以前「宗教の時間」で「心はどうしようもないもので常に制御していなければならない」と説かれていました。しかし私は逆に「心は法界である」ということばを思い出しました。これは数学者岡潔の私淑した浄土宗山崎弁栄師の言葉です。
明治時代浄土宗で出家した山崎弁栄上人は「一心法界三昧」を体得したとされます。
弁栄上人は24歳のとき筑波山にこもって米麦そば粉だけで日夜念仏をとなえ、阿弥陀仏の姿を心に思い浮かべ礼拝すること二ヶ月、ついに一心法界三昧を会得したとされます。
弁栄上人の説明によると「一心法界三昧」とはこの宇宙に存在する森羅万象のすべてが自分の心の中にある事を悟ることだといいます。自己と他人の区別、自己と環境、さらに時間と空間の制限を越えた世界、二元性を越えた他者と自己の心が溶け合って一つになったのが法界であり、その法界そのものになったというのです。法界と自己はひとつだから自他の区別はなく、そこには内側も外側も中間もないとされます。
我々がなぜ自他一如になれないかというと自我の観念に深く覆われているからです。今まで自分の外側に見ていた森羅万象が内も外も区別がなくみえるようになれば、すべてがこころにあるがままに映し出され、心は法界であるとわかります。これを大円鏡智といいます。
弁栄上人の言葉です。
『予,かつて華厳の法界観門に由って,一心法界三昧を修す。行住坐臥つねに観心止まず。ある時は行くに天地万物の一切の現象は悉く一心法界の中に隠没し,宇宙を尽くして唯一大観念のみなるを観ず。また一日道灌山に座禅して文殊般若をよみ,心如虚空無所在の文に至って,心虚空界に周遍して,内に非ず,外に非ず,中間にあらず,法界一相に真理を会してのち,心常に法界に一にせるは是非平生の心念とはなれり。之すなわち宗教の信仰に所謂,光明遍照中の自己なり。大円鏡中の自己なりと信ず。』(弁栄上人「無辺光」)
明治時代浄土宗で出家した山崎弁栄上人は「一心法界三昧」を体得したとされます。
弁栄上人は24歳のとき筑波山にこもって米麦そば粉だけで日夜念仏をとなえ、阿弥陀仏の姿を心に思い浮かべ礼拝すること二ヶ月、ついに一心法界三昧を会得したとされます。
弁栄上人の説明によると「一心法界三昧」とはこの宇宙に存在する森羅万象のすべてが自分の心の中にある事を悟ることだといいます。自己と他人の区別、自己と環境、さらに時間と空間の制限を越えた世界、二元性を越えた他者と自己の心が溶け合って一つになったのが法界であり、その法界そのものになったというのです。法界と自己はひとつだから自他の区別はなく、そこには内側も外側も中間もないとされます。
我々がなぜ自他一如になれないかというと自我の観念に深く覆われているからです。今まで自分の外側に見ていた森羅万象が内も外も区別がなくみえるようになれば、すべてがこころにあるがままに映し出され、心は法界であるとわかります。これを大円鏡智といいます。
弁栄上人の言葉です。
『予,かつて華厳の法界観門に由って,一心法界三昧を修す。行住坐臥つねに観心止まず。ある時は行くに天地万物の一切の現象は悉く一心法界の中に隠没し,宇宙を尽くして唯一大観念のみなるを観ず。また一日道灌山に座禅して文殊般若をよみ,心如虚空無所在の文に至って,心虚空界に周遍して,内に非ず,外に非ず,中間にあらず,法界一相に真理を会してのち,心常に法界に一にせるは是非平生の心念とはなれり。之すなわち宗教の信仰に所謂,光明遍照中の自己なり。大円鏡中の自己なりと信ず。』(弁栄上人「無辺光」)