一 修行完成者(如来)は、個人存在の構成要素(五蘊)そのものではなく、構成要素と異なるものでもなく、如来のうちにもろもろの構成要素があるのでもなく、またそれらの構成要素のうちに如来があるのでもなく、如来がそれらの構成要素を所有しているのでもない。ここにいかなる如来があるであろうか。
二 もしももろもろの構成要素を執著して取ってブッダが成立しているのであるならば、ブッダはそれ自身としては存在しない。それ自身として存在するのではないものが、どうして他のものとして存在するであろうか。
三 他のものであることに依存して生ずるものは、無我(アナートマン)であるということが成り立つ。無我であるものがどうして如来でありえようか。
四 もしもそれ自体で存在しないならば、どうして他のものがありえようか。それ自体と他のものを離れて、いかなる如来がありえようか。
五 もしも個人存在のもろもろの構成要素を執著して取ることなくしてなんらかの如来があるならば、その如来は今、執著して取るだろう。執著して取ってそこで如来があることになるだろう。
六 個人存在のもろもろの構成要素を執著して取ることがなければ、いかなる如来も存在しない。また執著して取ることもなく、存在しないものが、どうして執著して取ることがあるだろうか。
七 執著して取られなかったものは存在しない。また執著してとるということは、なんら存在しない。そうして執著して取ることのない如来は決して存在しない。
八 【個人存在のもろもろの構成要素についてそれらと】同一であるとか別異であるとか、五種に求めても存在しない如来が、どうして執著して取ることによって仮に表示されるのであろうか。
九 さらに、執著して取るというこのこともまた、それ自体(自性)としては存在しない。そうしてそれ自体として存在しないものがどうして他のものとして存在するだろうか。
一〇 このように執著して取るはたらきも、執著して取る主体も、全く空である。では、空である如来がどうして空なるものによって仮に設けられるのであろうか。
一一 「空である」といってはならない。そうでなければ「空ではない」とか「空であって空ではない」両者であるとか、また両者ではない【空でもなく、不空でもない】というであろう。しかしそれらはいずれも、仮説のために説かれるのである。
一二 この静まった境地(寂静)について、どうして常、無常などの四句が成立するであろうか。またこの静まった境地について、どうして、有限・無限などの四句が成立するであろうか。
一三 しかるに如来は存在するというあつい執著にとらわれている人はニルヴァーナに入った如来についても「如来は存在しない」と考えて妄想する。
一四 しかし如来はそれ自体としては空であるから、この如来については「死後に存在する」とか、あるいは「死後に存在しない」とかいう思索は成立しない。
一五 戯論(形而上学的論議)を超絶し、不壊なる仏をいろいろ戯論する人々は、すべて戯論に害されていて、如来を見ない。
一六 如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質をもたない。この世界もまた本質をもたない。 では真実のブッダとは何であるか。それはわれわれの経験している世界にほかならない。
二 もしももろもろの構成要素を執著して取ってブッダが成立しているのであるならば、ブッダはそれ自身としては存在しない。それ自身として存在するのではないものが、どうして他のものとして存在するであろうか。
三 他のものであることに依存して生ずるものは、無我(アナートマン)であるということが成り立つ。無我であるものがどうして如来でありえようか。
四 もしもそれ自体で存在しないならば、どうして他のものがありえようか。それ自体と他のものを離れて、いかなる如来がありえようか。
五 もしも個人存在のもろもろの構成要素を執著して取ることなくしてなんらかの如来があるならば、その如来は今、執著して取るだろう。執著して取ってそこで如来があることになるだろう。
六 個人存在のもろもろの構成要素を執著して取ることがなければ、いかなる如来も存在しない。また執著して取ることもなく、存在しないものが、どうして執著して取ることがあるだろうか。
七 執著して取られなかったものは存在しない。また執著してとるということは、なんら存在しない。そうして執著して取ることのない如来は決して存在しない。
八 【個人存在のもろもろの構成要素についてそれらと】同一であるとか別異であるとか、五種に求めても存在しない如来が、どうして執著して取ることによって仮に表示されるのであろうか。
九 さらに、執著して取るというこのこともまた、それ自体(自性)としては存在しない。そうしてそれ自体として存在しないものがどうして他のものとして存在するだろうか。
一〇 このように執著して取るはたらきも、執著して取る主体も、全く空である。では、空である如来がどうして空なるものによって仮に設けられるのであろうか。
一一 「空である」といってはならない。そうでなければ「空ではない」とか「空であって空ではない」両者であるとか、また両者ではない【空でもなく、不空でもない】というであろう。しかしそれらはいずれも、仮説のために説かれるのである。
一二 この静まった境地(寂静)について、どうして常、無常などの四句が成立するであろうか。またこの静まった境地について、どうして、有限・無限などの四句が成立するであろうか。
一三 しかるに如来は存在するというあつい執著にとらわれている人はニルヴァーナに入った如来についても「如来は存在しない」と考えて妄想する。
一四 しかし如来はそれ自体としては空であるから、この如来については「死後に存在する」とか、あるいは「死後に存在しない」とかいう思索は成立しない。
一五 戯論(形而上学的論議)を超絶し、不壊なる仏をいろいろ戯論する人々は、すべて戯論に害されていて、如来を見ない。
一六 如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質をもたない。この世界もまた本質をもたない。 では真実のブッダとは何であるか。それはわれわれの経験している世界にほかならない。