「我々ははじめからこの人間界にいたわけではない。せいぜい数十年前に人生という場所にきたのである。それではどこから来たのか、父母から来たといっても答えにならない。その父母はどこからそのまた父母はと無限の時間の系列をさかのぼってもそれは身体をもった生物としての自己の起源を問うているだけである。・・禅の『父母未生以前本来の面目』というのもそういう自己そのものの根源を問うているのである。自己がどこからきた . . . 本文を読む
一 もしも薪がすなわち火であるというのであれば、行為主体と行為とは一体であるということになるであろう。またもしも、「火が薪と異なる」というのであれば、薪を離れても火が有るということになるであろう。
二 また火が薪とは異なったものであるとすると、火は永久に燃えるものであるということになり、燃える原因を持たないものであるということになるだろう。さらに火をつけるために努力することは無意味となってしまう . . . 本文を読む
大師の時代(榊亮三郎)その3
かの法相の本山たる興福寺でありますが、藤原氏の建立した寺があることは、今更申し上ぐる要もありませぬが、最初は、今の山科にあり、山階寺と申しましたが、天武帝の時代に、大和の高市に移りまして、廐阪寺と申し、奈良の奠都と共に、奈良に移つて、興福寺と申すことになつた次第でありますが、其の寺號は、何故に、かく興福寺と云ふに至つたかと云ふことにつきては、私の寡聞によることと思ひま . . . 本文を読む