福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

国家危機を救う仏教原理「成就衆生浄佛国土」その18

2019-11-02 | 護国仏教
金剛仏子叡尊感身学正記 下(鎌倉時代に真言律宗を開いた叡尊の自伝です。弘安8年(1285年)、85歳の叡尊が東大寺での自誓授戒、戒律復興運動、癩病患者救済活動などをを記しています。鎌倉時代における仏教史料として高く評価されています。)「・・・弘安四年辛巳八十一歳、・・・七月廿二日、参浄住寺、行阿比丘了意房、先立入寺、亦来謁曰、自来廿六日、為脱異国之用害、祈本朝之静謐、発勧請南北二京持斎僧於八幡宮、七日七夜不断唱念尊勝陀羅尼之願、率門徒可参勤云々、(七月廿二日、浄住寺に参る。行阿比丘了意房先立ち入寺す。また来謁して曰く、廿六日より異国之用害を脱する為、本朝之静謐を祈る。南北二京の持斎僧を八幡宮に発勧請し、七日七夜不断に尊勝陀羅尼の願を唱念す。門徒を率いて参勤すべし云々と。)叡尊老衰不堪如然之勤行、於本寺久不共行(叡尊は老衰にて勤行に不堪ず。本寺において不共の行をせんと。)阿又曰、若難参勤、一門僧百人許可令共奉云々、(行阿比丘了意房曰く、若し参勤難ければ一門の僧百人に共奉せしむべし云々。)
仍触同法、令評定云(即ち同法を触れ、評定せしめて云う)趣曰、異国来征事、我朝大事、何事如之、然今年衆僧別人雖致随分之祈請、至誠懇切之心難発、一門僧衆皆参霊所、一味和合不断勤修、尤所庶幾若爾者、設雖不満陀羅尼、参住宿所云々、仍領状畢、即同法等、以飛脚相触諸寺、々々同心、(趣して曰く、異国来征事は我朝の大事なり。何事か之に如かん。然れば今年衆僧別人と雖も、随分の祈請を致す。至誠懇切の心、発しがたし。一門の僧衆皆霊所に参じ、、一味和合不断勤修せんとす。尤も所庶幾若爾者。たとえ陀羅尼満足ならずといえども、宿所に参住云々。仍領状畢。即ち同法等、飛脚をもって諸寺に相触れおのおの同心す)
廿六日、三百余人参八幡宮、亥時発願、陀羅尼間、毎日十二時供養法在(廿六日、三百余人石清水八幡宮に参加、亥時に発願、陀羅尼の間、毎日十二時に供養法在り)

其後、行阿了意房曰、廿九日、比丘布薩者、於便宜所、各々雖被行、卅日梵網布薩者、於大菩薩御前、南北和合被行事所望也云々、(其後、行阿了意房曰く、「廿九日、比丘布薩者は、便宜の所において、各々行ぜられるといえども、卅日梵網布薩者(梵網経に説く菩薩の自覚に立って守るべき十重四十八戒を書いた戒本を誦読すること)は大菩薩の御前にて、南北和合行事所望されるなり云々。」)

自元在家出家和合布薩也、尤可然之旨返答畢、(もとより在家出家和合の布薩であるからもっともしかるべき旨返答しおわんぬ)

仍廿九日、比丘布薩、於便宜所勤行已畢、卅日、将行梵網布薩、大雨降故延引、閏七月一日、南北二京僧五百六十余人、集会宝前、一味和合勤行、(よって廿九日、比丘布薩をし、便宜所勤行おわんぬ、卅日、梵網布薩を行ぜんとす、大雨降る故に延引、閏七月一日、南北二京僧五百六十余人、宝前に集会し、一味和合し勤行す。)

叡尊説戒、々々終、乍恐述懐、即以平城御宇御託宣、訴申戎難、於大菩薩、以東風、吹送兵船於本国、不損来人、焼失所乗之船御云々、即不久大風吹出、雷鳴声発、向西而去、存神諾歟、(叡尊説戒す。説戒終んぬ。おそれながら述懐す、「即ち平城御宇御託宣をもって、戎難を訴え申す。八幡大菩薩においては、東風をもって兵船を本国に吹送されたし。来人を損ずして、所乗之船を焼失されたし云々」。即ち久しからずして大風吹出、雷鳴声発、西にむかって去る。神諾かと存じたてまつる。)

三日初夜、陀羅尼結願畢、四日、奉転読最勝王経百部、仁王経百部、大般若経一部畢、(三日初夜、陀羅尼結願畢りぬ。四日、奉転読最勝王経百部、仁王経百部、大般若経一部畢りぬ。)

夕方、被下院宣、被載自明日可奉転読一切経之旨矣、(夕方、院宣下され、明日より一切経転読の旨載せらる)
五日申時、一切経発願、七日未時、結願畢、八日、諸僧退散、予還于浄住寺、(五日申時、一切経発願、七日未時、結願畢んぬ、八日、諸僧退散、予もまた浄住寺に還る)
九日、民部大夫政康以使者示曰、異国兵船、去一日大風皆破損畢云々、(九日、民部大夫(租税を扱う民部省の幹部)政康使者をもって示して曰、異国の兵船、去一日、大風皆破損おわんぬ云々、)」




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