今日は三島由紀夫が自決して51年目です。当時大学生でしたが三島の主張はなにか耽美主義的でついて行けないと感じていました。しかし自決には大変なショックを受けたことだけは覚えています。今頃になってやっと三島の主張は今日の弛緩しきった日本をすでに予言していたのだと感じるようになってきました。死を以て日本人に覚醒を求めたのです。
三島が市ヶ谷自衛隊のバルコニーで演説したユーチューブ映像を見てみると「・・日本を守るとは天皇を中心とした歴史と文化の伝統を守ることだ・・・」といい、最後に『天皇陛下万歳』を三唱しています。
また昭和41年の「宗教の時間」では三島は「現代人は死の意味を見つけられなくなっている。・・終戦後20年経済は再建されたが精神は再建されてない。・・人は何かの理想の為に死ぬ、それが『大義』である。・・」とも言っています。
これらの言葉はいずれも三島が相当一般人レベルにおとして自分の思想の一部を語ったもので有ろうと思いますが、背景には耽美主義以外にも神道と仏教思想があるように思えてきています。「豊饒の海」は「松枝清顕」の輪廻転生がテーマになっていて、「暁の寺」では「唯識」思想も出てきます。神道・仏教を一緒にして日本人の覚醒と使命といったものを三島はいいたかったのだと思いますが・・。いずれにせよあれから50年、三島の心配のように日本精神も「溶融」「劣化」の一途をたどっています。「憂国忌」を迎えて、超高齢化社会の老人は、せめて最後くらいは酔生夢死から脱して「意義ある死にかた」を検討すべきと、自問自答しています。
猶、
三島自決の昭和45年11月25日には、長女平岡紀子は11歳、長男威一郎は8歳であったと思われます。実際三島は「子供が可愛くなつてくると、男子として、一か八かの決断を下し、命を捨ててかからねばならぬときに、その決断が鈍り、臆病風を吹かせ、卑怯未練な振舞をするやうになるのではないかといふ恐怖がある。そこまで行かなくても、男が自分の主義を守るために、あらゆる妥協を排さねばならぬとき、子供可愛さのために、妥協を余儀なくされることがあるのではないか、といふ恐怖がある。(三島由紀夫「子供について」) といい、実際に昭和45年11月25日の自決の日、三島は車で市ヶ谷駐屯地へ向かう際に学習院初等科校舎近くの手前に一時停車した際に、「俺の子供も現在この時間にここに来て授業をうけている最中なんだよ」と、子供のことを気にかけていたといいます。(ウキぺデア)。
武田泰淳は三島への弔辞で三島は「ニンゲンを理解できなかった」と言ったそうですがこう言う記事を読む限りそんなことはありません。むしろ可愛い盛りの子供達をおいてまで自決して日本を覚性させなければ、という並々ならぬ動機・つまり「日本への愛情」があったと思われます。
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