さくはなは ちくさながらに あだなれど たれかははるを うらみはてたる
咲く花は ちくさながらに あだなれど 誰かは春を うらみはてたる
藤原興風
咲く花はどんな種類のものも必ず散ってしまうけれども、それでも一体誰が春という季節を恨み通すことができようか。
散る花を惜しむ余り、その一瞬は春(晩春)という季節を恨めしく思いもするが、一年が巡ってまた春を迎える時季となれば、誰しもがまた花の咲くのを(したがって春という季節を)待ち望む気持ちになる。
作者の藤原興風は平安時代前期の歌人で三十六歌仙の一人。古今集には17首と多くの歌が入集しています。中でも、百人一首にも採られた 0909 の歌はおなじみですね。
たれをかも しるひとにせむ たかさごの まつもむかしの ともならなくに
誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに
まつひとも こぬものゆゑに うぐひすの なきつるはなを おりてけるかな
待つ人も こぬものゆゑに 鶯の 鳴きつる花を 折りてけるかな
よみ人知らず
待ち人も来ないのに、鶯が鳴いている花の枝を折ってしまった。そんなことをしても、見てくれる人もいないのに。
「ゆゑに」は、現代では「~なので」と順接の意味にしか用いませんが、古語では「~なのに」と逆説の意味もあり、この歌ではどちらで解釈しても意味が通ります(順接に捉えれば、待ち人が来ないからせめて花の枝を折って手元に置き、無聊をなぐさめたという歌になります)。皆さんはどちらだと感じられるでしょうか。
さて、昨年秋から続けてきた一日一首の古今和歌集。ようやく100番までたどりつきました。残り 1,000首 とまだまだ先は長いですが、無理せず急がず続けていきたいと思います。気が向かれた際には、どうぞお付き合いください。
ふくかぜに あつらへつくる ものならば このひともとは よきといはまし
吹く風に あつらへつくる ものならば このひともとは よきと言はまし
よみ人知らず
吹く風に注文をつけられるものなら、花が咲いているこの一本の木のところだけは避けて吹いてくれと言うのになぁ。
「風よ、花のところを避けて吹いてくれ」というフレーズは 0085 にもありましたね。作者は藤原好風。
はるかぜは はなのあたりを よきてふけ こころづからや うつろふとみむ
0085 は、風が吹かなくても花が自らの意思で散っていくのかどうか確かめたいから、というややひねった表現でしたが、どうか花を散らさないでほしいという心情は同じです。