地蔵菩薩三国霊験記 12/14巻の6/6
六、印佛利益の事
古近江國蒲生と申す所に(滋賀県東近江市)京四条東洞院よりくだりて住みける女房あり。心賢くなさけもふかければ國中には名を得たる女人なり。されば夫にをくれて尼となりければ四条の尼公とぞ申し呼びける。徳孤ならず(「論語」里仁)して人皆かしずき侍る。世に隠れ無き地蔵信者なりき。家中の人にも地蔵を信ずる人をばありがたきこととに思て大方の科もゆるし真に罪有るものとなべて云者も言(こと)に地蔵を誓ければ餘念なくぞ許しけるが罪あるものは立所に罰を受けけるこそ真実地蔵の照覧にあずかる行人とぞ見へける。爰に坂の上の伊尹(これよし)とて貧第一の俗ありけるが、彼の俗は此の尼公に由るあると聞きて呼び上て哀れみて目近く召使ひけるに、打挙動(ふるまい)のことがらなんど、なべての田舎人ともをもはれず。尼もいよいよ愛しみてぞありける。されども別して厚恩はなし。傍輩に肩をならべて外に便もなかりける。或時伊尹身の程をつくずくと思ひつつ゛けて宿善の薄き事を哀しみける。されば尼公の年すでに八十にあまりて今明をも知らぬ御壽なれば、今にも閉眼し玉ひなば我が身何とかなりてましと、兎角思煩ける所を佛智や哀れと鑑みたまひてけん、又宿善や開きけん、彼の尼公に知奉んとして折に触れ事に従て高声に名号をとなへ奉る。尼公の目がかりなる所にては佛を礼し心ならず虚信をぞ立てにき。あまりのことに御長一寸ばかりに地蔵の模(すりかたぎ)を求めて虚空に向かって印しありきける。錦の袋に此の印を入れて直垂のくびかみにぞ結い付けたり。有る時尼公見玉ひて、其の方の頸にかけたるは何条見苦しき田舎習かとぞ呵し申さる。伊尹願ふ所の問かなと喜び、されば某幼少のときより地蔵を信じ奉り今にいたるまで片時も身を放し奉らず。奉公のならひにて急ぎ出仕なんどにも忘れまいらせんことを、あさましく思て地蔵の印板を錦に包奉りたる由開きまひらせてぞ見せける。尼公これを手に取りていただきて、尼こそ多年の行者なれども女心のあさましさは是程の古實はなかりけり。尤も年寄なんどの俄かに引き入れにも地蔵を身に持ちたてまつる方便これにしくなし。いしくも巧玉へりと尼も学び奉らんととて小き印板を迎上絹の上にぞむすびつけたり。それよりしてこそ彼の俗も信じなしたてまつり真の信人とぞなりける。浅きより深きに至るの利生とぞ見ける。世の謀もよく直心の人と尼も思入りければ少しき所の代官職を申し付けられき。伊尹の心中にもたしかなる利生と思奉しかばいよいよ信をはげまみける。されば渡世の事もよろしく万事の成敗宜に中りければ尼公も諸方を任せて家中の奉行とぞしられける。人の敬、世のかしずきいつしか引きけへて今は肩を並べる人もなし。然るに何のほどより病をこりて口鼻血を出し或はをそろしき夢を見て汗を出し身の毛も堅ち、なにごとも徒ごとかなと思ひけるほどに、或は明眼の僧に見へて云く、何れかたやすく修して一期長日の行願として当来悪世の苦患を免るべきやと申ければ、沙門仰せけるは凢そさやうの行願に定なし。人にしたがひて人の一期の行とす。此の南閻浮提のならひにて人の一期と申すは一百廿五年を定命とす。万人が中に一人も其の定命をたもつ人なし。されば高祖大師の釋を拝見仕って候に、人生れて一百年すべて解すれば三万餘日との玉へり。此の文のよらば毎日一佛をも供養し奉り、一陀羅尼を唱て日々をこたりなくつとめ玉はば、即ち是一期不断の勤行長日三昧とは申すべし。此の外に更にたやすき修行あるべからずとの玉ひければ、伊尹深く信受したてまつりて行じけるに毎日の行たやすきに似たりといへども、人に仕へし身なれば公事にまぎれ怠り奉りなん所詮一百年の間毎日六躰ずつの地蔵を拝し奉り供養をのべ二世の悉地を祈りたてまつらんこと思ひ立て自身に道場をしつらひ沐浴精進して一百年の内一日に六躰をつもり各々二十一万八十一百八十六躰の地蔵尊を仰ぎ申し奉り、銅の箱に納め奉りて大法会を営み一千の僧を請じ目出度く供養をぞ成じけり。見聞のともがら随喜の涙を催しき。尼公もいよいよたのもしく思入れ玉へば伊尹をよびてありがたき行願かな尼が滅に入りなば此の如くして問玉へ。今よりのちは尼をば母とたのまれよ、又は殿をも子とと思ふべしとて家財資具等の目録を譲りつつ一家を續けるこそ目出度きためしなれ。伊尹がその夜の夢に新造の大浴室にのぞみたり内を身ければ人數多湯に入りける中に日来他に異なる知人あまたをり居て、音々に此へ下りよとぞ請じける。見るに潔湯なりければ悦て入りける。あたりを見ければ湯船銅の釜にて初めは四五間もあらんかと見たりしに廣きこと云ふばかりなし。深きこと身の長さも及びがたし。其の湯次第に熱くなりて白泡たちて涌き出で、骨にとほり悩めり。あまりせんかたなく彼方此方にをよぎまはりて手を挙げ足をあげて上らんとするに便(たより)なし。新造の浴室と見へたりしが鐵の屋にてぞありける。上には黒煙覆ひて月日の光更に無し。なまじひに見知たりし人のありけるは皆古虚しくなりたる人々なり。何も同じく苦に責められ互いに目には見めれども何(いかん)とも云べき間(ひま)なし。やがて奈落に沈むべきと哀れむところにいよいよ熱湯きびしく猛火益々盛なり。爰に僧の一人走り来り玉ひて、あさまし何とて伊尹は其の地獄に入りたるらん。是に取り付け上らんとて御杖をさしをろし玉へばとりつかんとすれば、湯高く湧上がりてぞ巻き入れける。沙門手をのべ玉ひて引き上げ玉ひければ漸く上へぞあがりける。僧の玉はく、汝が貪欲の心をすつべし。欲心は唯猛火の報なり、とて金の皿より水を灌ぎ玉へば、其の湯忽ち消へにけり。沙門今は何事もあるべからず、我が身即ち汝が印し奉る所の二十八万八千躰の地蔵の中の其の一なり。我一躰は汝が信心に應じて功徳成就の身となりて、汝が抜苦の為に此に来たれり。餘の印佛は汝が所作の善真なきにより法界に空しく汝を度するに便なしとて御涙を流し玉ふと思へば夢覚めけり。伊尹彼の夢をつくずくと見て我が一期の行願とてつとめしも自心修行の願にあらず、偏に尼公の心中を謀る方なり、されども一躰の功力にもあずかり奉りて一分の罪をも済はれんとの御事のありがたさよと、いよいよ貴く思入れて亦大清浄を発して真に地蔵をぞ信じ奉りける。去るほどに尼公の年八十に廻り石木ならねばむなしくなりき。存日の約なれば家を續けり。たとひわたくしの信心薄くとも主命をへつらはん事にも其の願をなさば、百分の一つの利生にもあずかりなん。若し口には唱奉らずとても内心に信じ奉らばたしかに哀れみたまふべきなり。されば水底にする墨は波を染むと云へり。彼の伊尹初めは主人を誑かすといへどもつひに積善の主と成り抜群の徳を開く。浅機より深き法淵にいたる悦びの中より幸に入るものなり。凢そ妙法の理は衆生の辛苦を種として華池宝閣の浄土へ入る者か。極悪泥梨の源は凡夫の栄楽を本として、鐵の床猛火の地獄を作るかと見へたり。されば樂昌(さかへる)人は熱焔の中に叫び、法の為に飢悲しむともがらは清涼の蓮の上に遊き。其の味を論ずるに、法理は苦(にが)くしてもとずきがたし。衆罪は甘くして口に受る事やすし。されば経の中に鴆毒(ちんどく)の甘き脣は罪障の重業因なり、何れのともがら是をそむける。忠言の賢言も妙法の貴き教なり。いずれの人か是にしたがへる。拙哉称名のたやすきを嫌ひ、無間の薪となるべし。昇沈は人の心にしたがひ佛と衆生とは唯一心より分れる者なり。蘭奢の香も野鹿の臭き皮に包めり。伊尹が萬寳の豊なる跡を續も貧賤の骨の中よりでたり。萬像塵世に独あれども、一心称名に實あらば地蔵菩薩正に守護し玉ひつひに浄土に往生すべきものなり。印佛の功徳を以て自餘の益しるべし。
地蔵菩薩三国霊験記巻十二終