憲法というのは、権力者の暴走を防ぐものなのだそうだ。
たとえば、現在の憲法の第九条。
これによって、どんなに戦争をしたい権力者が現れても、日本は戦争が出来ない。
だから戦争をしたい権力者は憲法を改正しようとする。
会津藩にとっての憲法は<ご家訓>である。
松平容保(綾乃剛)はこれを頑なに守る。
現在の政治家のように、時勢に合わないから変えようなどとは思わない。
「徳川家がヤバくなってきたから、そろそろ<ご家訓>変えてもいいんじゃねえ」なんてことを言わない(笑)
法に盲従することがいいことか悪いことかはわからない。
歴史の流れによって、是となる時もあれば、非となる時もあるだろう。
しかし、人の考え方や気持ちは、日々どんどん変わっていく。
だから、それを縛る言葉(=法律)が必要だ。
ソクラテスは「悪法も法なり」と語って、法に従い、毒杯を仰いだ。
今回、容保は、西郷頼母(西田敏行)の必死の懇願にもかかわらず、「是非に及ばぬ」と言って<ご家訓>に従う道を選んだ。
ドラマとしては、サンドイッチ形式。
冒頭とラストで、八重(綾瀬はるか)と二葉(市川実日子)の薙刀の試合が描かれる。
冒頭では、八重の勝利。
ラストでは、二葉の勝利。
ラストで二葉が勝利したのは、梶原平馬(池内博之)の妻として<薙刀を振って家を守る覚悟>があったから。
この覚悟の違いが勝負の明暗を分けた。
<出陣の覚悟>が二葉の薙刀に<魂>を与えた。
上手いドラマ表現だと思う。
どんな描写よりも、二葉の妻としての気持ちが伝わってくる。
鉄砲や砲術のことにしか興味のない八重にも、妻になるとはどういうことかがわかっただろう。
その他の人物としては、佐川官兵衛(中村獅童)。
いがみ合っていた覚馬(西島秀俊)に対して
「頼む、わしの分まで働いてくれ」
うらは、会津が京都守護職になったと知った時に
「有り難いことだけんじょ、やっとこの子が産まれたのに」
それぞれのキャラクターが表現されていて面白い。
特にうら。
彼女にとっては、政治論議よりも、背中の子を育てることや畑仕事の方が大事なのだ。
『八重の桜』が終わって、21時からの『TVタックル』(テレビ朝日)では、<尖閣諸島問題>。
日本維新の会の西村氏などは「中国と戦争をしろ」と熱弁している。
今も昔も男たちは政治好き、戦争好き。
うらが、この議論を見たら、どのように思うだろうか?
たとえば、現在の憲法の第九条。
これによって、どんなに戦争をしたい権力者が現れても、日本は戦争が出来ない。
だから戦争をしたい権力者は憲法を改正しようとする。
会津藩にとっての憲法は<ご家訓>である。
松平容保(綾乃剛)はこれを頑なに守る。
現在の政治家のように、時勢に合わないから変えようなどとは思わない。
「徳川家がヤバくなってきたから、そろそろ<ご家訓>変えてもいいんじゃねえ」なんてことを言わない(笑)
法に盲従することがいいことか悪いことかはわからない。
歴史の流れによって、是となる時もあれば、非となる時もあるだろう。
しかし、人の考え方や気持ちは、日々どんどん変わっていく。
だから、それを縛る言葉(=法律)が必要だ。
ソクラテスは「悪法も法なり」と語って、法に従い、毒杯を仰いだ。
今回、容保は、西郷頼母(西田敏行)の必死の懇願にもかかわらず、「是非に及ばぬ」と言って<ご家訓>に従う道を選んだ。
ドラマとしては、サンドイッチ形式。
冒頭とラストで、八重(綾瀬はるか)と二葉(市川実日子)の薙刀の試合が描かれる。
冒頭では、八重の勝利。
ラストでは、二葉の勝利。
ラストで二葉が勝利したのは、梶原平馬(池内博之)の妻として<薙刀を振って家を守る覚悟>があったから。
この覚悟の違いが勝負の明暗を分けた。
<出陣の覚悟>が二葉の薙刀に<魂>を与えた。
上手いドラマ表現だと思う。
どんな描写よりも、二葉の妻としての気持ちが伝わってくる。
鉄砲や砲術のことにしか興味のない八重にも、妻になるとはどういうことかがわかっただろう。
その他の人物としては、佐川官兵衛(中村獅童)。
いがみ合っていた覚馬(西島秀俊)に対して
「頼む、わしの分まで働いてくれ」
うらは、会津が京都守護職になったと知った時に
「有り難いことだけんじょ、やっとこの子が産まれたのに」
それぞれのキャラクターが表現されていて面白い。
特にうら。
彼女にとっては、政治論議よりも、背中の子を育てることや畑仕事の方が大事なのだ。
『八重の桜』が終わって、21時からの『TVタックル』(テレビ朝日)では、<尖閣諸島問題>。
日本維新の会の西村氏などは「中国と戦争をしろ」と熱弁している。
今も昔も男たちは政治好き、戦争好き。
うらが、この議論を見たら、どのように思うだろうか?
日本人には日本語があり、日本語には階称 (言葉づかい) がある。
「上とみるか、下とみるか」の判断により序列関係 (義理) を作る。
義理が廃ればこの世は闇と考えられている。
日本人は、礼儀正しい。
日本人の礼儀は、序列作法である。
序列なきところには、礼儀なし。
日本人の社会は、序列社会である。
社会の構成員は、神々と下々に分かれている。
天皇は、序列最高位の人である。
天皇の御前では、全ての国民は「わし」でもなく、「わたし」でもなく、「わたくし」である。
価値観を揃えることで、日本人は一体感を得ている。安心感を得ている。
日本語の無い社会では日本人は価値観に迷いを生じ、心身ともに疲れ果てる。
序列社会では、序列判断とその作法により、人を遇する。
礼儀作法により、人々は向上心を掻き立てられている。
学校でも生徒に「身を立て、名をあげ、やよ励め」と歌わせている。
日本人の社会は、向上心により活気を得ている。
その原動力は、序列競争である。そのための試験地獄もある。
序列人間を作るのが、日本人教育の目的である。
教科の内容は、雑学ていどのものでよい。
日本人の学校は、格差を検出するための道具立てである。
だから、日本人は、序列人間となるために日本の学校で修業しなくてはならない。
四年間、大学で遊ぶことも、また序列作りに必要なことである。
生涯の協力も序列協力でなされるからである。
意思薄弱と他力本願を伴う幼児症に罹っていて、序列の外には出られない。
英国も日本も島国であるが、島国根性になるのは日本人だけである。
移民をすれば、序列社会を出なければならない。
外国では、序列判断も序列協力も成り立たず、日本人は本来の力を発揮できない。
それで、さまよえる日系人となり、精神的な不安定さにさいなまれる。
日系人は、移民先で勢力を拡大することもなく、祖国に帰って国の柱となることもない。
我が国の天皇制は、日本人に心の安らぎを与え、仕事に励ましを与える世俗の上下観である。
我々の過去を語ることもなく、行き着く先を示すこともない。
情報格差はいかんともしがたく、京都守護職の話を立ち聞きしても「名誉なこと」との脳天気な反応。
まず、彼女は「男の世界」から置いてきぼりにされてます。
>「有り難いことだけんじょ、やっとこの子が産まれたのに」
今回最も印象的だったのはこのうらの台詞です。「従順の鑑」である筈の彼女の口から恨み言が出たからです。
彼女は表向きのことには一切かかわろうとしないにも関わらず、夫を愛するがゆえに、夫を待ち受ける運命がただならぬことを感じ取っていたのでしょう。
>ラストで二葉が勝利したのは、梶原平馬(池内博之)の妻として<薙刀を振って家を守る覚悟>があったから。
これも同じでしょう。
周囲の友人たちの結婚ブームから取り残された八重は
>妻になるとはどういうことか
がわかっておらず、「女の世界」からも置いてきぼりというわけです。
おそらく作者は意識的に
中央政界>会津>八重
という<時代の流れ>に対する温度差を描いているように思います。
「置いてきぼり」の-裏を返せばのんきで平和な世界に生きる-八重に対して一気に時代の波が襲いかかる、というわけでしょうか。
ところで、容保公の方は予想通り見識が目立ってしまった結果の貧乏くじのようです。
また第一話で張られた<御家訓><諫言><三角関係>の伏線も素直に回収されていました。
容保周辺は「わかりやすく」がモットーなのでしょうね。
綾野さんの好演が光っています。
特に<三角関係>。
容保と照姫との間には男女としての愛情があったことは敏姫を加えた三人共通の秘密だったのでしょうね。
残された容保、照姫はこのことに対する負い目の涙を流します。
末期にあたり敏姫は照姫に容保の後事をを託しますが、一言「姉上として」と付け加えていたのが印象的でした。
また敏姫役の中西美帆さんがひたすら「天真爛漫」な雰囲気を演出していたのが効果的だったように思います。
天皇については、向き合わなくてはならないテーマですよね。
日常生活では意識していなくても、無意識の中では存在していると思いますし、日本人を考える上で避けて通れない。
本日は建国記念日もありますし。
いつもありがとうございます。
>おそらく作者は意識的に、中央政界>会津>八重という<時代の流れ>に対する温度差を描いているように思います。
おっしゃるとおりですね。
この3つの温度差が、この作品の三層構造になっている。
政治関係のことでなく、日常まわりのことで、もう少し八重を活躍させてもいいと思いますが、作者はそれをしませんね。
非常に筆が抑制されている。
それにしても、女性社会に馴染めず、男性社会からは「おなごは関わるな」と言われる八重の心中を察すると、彼女は結構つらいでしょうね。
八重がどのような形で、自分の居場所を見出すか、楽しみです。
三角関係については、照姫とはどのようになって行くんでしょう?
敏姫が
>一言「姉上として」と付け加えていた
ことにはドキリとさせられますね。
しかし、この三角関係の描写についても、非常に抑制の効いた筆。
ちょっと他のことに気を取られていると、見逃してしまう描写ですね。
ただ、惜しむらくは以下のことに少しでも触れてほしかったです。
つまり、徳川も言葉の上では「国家」という言葉を使いますが、「国家」とはあくまでも徳川による、徳川のための、徳川の「国家」ということです。一応、朝廷を立てるふりはしますが、それもあくまでゼスチャー、建前であって、朝廷もまた徳川のための朝廷ですよね。マッ、いわずもがなですが。
コウジさんも仰っているように、御三家はもとより徳川の直系の流れを汲むものはこの発想からなかなか抜け出すことが出来なかった。「是非に及ばず」とは、「当否や善悪をあれこれ論じるまでもなく、そうするしかない。どうしようもない。しかたがない。やむを得ない」とありますが、井伊から誰よりも薫陶を受けていた容保の見識からすれば、心中は察するに余りありますね。
しかし、それにしても慶喜はチープに描かれてますね。あんなもんなんですかね、、、、
たとえそれがどんなに遅れたものであったとしても「国民国家」は、明治新政府を待たなければならなかった。そしてそれがまた遅ればせの「帝国主義国家」へと加速度的に変貌する、、、、そして世界大戦、、、、
民主の惨敗と自民の復権で日本はようやく幕末から現在への本格的な総括の段階に入ったような気がします。否、正確を期せば、そうであって欲しいと心から思っています。
しかしそれにしても韓流ゴリ押しと盲目的な在日擁護にうつつをぬかすメディアの腐敗は実に嘆かわしいというか、あきれ返っています。「首から上」人間にもいろいろありますが、まさに下の下ですね。
今になって徳川家や明治政府を評論するのは至極簡単なことですが、当時の他のアジア・中東諸国に比べればその業績には雲泥の差があります。いや、今日でさえも、、、、
また、いつか、では失礼。
アッ、そうそう「有吉評」は最高でした。
落穂ひろいさんは、フィールドが広いですね。
前回の仏教的物の見方から、今回の国家論・歴史観まで。
また、いつか機会があれば、ぜひお立ち寄り下さい。