福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

真言安心勧善義その11

2020-12-12 | 真言安心勧善義

臨終一念のこと

問。臨終の一念は如何申すべきぞや。

答。真言宗は即身成仏の宗旨なれば臨終にて今更、生死得脱往生成仏を論ずべきにあらず。然れども即身成仏に理具、加持、顕得三種の義なきにあらず。(大師の異本「即身義」に「理具」「加持」「顕得」の三種の即身成仏が説かれています。これを真言宗読本(栂尾祥雲)では以下のように解説しています。
・「理具」について「・・(永遠と価値と聖愛と創造とを一体とした)仏陀の生体が事事物物の中に天理として具することを真言宗では理具の仏という」
・「加持」について「・・大師が『佛日の影、衆生の心水に現ずるを加といひ、行者の心水よく佛日を感ずるを持と名く』と説ける如くに「生」そのものとしての仏陀の聖体より放射する霊光は、つねに各々個々の衆生の上に加被し光照しているのであるから、衆生がそれを任持し把握することによってのみ、そこに感応・道交の不思議境を現出することができるのである。
・「顕得」について「・・個体にとらわれることなく、周囲の一切のものと協調して全一を生きるようにし、…自ら聖愛の体現者として、一切を教化し、‥絶えず荘厳世界を創造するようになると、それが顕得の仏である」。)

 

しばらく加持、顕得の二義に約して、古徳別して臨終の大事に授け来たりたまへる印明相伝あり。機宜まちまちなれば是れ、又尤も至極の義なり。しかれば真言宗の輩はもうすに及ばず、いずれの宗旨の輩にても信心帰依の真言師に随って臨終の加持、顕得伝授を遂げて一念決定あるべきこと肝要なり。その印明は平生心身堅固なるときも日々朝暮是を結誦し、つつしみ以って臨終正念を決定あるべし。

このほか臨終正念を決定あるべし。このほか臨終一念あるにあらず。例えそれ秘密の印は相伝の縁なきひとにても、真言阿字の功徳を常に耳にふれし輩は忽ち臨終に至らん時は、一心に阿字を念じ口にも阿阿と唱ふべし。設ひ又余念起こるとも、まったく余念に妨げらるる阿字にはあらず。余念も即ち共に阿字に帰入す。

若し又、阿字を唱ふる力もこれなき時刻に逼るといふとも、自然に阿阿の息の外には人人まったく是なきことなり。是即ち法爾自然の阿字と知るべし。

唯是れ、一阿の功徳に因って頓に生死苦界を離れて直に大日如来の密嚴浄土法界宮に昇進安住しまのあたりに大日如来の摩頂をこうむり、無量の佛菩薩聖衆と共に佛会に列なり、眉をまじへ、肩をうって常恒に無比の法楽を受用し、神通遊戯、真に窮りなきことを得んとおもふべし。

密嚴国土法界宮の荘厳楼閣殿台の嚴麗なること、五色階道、七重欄干、金銀珠玉七宝珍萬宝、善尽くし美尽くし、水鳥樹林皆玉をつらね、皆法音を演べて耳目六根の楽み窮りなきこと、言語筆墨の尽くすべきにあらず。一念の阿字に三大無数劫を超ゆるといへるも、これらの義辺なり。あるいは又、伝授を遂げて一字密言を唱ふべし。

又其れ五字真言( a vi ra hum kham、ア・ビ・ラ・ウン・ケン)、光明真言等を唱へて臨終をなすこと凡て機宜とその人の精力強弱とによるべきなり。超昇証果は同じく大日如来の密嚴国土法界宮なりと知りべし。

おおよそ無量の極楽国土、無量の蓮華、無量の光明、無量の諸仏菩薩、無量の神通功徳等は悉く皆阿字より出生あること、秘密経軌の説相疑ふべからず。(続)


















































































































































































































































































































































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