春の暮
いつとなく さくらさけとか をしめども とまらではるの そらにゆくらむ
いつとなく 桜咲けとか 惜しめども とまらで春の 空に行くらむ
春の終わり
いつでも桜に咲いていろと思うためか、春が過ぎ去っていくのを惜しく思うのに、どうして春はとどまることなく空遠く行ってしまうのだろう。
表現上は春が過ぎ去るのを惜しむということですが、気持ちとしてはいつまでの桜に散らずにいてほしいという思いですね。
春の暮
いつとなく さくらさけとか をしめども とまらではるの そらにゆくらむ
いつとなく 桜咲けとか 惜しめども とまらで春の 空に行くらむ
春の終わり
いつでも桜に咲いていろと思うためか、春が過ぎ去っていくのを惜しく思うのに、どうして春はとどまることなく空遠く行ってしまうのだろう。
表現上は春が過ぎ去るのを惜しむということですが、気持ちとしてはいつまでの桜に散らずにいてほしいという思いですね。
古里の花を見る
ふるさとを けふきてみれば あだなれど はなのいろのみ むかしなりけり
古里を 今日来てみれば あだなれど 花の色のみ むかしなりけり
もといたところの花を見る
もといたところに今日来てみると、すぐに散ってしまいそうではあるけれど桜の花だけは昔と同じ色に咲いていたよ。
「ふるさと」は現代語では生まれ故郷のことを指しますが、古典の世界では「もといたところ」「かつて都があったところ」の意もあります。ここでは「もといたところ」と解しましたが、生まれ故郷なのかもしれませんね。
たちねとや いひややらまし しらくもの とふこともなく やどにゐるらむ
立ちねとや いひややらまし 白雲の とふこともなく 宿にゐるらむ
白雲に、飛び立って行けと言ってやろうか。どうしてこちらの思いを聞きもしないで私たちの家にとどまっているのだろう。
第四句「とふ」が「問ふ」と「飛ふ」の掛詞になっています。
詞書が一つ前の 220 と共通ですので、こちらも野辺にいて、遠い山辺の家を見やっている場面の詠歌ですね。
山辺近く住む女どもの、野辺に遠く遊びはなれて、家のかたを見やりたる
のべなるを ひともなしとて わがやどに みねのしらくも おりやゐるらむ
野辺なるを 人もなしとて わが宿に 峰の白雲 おりやゐるらむ
山辺の近くに住む女たちが、遠い野辺で遊んでいて、自分の家の方を見やっているところ
私たちが野辺に来ているので、峰の白雲は山辺にある私たちの家を無人の家と思って、降りてきて居座っているのであろうか。
屏風絵には、遠く山辺にある家も描かれているのでしょうか。野辺に遊ぶ女性たちが、白雲のかかる遠方の山辺を見やっている絵柄ですね。
人の梅の花見るところ
わがやどに ありとみながら むめのはな あはれとおもふに あくときもなし
わが宿に ありと見ながら 梅の花 あはれと思ふに あくときもなし
人が梅の花を見ているところ
私の家に咲く梅の花をしみじみと感慨に耽って眺めていると、ずっとそこにあるのにいつまでも見飽きることがない。
詠んだ思いは異なりますが、自分の家に咲くものなのに桜が散るのをとどめるすべがないと詠んだ 049 の類歌と言えるでしょうか。