今日は花園法皇崩御の日
以下ウキぺデア・宸翰英華等に依ります。
花園天皇は第九十五代天皇。延慶元年(1308年)8月25日、大覚寺統の先帝後二条天皇が急死したために翌26日に12歳で践祚、11月16日に即位。在位の前半は父の伏見上皇が、後半は兄の後伏見上皇が院政を布いた。文保2年(1318年)2月、大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)に譲位。
禅に傾倒し宗峰妙超と関山慧玄を師とし、暦応5年(1342年)1月には仁和寺の花園御所を寺に改めて妙心寺を開基している。
貞和四年1348十一月十一日〉、花園萩原殿で崩御。享年五十二歳。
花園法皇著『学道之御記』(宮内庁書陵部蔵)では、その冒頭部で「学問の目的はただ文字を識り、博学になるためのものではなく、本性に達し、道義をおさめ、礼義を知り、状況の変化をわきまえ、過去を知り未来に活用するためのものである」という意味の一文を掲げている。以下宸翰英華の漢文を訓読してみます。
「宸翰學道之御書 一巻(当時は伏見宮蔵、今は宮内庁書陵部蔵)
夫れ學の用たるや、豈に唯だ多く文字を知り、博く古事を記す已(のみ)ならん哉。本性に達し、道義を脩し禮義を識り、変を辨じ往を知り、来るに鑒みる所以也。近年學者の幣多しと雖も大底二患に在り。一は中古以来強識博聞を以て學の本意と為し未だ大中本性の道を知らず。而して適(たまたま)、好學の儔(ともがら)、聖人の道を希ふ者あれども古昔以来帝王の政、変革の風を知ると雖も猶、性に達し情を脩むるの義に達する者疎なり。此の人則ち朝に在りて任用の時、能く政化を練習すと雖も猶,己の行跡に於いて道に違ふ者あり。何ぞ況や末學の輩、只だ博學の名を慕て読書の多少を以て優劣の分と為し、未だ曽って一个
の義理にも未ず。政道に於いて要無く、行跡に於いて過有り。又其の風日の文章を以て宗と為し義理の所在を知らず。是朝臣の員を備ふるに足らず。是素滄尸禄の類なり。此の三者,差異ありと雖も皆これ博學を好むの失なり。今取らざる所也。二は大中の道を明かにし、天性の義を尽くすことを欲し、博聞を好まず、風月を宗とせず、只聖人の道を以て己の學と為す。是則ち本所なり。王左の才なり。學する所は明徳の道也。既に近古の學、軼すぐれて君子の風あり。學の趣く所は此を以て本と為す(欠文)。禍患を免るは何ぞ,則ち萬物の里、天性在るを見る。故に其の志は是大、未だ一々の事、理を具するを見ず。故に其の智不足す。釈典に於いて之を言ふ。則ち事理不融・生佛已隔、是別教の所談なり。劫数を経て成仏すべし。儒教に於いて之を諭す。則ち聖凡は已に異なれり、性教殊れり。俗を御すの道に於いて用ひて足らず。山林に隠れて禽獣を友とす。行跡を正すに足りる者は是隠士の道。儒教に於いて取らざるところ也。若し強て俗人に交わるは則ち嵆裏の濫刑を免れず。慎まざるべからず。志學の輩、深く此の理を省み遠く此の義を察して冀ねがはくは禍難を免る而已。俗を御するに未だ足らざる也。又宗門に於いて之を准す。則ち祖師の提携を蒙る。一分の本性を見、清浄本然の理に於いて惑ふ所無し。然りと雖も問答挨拶に於いて或は擬議あり、是亦見性明了ならざるなり。文学の浅深の事、落葉の微風を待つ(以下欠文)・・」