太宰治の『斜陽』。
戦後社会で居場所をなくし、朽ち果てていくしかない人たちの物語だ。
主人公のかず子たちの家は華族。
戦後社会では、もはや戦前のような特権階級ではない。
財産を税金で持っていかれ、お屋敷も売った。
かず子の母は生粋の貴族で、スープの飲む時の姿も優雅。
そんな母をかず子はこんなふうに評す。
人と争わず、憎まずうらまず、美しく生きた人。
かず子の弟の直治(なおじ)は貴族である自分を否定するために、
阿片や酒に浸り、母親の愛情を拒んだ「悪漢」「不良」。
しかし根が華族なものだから「悪漢」にも「不良」にもなれず、もがき苦しんでいる。
そんなふたりが戦後社会に遭遇した時、どう対処したか?
かず子の母は自分が滅びゆく存在であることを受け入れ、諦め、病で穏やかに死んでいった。
弟の直治は戦後社会に抗い、たたかい、結局、居場所を見つけられずに自殺した。
受け入れるか、抗うかの違いはあるが、
ふたりとも戦後社会に破れて死んでいったのだ。
では、かず子は戦後社会とどう向き合ったか?
かず子はこう決意する。
『けれども、私は生きて行かなければならないのだ。
私はこれから世間と争って行かなければならないのだ。
ああ、お母さまのように、人と争わず、憎まずうらまず、美しく悲しく生涯を終る事の出来る人は、もうお母さまが最後で、これからの世の中には存在し得ないのではなかろうか。
死んで行くひとは美しい。
生きるという事。生き残るという事。それは、たいへん醜くて、血の匂いのする、きたならしい事のような気もする。
けれども、私には、あきらめ切れないものがあるのだ。
あさましくてもよい、私は生き残って、思う事をしとげるために世間と争って行こう。
私のロマンチシズムや感傷が次第に消えて、何か自分が油断のならぬ悪がしこい生きものに変って行くような気分になった。』(新潮文庫版149ページ・一部略)
僕はこのくだりを読むと、毎回心がざわざわする。
・生きるという事は醜くて、血の匂いのする、きたならしい事。
・あさましくてもよい、生き残って世間と争って行こう。
かず子さん、たくましい!
彼女は母親のような諦めも、弟のような自殺も拒んだ。
『斜陽』は太宰治の「生への希求」の作品である。
世の中が汚く見えて、居場所がなくて苦しんでいる人にとって、このかず子の決意は力を与えるだろう。
『生きるという事は醜くて、血の匂いのする、きたならしい事』と認識するだけで、すこしはたくましく生きられる気がする。
戦後社会で居場所をなくし、朽ち果てていくしかない人たちの物語だ。
主人公のかず子たちの家は華族。
戦後社会では、もはや戦前のような特権階級ではない。
財産を税金で持っていかれ、お屋敷も売った。
かず子の母は生粋の貴族で、スープの飲む時の姿も優雅。
そんな母をかず子はこんなふうに評す。
人と争わず、憎まずうらまず、美しく生きた人。
かず子の弟の直治(なおじ)は貴族である自分を否定するために、
阿片や酒に浸り、母親の愛情を拒んだ「悪漢」「不良」。
しかし根が華族なものだから「悪漢」にも「不良」にもなれず、もがき苦しんでいる。
そんなふたりが戦後社会に遭遇した時、どう対処したか?
かず子の母は自分が滅びゆく存在であることを受け入れ、諦め、病で穏やかに死んでいった。
弟の直治は戦後社会に抗い、たたかい、結局、居場所を見つけられずに自殺した。
受け入れるか、抗うかの違いはあるが、
ふたりとも戦後社会に破れて死んでいったのだ。
では、かず子は戦後社会とどう向き合ったか?
かず子はこう決意する。
『けれども、私は生きて行かなければならないのだ。
私はこれから世間と争って行かなければならないのだ。
ああ、お母さまのように、人と争わず、憎まずうらまず、美しく悲しく生涯を終る事の出来る人は、もうお母さまが最後で、これからの世の中には存在し得ないのではなかろうか。
死んで行くひとは美しい。
生きるという事。生き残るという事。それは、たいへん醜くて、血の匂いのする、きたならしい事のような気もする。
けれども、私には、あきらめ切れないものがあるのだ。
あさましくてもよい、私は生き残って、思う事をしとげるために世間と争って行こう。
私のロマンチシズムや感傷が次第に消えて、何か自分が油断のならぬ悪がしこい生きものに変って行くような気分になった。』(新潮文庫版149ページ・一部略)
僕はこのくだりを読むと、毎回心がざわざわする。
・生きるという事は醜くて、血の匂いのする、きたならしい事。
・あさましくてもよい、生き残って世間と争って行こう。
かず子さん、たくましい!
彼女は母親のような諦めも、弟のような自殺も拒んだ。
『斜陽』は太宰治の「生への希求」の作品である。
世の中が汚く見えて、居場所がなくて苦しんでいる人にとって、このかず子の決意は力を与えるだろう。
『生きるという事は醜くて、血の匂いのする、きたならしい事』と認識するだけで、すこしはたくましく生きられる気がする。
オリンピックは断固として開催とおっしゃる方も、生きるためにたくましく開き直っているのかもしれません。もう中止はあり得ないんでしょう。
逆に、オリンピックが原因で(直接的ではないにしろ)、死を受け入れざるを得ない立場に立ってしまう「美しい日本人」がいるのかもしれません。
いつもありがとうございます。
太宰は同じ「斜陽」でこんなことを書いています。
「戦争? 日本の戦争はヤケクソだ。ヤケクソに巻き込まれて死ぬのはイヤ」
「人間は、嘘をつく時には、必ずまじめな顔をしているものである。この頃の指導者たちの、あの、まじめさ、ぷ!」
何か現在のオリンピック関係者を揶揄しているみたいですね。
カネのため、利権のためとはっきり言えばいいのに。
主人公の『醜くて、血の匂いのする、きたならしい事』を引き受けて生きることが、どこに向かうのかは別稿にて書きます。
オリンピックをやりたい人にとっては、オリンピックを「ヤメろ」と言っている人たちこそが「ヤケクソ」で、オリンピック反対論者こそが、生き残りのために「きたならしい行い」に及んでいる、と映っているかもしれません。
いよいよ社会の分断しょうか。
上級国民という言葉が流行りましたが、上流階級の皆さんが生きている日本社会と、庶民が生きている日本社会が、同じ日本の中で、パラレルワールド的に、ズレているのかもしれません。
トランプさんは「アメリカ庶民の不平不満をすくい上げて当選した」と言う人がいますが、日本でも似たような動きが出てくるかもしれません。
まさにパラレルワールドですよね。
先日、アメリカ連邦議会に突入したトランプ信者および日本の信者は「ディープステートと中国共産党に支配されている世界を救うのはトランプだ」と思っているようですし。
本日は「バチカン」が登場!(笑)
先日はデビィ・スカルノの特権意識丸出しの発言「私たちは意識が高いから80人のパーティをしても大丈夫」
「私たちがパーティをして経済をまわさなくてはいけない」
が炎上しました。
森元総理を始めとするオリンピック推進者も、おっしゃるとおり「開き直っている」のではなく、本当に「オリンピックができる」と信じているのかもしれません。
確か森元総理は「神はどうして東京オリンピックに試練を与えるのか」「神に祈るしかない」みたいな発言をしていましたが、こうなると信仰?
こういう時代ですから、僕はさまざまな言葉を集めてみたいと思っています。
歴史学、社会学的には結構面白い時代ですよね。
「斜陽」いいですね。
財産は叔父さんに騙し取られたと解釈してました。
いつもありがとうございます。
漱石の「こころ」の叔父さんは、世間知らずだった先生の財産をだまし取るんですよね。
「斜陽」の叔父さんは、華族の中では世間を知っている実務家で、伊豆の家を手配するなど、かず子たちのフォローをしていました。
なるほど。
そういう解釈も出来るんですね。
確かに叔父さんに騙されていた方が、現実から遠く離れているお母さまを表現するにはいいかもしれませんね。
原作では、かず子や直治が叔父のことをどう考えていたかという描写がないので、ここはさまざまな解釈が出来そうですね。