57番から58番仙遊寺へは2km少しの距離です。 58番仙遊寺のある作礼山へのぼる途中、振り返るとかすかに、瀬戸内海に架かる西瀬戸自動車道がみえます。
58番仙遊寺の参道には、「草木国土悉皆成仏」の石塔がありました。
謡曲「杜若」「西行桜」などで、草木の精が「草木国土悉皆成仏」といいます。(「杜若」には「植えおきし。昔の宿の。かきつばた。色ばかりこそ昔なりけれ。色ばかりこそ昔なりけれ。色ばかりこそ。昔男の名をとめし。花橘の。匂いうつる。あやめの鬘の。色はいづれぞ。似たりや似たり。かきつばた花あやめ。梢に鳴くは。蝉の唐衣の。袖白妙の卯の花の雪の。夜もしらしらと。明くるしののめの。あさ紫の。杜若の。花も悟りの。心ひらけて。すわや今こそ草木国土。すはや今こそ。草木国土。悉皆成仏のみ法を得てこそ。帰りけれ。」とあります。)
東北地方にも多くの草木供養塔があるということです。
この句はもともと大般涅槃経に数え切れないくらいでてくる「悉有仏性」(すべてのものは仏性を有す)等の記述からきたものです。 溪嵐拾葉集に「一。草木成佛ノ事 齋法善惡分別陀羅尼經ニ云。六道ノ衢(ちまた)ニ大樹王立ツ。名ズケテ法圓法界樹トイウ。是ノ主木ハ大毘盧遮那ノ化身也。其樹縱横三千大千世界ヲ迴轉ス。其葉菓ハ普賢文殊ノ化身也。「中陰經」二云ク。「一佛成佛シ法界ヲ觀見スルニ。草木國土悉皆成佛」ト。身ノ長 丈六ナリ。光明遍ク照ラシ悉ク能ク説法ス。其佛皆名ズケテ妙覺如來トイウ」云云。經云。「釋迦如來明星ヲ見ル時、開悟得脱シ依法ノ國土ヲ示隨シテ成佛ス」 」とあります。
「一佛成仏 観見法界 草木国土悉皆成仏」とは道邃(1106~1157?)の『摩訶止観論弘決纂義』巻一に出る「一仏成道、観見法界、草木国土、皆悉成仏」がもっとも古いものと見られているそうです。のちの宝地房証真(~1156~1207~)の『止観私記』にも、さきの溪嵐拾葉集と同じように中陰経に出ているとして「中陰経云、一仏成道、観見法界、草木国土、悉皆成仏、身長丈六、光明遍照、其仏皆名、妙覚如来」とありますが、実際には『中陰経』にはありません。
正法眼蔵(発菩提心)には「釋 牟尼佛言、明星出現時、我と大地有 と、同時に成道す。」とあります。26年5月18日のNHKこころの時間では華厳経の解説を東大名誉教授木村清孝師がされており、この中で教授は「華厳経の一切即一の思想からいえばお釈迦様がお悟りを開かれたときに同時にすべては成仏していたのです。・・」という趣旨のお話をされていました。
大師の「秘蔵記」には「草木非情成仏の義、法身は微細の身にして五大所成なり、虚空もまた五大所成なり、草木もまた五大所成なり(大日如来も、虚空も草木も地水火風という五大でできている、当然みな大日如来なり)」とあります。また「吽字義」(うんじぎ)には「草木すら成仏する、まして有情(うじょう)のわれらにおいておや」とあります。
正岡子規は「草木国土悉皆成仏」と題して「糸瓜さえ佛になるぞおくれるな」と詠みました。 しかし以上の経典等の趣旨からいえば、本来は「糸瓜さえ佛であるぞ目を覚ませ」とでもいうところでしょう。
瞑想は毎日行っているのですが、最近では(26年春は)瞑想したり字輪観を行じていると、自分を感じなくなり、大日如来とも一体であるような気がするようなこともあります。あえて言葉でいえば外界との境目を感じなくなるのです。本来、時空は相即相入されているのですから、草木も自分も仏様も一体なのでしょう。こういう体験をした後は何とも言えない気持ちになります。
58番作礼山仙遊寺は、天智天皇(662~672)の勅願より創建され、本尊は千手観音です。海から上がった竜女が一刀三礼して彫り上げたといわれ、作礼山の名の由来にもなっています。阿坊仙人がここで修行、諸堂の整えた後、ある日忽然と消え、いつの間にか仙人にちなんだ寺の名となったとされます。澄禅「四国遍路日記」には「作礼山、本尊千手観音なり。大師この観音の像を海中より求めさせ給ひ、山を開き安置したまふとなり。二十八部衆二王は湛慶作なり。寺は遊仙寺とて山下にあり」としています。当時は寺の名は逆さだったのでしょうか。場所も今のような山上ではなかったようです。
明治四年に住職宥蓮上人は、それまで寂れていた仙遊寺を再興された上、衆生済度のおもい止みがたく、生きながら土中に埋まって入定されています。最後の入定僧と言われています。境内には入定塚があります。壮絶なご生涯です。
仙遊寺の参道途中には、弘法大師の御加持水があり、この井戸から湧き出た霊水は、多くの村人を諸病から救ったと伝えられます。わたしも通るたびに頂きますが将に甘露水です。
58番仙遊寺の参道には、「草木国土悉皆成仏」の石塔がありました。
謡曲「杜若」「西行桜」などで、草木の精が「草木国土悉皆成仏」といいます。(「杜若」には「植えおきし。昔の宿の。かきつばた。色ばかりこそ昔なりけれ。色ばかりこそ昔なりけれ。色ばかりこそ。昔男の名をとめし。花橘の。匂いうつる。あやめの鬘の。色はいづれぞ。似たりや似たり。かきつばた花あやめ。梢に鳴くは。蝉の唐衣の。袖白妙の卯の花の雪の。夜もしらしらと。明くるしののめの。あさ紫の。杜若の。花も悟りの。心ひらけて。すわや今こそ草木国土。すはや今こそ。草木国土。悉皆成仏のみ法を得てこそ。帰りけれ。」とあります。)
東北地方にも多くの草木供養塔があるということです。
この句はもともと大般涅槃経に数え切れないくらいでてくる「悉有仏性」(すべてのものは仏性を有す)等の記述からきたものです。 溪嵐拾葉集に「一。草木成佛ノ事 齋法善惡分別陀羅尼經ニ云。六道ノ衢(ちまた)ニ大樹王立ツ。名ズケテ法圓法界樹トイウ。是ノ主木ハ大毘盧遮那ノ化身也。其樹縱横三千大千世界ヲ迴轉ス。其葉菓ハ普賢文殊ノ化身也。「中陰經」二云ク。「一佛成佛シ法界ヲ觀見スルニ。草木國土悉皆成佛」ト。身ノ長 丈六ナリ。光明遍ク照ラシ悉ク能ク説法ス。其佛皆名ズケテ妙覺如來トイウ」云云。經云。「釋迦如來明星ヲ見ル時、開悟得脱シ依法ノ國土ヲ示隨シテ成佛ス」 」とあります。
「一佛成仏 観見法界 草木国土悉皆成仏」とは道邃(1106~1157?)の『摩訶止観論弘決纂義』巻一に出る「一仏成道、観見法界、草木国土、皆悉成仏」がもっとも古いものと見られているそうです。のちの宝地房証真(~1156~1207~)の『止観私記』にも、さきの溪嵐拾葉集と同じように中陰経に出ているとして「中陰経云、一仏成道、観見法界、草木国土、悉皆成仏、身長丈六、光明遍照、其仏皆名、妙覚如来」とありますが、実際には『中陰経』にはありません。
正法眼蔵(発菩提心)には「釋 牟尼佛言、明星出現時、我と大地有 と、同時に成道す。」とあります。26年5月18日のNHKこころの時間では華厳経の解説を東大名誉教授木村清孝師がされており、この中で教授は「華厳経の一切即一の思想からいえばお釈迦様がお悟りを開かれたときに同時にすべては成仏していたのです。・・」という趣旨のお話をされていました。
大師の「秘蔵記」には「草木非情成仏の義、法身は微細の身にして五大所成なり、虚空もまた五大所成なり、草木もまた五大所成なり(大日如来も、虚空も草木も地水火風という五大でできている、当然みな大日如来なり)」とあります。また「吽字義」(うんじぎ)には「草木すら成仏する、まして有情(うじょう)のわれらにおいておや」とあります。
正岡子規は「草木国土悉皆成仏」と題して「糸瓜さえ佛になるぞおくれるな」と詠みました。 しかし以上の経典等の趣旨からいえば、本来は「糸瓜さえ佛であるぞ目を覚ませ」とでもいうところでしょう。
瞑想は毎日行っているのですが、最近では(26年春は)瞑想したり字輪観を行じていると、自分を感じなくなり、大日如来とも一体であるような気がするようなこともあります。あえて言葉でいえば外界との境目を感じなくなるのです。本来、時空は相即相入されているのですから、草木も自分も仏様も一体なのでしょう。こういう体験をした後は何とも言えない気持ちになります。
58番作礼山仙遊寺は、天智天皇(662~672)の勅願より創建され、本尊は千手観音です。海から上がった竜女が一刀三礼して彫り上げたといわれ、作礼山の名の由来にもなっています。阿坊仙人がここで修行、諸堂の整えた後、ある日忽然と消え、いつの間にか仙人にちなんだ寺の名となったとされます。澄禅「四国遍路日記」には「作礼山、本尊千手観音なり。大師この観音の像を海中より求めさせ給ひ、山を開き安置したまふとなり。二十八部衆二王は湛慶作なり。寺は遊仙寺とて山下にあり」としています。当時は寺の名は逆さだったのでしょうか。場所も今のような山上ではなかったようです。
明治四年に住職宥蓮上人は、それまで寂れていた仙遊寺を再興された上、衆生済度のおもい止みがたく、生きながら土中に埋まって入定されています。最後の入定僧と言われています。境内には入定塚があります。壮絶なご生涯です。
仙遊寺の参道途中には、弘法大師の御加持水があり、この井戸から湧き出た霊水は、多くの村人を諸病から救ったと伝えられます。わたしも通るたびに頂きますが将に甘露水です。