はなのごと よのつねならば すぐしてし むかしはまたも かへりきなまし
花のごと 世の常ならば 過ぐしてし むかしはまたも かへりきなまし
よみ人知らず
人の世が花のようにいつも変わらないものならば、過ごしてきた昔もまた戻ってくるかもしれないのになぁ。
一つ前の 0097 に続いて、花を「変わらないもの」と捉え、それとの対比で、常に変化してやまず、かつ後戻りして繰り返すことのできない人の人生をはかないものとして歌い上げています。ようやく咲いては短い期間で散ってしまう花にはかなさを見る歌が多い中、この二首は逆の発想ですね。
はるごとに はなのさかりは ありなめど あひみむことは いのちなりけり
春ごとに 花のさかりは ありなめど あひ見むことは 命なりけり
よみ人知らず
春が来るたびに花の盛りは必ずあるだろうけれど、それを見ることができるのは、命あってのものであるよ。
毎年きまって盛りを迎える花の命に比べて、それを見られなくなるときが必ずやってくる人の命のはかなさに思いを馳せる。
みわやまを しかもかくすか はるがすみ ひとにしられぬ はなやさくらむ
三輪山を しかも隠すか 春霞 人に知られぬ 花や咲くらむ
紀貫之
三輪山をそのようにしてまで隠すのか、春霞よ。人に知られていない特別な花でも咲いているのだろうか。
三輪山は大神神社の御神体で、神の山だから人に知られてすらいない特別な花が咲くのかもしれない。春霞がこうもかたくなに山を隠すのはそのためなのだろうかという想い。万葉集にある額田王の歌
みわやまを しかもかくすか くもだにも こころあらなも かくさふべしや
三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや
を踏まえています。「本歌取り」は新古今時代に盛んに行われた手法ですが、貫之の時代にもすでに手法としては存在したのですね。