福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんが先日の江戸33観音東京10社の参拝記録を作ってくださいました。7

2015-08-19 | 開催報告/巡礼記録
死に方について
難しい課題です。高原講元様は、以前、福聚講のブログに、「死に方」に付いて書いておられました(カールベッカー教授が日本人の死に対する心の強さにおどろいている記事があります。)が、この日も話題になりました。死の臨床体験のレポートなどは、アメリカのロス博士の著作で知っていましたが、如何せん、死んだ人の証言ではないので、死の体験は、いまひとつです。高原講元様の経験では、これまで、死ぬ一歩手前の経験をされたそうです。一つは、八十八箇所遍路の時,高知の岩だらけの海岸で、もう一つは、求聞持法修法中の時で、いずれの時も、もうこれまでかと思われたそうです。まだ、私には、こうした、臨死的な経験がありませんので、これから、如何様な死に方がいいのか、大きな課題になります。数多の著作に書かれている「死」の問題に関しては、「死」を考えることは、今生きている「生」を考えることだと言います。兼好法師を、ローマの哲人・セネカを、世の東西を問わずに、異口同音に、「死」に付いて考察するのは、いかに「生」を生きるかである。といっています。「死」は、今、目の前に来ている。背中合わせになっている。ともいわれます。
今年の政府の発表で、日本人の平均寿命が男性80.6歳、女性は、86歳を超えたと言います。確かに、80歳代の人は、珍しくもなんともなくなりました。そして、周囲には、90歳で矍鑠とした人がいる状況です。人生80歳時代の到来を迎えて、当惑する人たちが、大勢いるようです。いわゆる「団塊の世代」の人たちで、60歳で定年を迎え、さらに、もう20年・30年の寿命を生きねばなりません。そして都合の悪いことには、誰も、これから先の生きる経験を持っていないことです。生老病死とはよく言ったもので、確かに人間は、古希70歳になると、あと80歳まで生きると言う目標が出来ます。しかし、80歳になると、、「よし!!90歳まで生きるぞ」と言う感慨はありません。目標の立てようがありません。人間80年生きてくると、体の彼方此方に「がた」がきます。「老」から「病」とは、真実です。体力・気力・健忘なのか認知症なのか、判然としない脳の状態など、確実に、低下しますし、体の衰えを実感します。これまで、人間生活の中で、起きるはずのなかったことが次々起き、こんなはずではなかったと、惨め?な思いをするという、毎日が、「初体験」をするようになります。
そして、一番悲劇なのは、身の回りに、人生の先輩に当たる老年人生経験者がいないということです。昔は、家族の中に、「ご隠居さん」と言われる老年の人がいたのですが、いまは、ほとんどいません。いても、介護施設にいたり、転んで骨を折ったといい病院に入院したまま。明るい建設的な空気はまったくありません。一方、家庭生活では、核家族化が徹底的に進んで、若い世代は、殆どが、親の元を離れています。残るは、老妻とふたりきり。中には、孤老をかこつ人も少なくありません。これが、世界の大国を誇ろうとする日本の社会の現状なのです。
こうした状況の中、「死に方」の前に、まず、「生き方」の問題があるようです。きちんと「生き方」を確実にしてこそ、「死に方」があるようです。老年になつても、苦しみ・悩み・悲しみのいわゆる「苦業」は途絶えることがありません。人間関係の悩み・金銭の苦しみ・病気の悲しみなどきりがありません。従って、現在60歳代で、定年を迎え、後さらに、20年、30年生きねばならない人たちの人生設計は、そう、容易には、出来ないように思います。現代日本の重要な課題であると思います。よく、人生の生き甲斐とか、趣味三昧に生きる、地域社会に溶け込むなどと言われていますが、そう、長続きしないのが実情です。
不幸なことに、日本人には、信仰心があっても、自ら仏道に入って深い信仰生活に入ると言う、積極的な宗教心は持ち合わせていません。これは、個人の問題ではなく、日本の社会精神構造によるもので、宗教心を醸成する機会は殆どなく、世間一般での傾向は、宗教信仰者は、一種の変わり者ののような見方をされるのがオチです。

駄弁を弄してきましたが、最後に「死に方」で一言。まもなく、敗戦記念日を迎えます。この日になるといつも思うのですが、私の小さな終戦経験です。私が、終戦を迎えたのは、満州国四平省(現吉林省)四平街(現四平)の在満国民学校4年の時でした。満州での日本の敗戦は、本土より早く、8月9日でした。突然、ロシア人の大軍が満州に侵攻し、日本人は、なす術もなく、降参するしかありません。道理で、数日前から、日本の関東軍の兵隊さんが、鉄道で、南下してゆきました。四平街に侵入したロシア軍は、無血入城です。もっとも、四平省次長をしていた、私の父が、「日本は負けたのだ。無駄な抵抗は止めよ」とロシア軍への武力の抵抗を禁止したそうです。敗戦とは悲しいもので、昨日まで、親しく遊び友達だつた中国人の小学生(国民学校生)が、いけ高々に「、今日から。俺が大将だ」と怒鳴り込んできました。町には、ロシア人が闊歩しており、日本人の女性は、髪を刈り上げ、皆、男装をしていました。中国人たちは、これまで受けた仕打ちとばかり、日本人に、いろんな嫌がらせをしたのですが、戦時の四平省の統治には、親中政策を採っていたので、敗戦時には、混乱も暴動も起こらず、平穏で、他の地方で行われたような日本人に対する、極端な暴行などは、なかったといいます。
父は、まもなく、政治犯として、ロシア軍に抑留されるのですが、その前日、私と、母親を応接間に呼び、父は言ったのです。「もう日本は負けた。俺たちは、もう日本に帰れないかもしれない。もし帰れなかったら、中国人になるしかない。中国人になったら、中国名がいる。今から言うからよく覚えておくように」といって、先ず、自分の名を、名前を作るのだから、大きな景気のよい表現がいいと、「金満家」。次いで、母親(妻)の名を「大福帳」。そして、私に「福禄寿」と命名してくれました。その後、ロシア人、中国人も、人それぞれであり、何が起こるかわからない。もし身の危険を感じたら、敵に辱めを受けるより、これで、自分を撃つて自害しなさいと言つて、実弾の入ったピストルを、母親と私に、壱丁ずつ渡されました。「中国人が欲しがるから、絶対見つからないように注意せよ」といわれ、ピストルの使い方を教わりました。ピストルを持っても、怖いとも、ましてや、死ぬことの恐怖など、感じることはありませんでした。
在満国民学校では、毎朝、天皇陛下と、満州皇帝・溥儀の御真影が飾られている奉安殿に集合し、拝礼し、校長先生の訓辞を受けました。校長から、毎回、「君たちは、天皇陛下の臣民である。一旦、緩急あれば、命を捧げて死すべし」といわれ、この言葉は、脳裏の奥深く刷り込まれました。ですから、私たちは、天皇陛下のためには、命を惜しまず、死ぬのだ。小学4年の頃には、「死に方」を知っていたのです。満映提供の国威昂揚のための戦争映画、「加藤隼戦闘隊」「アツツ島玉砕・山崎大佐」など、凄惨な戦闘映画をいつも見せられていました。子供ながら、やはり、死ぬことは怖いなと、密かに思ったものです。教室では、「修身」の時間に、広瀬中佐、乃木大将、ロシア軍にスパイ活動をして銃殺された二人の日本兵、爆弾三勇士など、「死に方」を次々、習いこんだものでした。ですから、もう、この頃は、もし戦争に行けば、死ぬものだ。死ぬ時は、天皇陛下万歳と叫ぶのだ、ということも覚えこんでいたのです。
四平街では、その後、ロシア軍が引き上げ、国民党軍が占拠していましたが、八路軍(中共軍)と激戦、次に八路軍が、占領しました。この後、二度にわたる戦闘、市街戦があり、四度目に、国民党軍が占領した時、在留日本人に対し退去命令が出され、着の身着のままで、四平街を出て、日本に帰国することが出来ました。
この、中国・国民党軍と八路軍との内戦の時、占領して鎮圧した軍が、その都度、連日市街戦が勃発するから、日本人は、外出しないようにと注意が出されていました。しかし、外出して、流れ弾に当たって亡くなつた人も大勢いました。私たちは、レンガ造りの政府官舎に住んでいましたが、2階の窓越しに市街戦の模様が見えるのです。両軍の兵士が、物陰にかくれ、狙い撃ちしています。撃たれ殺される兵士を何人見たことか。そして、思いだす度に戦慄を感じるのは、私たちの官舎の前に、広大な広場が広がり、そこに、直径2メートル深さ2メートルの穴が、無数に掘られていて、スパイ容疑でつかまったのか支那服を着た中国人が後ろ手に縛られて、4~5人の銃を持った兵士に連行され穴の前まで来ると、銃声一発、銃殺されるのです。これは、両軍の死刑場になっていて、互いに占領した軍が使っていました。とくに、夕方、大輪の太陽が西の地平線に沈んでゆく時、銃声が鳴り、もんどり打ちながら、死んでゆく様は、もう言葉では、言い表すことが出来ないほどです。一瞬静けさが漂い、茜色に染まった大空に、黒い鳥の群れが飛んでゆく様は、物寂しく、凄惨な空気が漂い、殆ど毎日のように人が殺され死んでゆく様を否が応でも見せつけられたものです。
長々、書いてしまいましたが、こうした、「死に方」もあったのです。(原爆や戦争体験の映像さらには東日本大震災の映像を視てまさに我々の住んでいるこの世は地獄だ・・といつもおもいます。しかし一方で一身を犠牲擲って利他行に励んでいる人々も今現在も大勢いることも事実です。我々は(我々の心は)限りなく深い地獄と限りなく高い極楽の両方の世界を同時にもっているのでしょうか・・。十界互具といいます。地獄餓鬼畜生修羅人天声聞縁覚菩薩佛という十界それぞれの世界のなかにまた同じように例えば地獄の中に更に地獄から佛までの世界があるというのです。まさに角田さんの体験は地獄の中の地獄の世界でしたでょう、そしてまた国民党軍が日本人を無事退去させてくれたことは地獄の中の佛の行為であったのかもしれません。講元)(角田記)

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