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・高山寺留錫、(大師四十三歳,弘仁七年,八百十六)・・高山寺(和歌山県田辺市稲成町392 )高山寺のホームページです。「弘仁7年初夏の頃救世の大聖、弘法大師は熊野遍歴の途中田辺に来られた。その頃大師は山獄地帯を開拓して高野山に大霊場を建設中であったが、その多忙な時日をさいて当地に見えられたのである。そして南面山の麓で図らずも異様な服装をした体格の大きな一人の老翁に会われて挨拶を交わされたが、この老翁が南面山勧修学問寺鎮護の稲荷明神であった。明神が申されるに、「昔釈尊が霊鷲山にて御説教なされた会座で、はじめてお目にかかったその勝縁に依り、今生他生とその相は変っても、仏法弘通、衆生済度の誓の変らないことは、まことに尊い極みである。未来いつまでもお互いに相依り相助けて、諸人救済の請願を果しましょう。」と誓われた。仏教をひろめて大衆の救済に協力することを誓約されたと言う、この有名な故事は高野山の古い記録にも残ってあり、宗教界では重視されている事である。明神は後日京に上り守護神となって誓約を果されたという説もある。」
・ 恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町 )大師御伝記に「会津に・・日ならずして大伽藍を建立ましまして、恵日寺と号し、まず丈六の薬師如来、日光月光,十二神将、・・金剛界の曼荼羅、九会の諸尊を安置し、住侶三百人余、さかりに密教をおこなわしめたまふ。・・空海この寺を徳一菩薩に附属したまふ。・・」とあります。
・高山寺留錫、(大師四十三歳,弘仁七年,八百十六)・・高山寺(和歌山県田辺市稲成町392 )高山寺のホームページです。「弘仁7年初夏の頃救世の大聖、弘法大師は熊野遍歴の途中田辺に来られた。その頃大師は山獄地帯を開拓して高野山に大霊場を建設中であったが、その多忙な時日をさいて当地に見えられたのである。そして南面山の麓で図らずも異様な服装をした体格の大きな一人の老翁に会われて挨拶を交わされたが、この老翁が南面山勧修学問寺鎮護の稲荷明神であった。明神が申されるに、「昔釈尊が霊鷲山にて御説教なされた会座で、はじめてお目にかかったその勝縁に依り、今生他生とその相は変っても、仏法弘通、衆生済度の誓の変らないことは、まことに尊い極みである。未来いつまでもお互いに相依り相助けて、諸人救済の請願を果しましょう。」と誓われた。仏教をひろめて大衆の救済に協力することを誓約されたと言う、この有名な故事は高野山の古い記録にも残ってあり、宗教界では重視されている事である。明神は後日京に上り守護神となって誓約を果されたという説もある。」
・ 恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町 )大師御伝記に「会津に・・日ならずして大伽藍を建立ましまして、恵日寺と号し、まず丈六の薬師如来、日光月光,十二神将、・・金剛界の曼荼羅、九会の諸尊を安置し、住侶三百人余、さかりに密教をおこなわしめたまふ。・・空海この寺を徳一菩薩に附属したまふ。・・」とあります。