせに!」。
少女マンガですね。
不良の彼がヒロインにだけ心を開くという図式。典型的なパターン。
脚本の田渕久美子さんはこういうのがお得意なんですよね。
どこかのパターンを借りてきて、物語にミックスさせる。
「篤姫」は「シンデレラ」だし、勝家と反発する江の関係は、昔よくあった父と娘のドラマ。
「篤姫」の時は新鮮だったが、最近は安っぽく見える。
僕が<安易でない>と考えるのは、たとえば今回の秀吉(岸谷五朗)と利休(石坂浩二)のやりとり。
茶碗を使って、ふたりの間の葛藤を見事に描いている。
「わしがこの茶碗を嫌いなのは知っているだろうが!」
「忘れておりました」
「黒きは古き心、赤きは雑なる心」
「雑なる心だと!」
こういうやりとりを僕は見たい。
小道具を上手く使った、これぞプロの仕事だ。オリジナルだ。
決してどこかで見た様な「跳ねっ返りのおなごのくせに!」「元服したての子供のくせに!」ではない。
期待していた江と秀忠のやりとりだが、今後もこんな感じなのかな?
安易な物作りはやめてほしい。
そうなんですか。私は少女マンガは知らないので結構楽しめましたが、勉強のため娘に聞いてみました。
一般に
(1)最悪の出会い→(2)しかし接触の機会は多い→(3)そのため「本命」との恋の悩みを話すようになり、その時に限って彼は優しい→(4)本命との離別・死別→(5)本来の伴侶であることを自覚してゴールイン
というパターンはあるそうです。
江と秀忠の場合、(1)(4)はこの類型に当てはまりそうですが、徳川家の嫡男との間に(2)(3)が成り立ちうるかは疑問ですね。
「不良の彼」という限定をつけたらどうか、と聞いたら、ヒロインが「ほわわん」としたタイプなら成り立つとのこと。「ほわわん」とは何か、と聞いたら「彼が自分にだけ心を開いていることに気づかない鈍感さ」とのことでした。
結局私にはよくわかりませんでした。
ところで秀忠は江より6歳も年下なので、この時期10歳なのだそうです。
例によって10歳の少年役を長身の「ゲゲゲの亭主」が演じているわけですが、この場面、「こましゃっくれた少年」役が上手な子役さんを起用したらもう少し印象が変わっていたようにも思います。
いつもありがとうございます。
少女マンガのことをわざわざ娘さんに確認されて恐縮です。
本当にいい親子関係ですね。
ちなみに、僕は「彼が自分にだけ心を開いていることに気づかない鈍感さ」、わかります(笑)
そうなんですよね、秀忠はこの時、10歳なんですよね。
以前はドラマとして面白ければ、人物の年齢なんて、視聴者は歴史の専門家じゃないんだから、どうでもいいと考えていたのですが、やはり子役を使って描いた方が、作品に説得力や重みが出ますよね。
おっしゃるとおり、今回のせりふを子役が言ったのなら、全然意味が違っていた。少女マンガに見えなかった。
まあ、田渕さんが狙っているのは、重厚なドラマではなく、マンガチック軽いものなんでしょうけどね。
しかし考えてみれば、少女マンガに限らずどのようなジャンルでも先行する物語は無数にあるわけですから、類型的ではない物語など存在しない気がします。
むしろ問題の本質は「類型性」ではなく「安っぽさ」だろうと思います。
本作が「安っぽい」とすれば、やはり大人に子供の役を演じさせている無理こそがその元凶だと私は考えます。
その証拠に、コウジさんがほめていらっしゃる場面、たとえば今回の秀吉と利休とのやりとり、茶々とおねとがすれ違う場面、あるいは秀吉に対する恋心に目覚めてゆく茶々の表情などは、すべて「大人のドラマ」、すなわち役年齢が大人の場面で発揮される俳優さんの演技力や、小道具の含蓄を活かした技の冴えでした。
これに対して役年齢が子供の場合、まず、子供っぽく演じなければならないという制約のためにその役者さんが持つ自然の持ち味を発揮すること自体封じられてしまいます。しかもそこには所詮無理があるので「下手糞」感までつきまとってしまいます。これが「安っぽさ」の真の原因であるように思います。
なぜ本作では秀吉を「スケベ親父」にしか描かなかったのか、否、描けなかったのか、という問いへの答えもここから理解できるように思います。
これは「茶々の恋」のあたりで実際に起こったことですが、秀吉を少しでもまともに描くと、視聴者の共感は主人公である江から離れて、秀吉・茶々側に移ってしまうからです。少なくとも、江は「男女の機微がまだ分からない子供」として置いてきぼりにならざるを得ません。
しかし、むしろこれを逆手に取るべきだったと思います。つまり、「男女関係について頑ななまでに潔癖な思春期の娘」というモチーフを主題化するわけです。もっと「まともな」秀吉と茶々との関係が進む一方で、江は思春期真っ只中で反発する、といった具合に。
ただしそのためには、まさにそうした雰囲気に満ちた中学生位の子役さんを使うべきでした。そうすれば「夜の営み」の教科書を見て卒倒するというエピソードも活きてきたと思います。24歳の上野さんではやはり不自然だからマンガになってしまったわけです。
田渕さんは上野さんに「貴方しか考えられないの」と言ったそうですが、無論「のだめ」イメージあってのことでしょう。しかし、上野さんは「子供のような心の大学生」を演じて成功したとしても、本当の子供を演じることはできません。思春期の娘を演じることにすら無理があります。その点を田渕さんは勘違いしていたのでしょう。
問題の根本は、田渕さんはじめ製作側が「子供」という存在の意味の豊かさを侮っていた点にあると思います。6歳児には6歳児の可愛さがあり、思春期はまさに「疾風怒濤」の時期です。大人が「幼稚に」演じて何とかなるものでは断じてありません。
ですから、信長と絡む時期の江にはたとえば茶々の幼少時を演じた芦田愛菜ちゃんを起用し、好色秀吉と対峙する時期には上述のような中学生という具合に、2段階の子役を使うべきでした。
以上のように考えますので、私は秀忠も含め主要人物の役年齢が皆大人になれば、自然にある程度「まともな」ドラマになってゆくのではないか、と予想しています。
ただし、今までのダメージが大きすぎましたね。
長文申し訳ありません。日頃気になっていたことを一気に吐き出たせていただきました。
なるほど!です。
江の幼少期には、芦田愛菜ちゃんの様な子役。
秀吉と茶々の時には、思春期の中学生の役者さん。
映像が浮かんできて、世界にすんなり入って行けました。
そうですよね。その年齢にはその年齢でしか演じられないものがある。上野さんがどんなに優秀な女優さんでも、10歳の子供は演じられませんよね。
実際、先週の週刊文春だったと思いますが、上野さんが役に入りきれなくて、演出家と口論したという記事が載っていましたし。
僕は最近、週刊誌の記事を読んだこともあり、田渕久美子という脚本家に不信を抱いています。
TEPOさんが書いていらっしゃった
>田渕さんは上野さんに「貴方しか考えられないの」
という件も、キャスティングにまで口を出す脚本家の傲慢を感じます。
演出、プロデュース側も田渕さんに物を言えないのではないかとも。
類型的。
確かにおっしゃるとおり、すべての物語は過去にあった類型の変型だと思うのですが、今回の江と秀忠の関係はあまりにも安易過ぎる。安易にパターンを使い過ぎる。
脚本家には「今までの類型なんかを使わないぞ」という気概をもって、ウンウン苦しんでアイデアを出して欲しいんですよね。(結果として類型になったとしても、苦しんだ結果なら、まだ許せる)
これも田渕さんに対する不信(偏見)からなのですが、作品以外の他のこと(お兄さんとの関係とか)に意識がいっているのではないかと何となく思ってしまうんです。