福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんが先日の秩父順礼の記録を作ってくださいました

2014-11-01 | 開催報告/巡礼記録
秩父三十四観音霊場巡拝記録(5)

福聚講(高原耕昇講元)は10月26日(日)、秩父三十三観音霊場巡拝行を行った。早いもので、今回で、五回目の巡礼となる。午前9時、いつもより1時間早く、西武秩父駅前に集合した。この日は、講員幹部のAさんご夫妻も、久々に参加され、嬉しい気持ちと、賑やかになるので、気分が昂揚する。

天気も、秋晴れの絶好な巡礼日和。ただ、山麓を歩くので、空気が、冷たいのではないかと、用心して、ジャケットなど、少し着込んだ出で立ちで臨んだ。集合時は、ひやりと寒さを感じた。が、出発、この日、一番目の札所に向かう。国道から、建てて間もないような民家の立ち並ぶ間の通りを抜け、15分後に、15番札所に着いた。

寺の庭掃除で、かき集められた枯葉や、木の古枝などが積み重なれて、焚き火が焚かれ、濛濛と霧のように煙が、境内に漂っていた。都会では、もう見られないのどかな光景である。焚き火の煙といい、煙の匂いといい、何ともいえない子供の頃の郷愁をそそられる。

15番札所・母巣山・少林寺。臨済宗建長寺派・御本尊・十一面観世音菩薩。寺の由緒には、不思議な沿革があった。昔、近江賢田の商人が、地元の満尾峠を歩いていたところ、人相の怪しい男数人が、「今年は、近江に疫病をはやらせよう」と画策していた。しかし、定朝作の十一面観音に阻まれて、未遂に終わってしまった。ならば、東国・秩父の地を荒らそうと、企くらんでいることを知った。商人は、さては、彼らは、疫神であると恐れ、定朝作の十一面観音を授かり、仏意の霊験によって、当地に堂宇を建立、観音を祀り、祭つたため、疫難を免れたという。

私たちも、長閑でほのぼのとした焚き火煙と匂いに浴して、心の疫病を払いのけたよう思いがしたものだ。お護摩の煙かもしれない。なんとも言えない「香り」と「匂い」だった。

この寺も苦難の歴史に彩られている。元は、秩父神社の傍にあった蔵福寺という寺だったが、明治維新の時、廃寺になった。このため、少林寺が、札所を受け継いだという。本堂は、入母屋造りで、前は、千鳥破風つきの向拝付して、総体は、白色の漆喰込めで作られている。
境内には、秩父事件で、殉職した、二人の警察官の墓と顕彰慰霊の碑がある。
秩父事件とは、明治17年11月1日、秩父・吉田町の椋神社に、白襷、白鉢巻姿の農民たちが、刀、脇差、火縄銃、竹槍を持って、約三千人が、結集、蜂起した事件である。少し覚えこんでおこう。
別名、国民軍集団といわれ、作戦目標、厳しい軍律を設け、吉田町から小鹿野町に入り、高利貸しを、急襲した。2日には、大宮郷(現秩父市)にはいった。此のとき、国民軍は、約一万人の集団になっていたという。各地区で,戦闘が繰り広げられたが、対抗して、軍隊が出兵し、鎮圧された。しかし、国民軍の一部は、活路を求めて7日には、上州、信州へと敗走、9日には、信州野辺山の戦闘で、軍隊に鎮圧され、解体された。

美しい山に囲まれた平和な里に、こうした多数の農民が蜂起して、「無政の郷」として、天下の耳目を衝動させたエネルギーは、一体どこから生まれたものであろうか。

当時は、農耕地の狭さを、養蚕で補い、生活を立てていた。しかし、生糸相場の暴落や、繭の不出来によって、現金収入の途は、絶たれ農民の中には、夜逃げする者、家屋敷を取られる者が、続出したという。こうした中で、自由民権思想の影響受けた国民軍集団が、組織され、蜂起したのだといわれる。

世間を震撼させた、此の一大蜂起事件は、これまでは、秩父暴動・暴徒・騒動などと呼ばれてきたが、近年、徐々に「秩父事件」としての性格が、掘り起こされ、この呼称が定着しつつある。また、此の寺には、此の戦闘で、殉職した窪田鷹男・青木與市両警部補に対し、当時の内務大臣であった山縣有朋が贈った篆刻の碑文があり、墓石も並んでいた。(大意碑文より)

先月、此の巡礼行で、23番札所・音楽寺に、お参りした時、寺の境内の片隅に、ひっそりと此の、秩父事件の国民軍集団といわれる「無名戦士の墓」という碑があつたのを思い出す。砕いた岩石の表面に刻まれ、「われら、賊匪、暴徒と言われてもよし」と言う趣旨の無念のうちにも、正義の戦いをしたのだという誇りを秘めた小さな石碑だった。
今日の、山縣有朋が顕彰した碑とは、比べ物にならない真対極にあった。

この農民の団結したエネルギーを思う時、我々も、いわゆるバブル経済崩壊前に、安保闘争・大学紛争・国労・動労・全逓などが、団結して、労働者首切り反対のゼネラルストライキなど、大衆を動員した、沸々としたエネルギーに溢れた時があり、大衆行動を経験したものだった。今日の社会情勢を見るにつけ、あの頃の大衆エネルギーは、一体、何処に行ってしまったのか。当時に比べると今は、なんと、感動のない、無気力な、社会に見える。「首切り」をリストラといい、希望退職者の募集と言う。ただ、人々は、黙々と、従順に従っているだけのように見える。エネルギーの爆発の良し悪しはともあれ、爆発力がなく、ただ、おとなしく、諦めに似た従順さで、小言で愚痴をこぼし、鬱勃とした不満を一杯抱える人たちが、目立つて仕様がない。往時の日本人のエネルギー何処へ消えたのだろうか。

御詠歌 「みどり子の ははその森の 蔵福寺 父もろともに 誓いもらすな」

この頃になると、気遣われた外気の寒さは感じなくなり、体全体が、熱くなり、汗が出るようになる。少林寺のすぐ近くに、秩父鉄道の芝桜駅がある。ここから、電車に乗って、影森駅に行く。電車に乗ること3分。影森駅着。

10時30分、26番札所・萬松山・円融寺。(岩井堂)臨済宗建長寺派・御本尊・聖観世音菩薩 石段の上に、長く横に伸びた、鮮やかな白壁をめぐらせた土塀。奥には、横長に伸びた本堂。その規模に目が奪われる。ご本尊は、恵心僧都の手になるという、立像聖観世音で、かつては、岩井堂に安置されていたと言われるが現在は、円融寺本堂に安置されている。岩谷堂は、寺より、南に1.5キロのところに、元久2年(1205年・鎌倉時代)に建立された。周囲は、急峻な岩壁、に覆われ、その中腹に、三間四面の方形造り匂欄をめぐらして唐様の細部をなした堂である。正面の谷間の向けての舞台つくりは、京都・清水寺の舞台を思わせる。

眼下100メートルの谷川から、霊霧が立ち上り、眼前には、武甲山の雄姿を眼前に据える時、補堕落浄土を見る思いがする。岩窟には、昔、弘法大師が、三十七日の秘法を修めたという護摩壇がある。仏国禅師の座禅石。秩父別当武基の玄孫、秩父太郎重弘、その子、重能、重忠らも、同寺に篤い信仰をもつていたという。

境内に、牡丹園があり、「未了の庭」と、同寺住職第28世佳洋住職の揮毫を刻んだ石碑がある。「未了とは未だ完全でないの意味。人間も仏の心に少しでも近づく為に、日々、心を成長させ 一輪の花のように精一杯、今日只今を生きることが大事である。」と。傍らの、赤く色に染まった紅葉に生えて、光っていた。

御詠歌は「尋ね入り むすぶ清水の岩井堂 こころの垢を すすがぬはなし」

お地蔵さんが並んだ民家の石垣を見ながら、幅狭いが、コンクリで舗装された順路道を進む。昭和電工の工場内の敷地に、緑色のペンキで描かれた順路道に従って歩く。工場も、巡礼者の便宜を図って、解放している。工場出口の向かい側に、琴平神社があり、参拝する。杉の木立の小道を進むと、傍らに、顕彰碑が立ち並んである。うち、一つを見る。諸井恒平翁頌徳碑。(略)「郷土の先輩、渋沢栄一先生の感化を受け秩父セメント株式会社創立、初代社長として、大正13年影森村上影森三輪谷から、武甲山の石灰石の採掘を開始し、地域の発展に多大な貢献をなされました。戦後の復興にはセメント需要が増加し増産体制を進め、第二工場、第三工場として、熊谷工場を完成し産業発展に寄与する処多大である。一方秩父開発の大動脈でありました秩父鉄道は、戦後貨物輸送の変動により  倒産に近い状況に立ち至りましたが、石灰石の輸送を受け持ち現存している状況であります。両社共秩父の発展には大きな貢献があったと思われます。諸井恒平翁は、敬神の念厚く生前の遺志により地元の琴平神社に高額の奉納金が納められておりました。」とあつた。いまは、立ち止まって、碑を見る人は、殆どない。栄誉あった人も、時がたつにつれて、忘れ去られてしまうと言う,哀しい運命である。しみじみと、人間の栄誉・名声の儚く、虚しい事実をみる。

さらに歩き進めると、「戦没者の英霊」と刻まれた碑。風雪を凌いできた今にも崩れ落ちそうな小さな神社。「祖霊社」「○○上等兵の墓」「通信隊戦没者の碑」など、戦争で亡くなった御霊を祀る墓が並んでいる。慰霊に、崇める念がなく、無心に手を繋ぎ、はしゃぎ駆け去る若い恋人たちが、異邦人のようにに見えた。

岩井堂は丈高い覆いかぶさるような岸壁の下に朱色に塗られたお堂である。お堂の壁、天井、柱などいたるところに、所狭しと、千人札が貼られている。ここまで、貼り並べられると、壮観とただ、感嘆するだけだ。

ここから先の順路は、難コースだった。僅かに歩ける狭い山道。岩石と、樹木の根が絡み合っている勾配の強い坂道。湿気を含んで滑りそうな道。道というほどのものでない、険しい岩石の道。急勾配の坂、アップダウンの険しい山道。高原講元様が、心配して、とかく遅れがちの私の、後ろに付いて見張りをしていただいている。錫杖まで、貸していただいた。危険と思われる道もあり、生きた心地もしなかった時もあった。ロープを伝ってよじ登る。鉄の鎖にしがみつき、岩壁をけりながらAさんに、抱きかかえ引き上げながらやっと這い上がり、寺の境内に入る。
12時、未だ、登り途中で、頭上の山に、丈高の観音様の立像が立っていた。眼下には、秩父の町の広がりが見えた。絶景だ。こうしてたどり着いたのが、27番札所・龍河山・大淵寺。(月影堂)・曹洞宗・御本尊・聖観世音菩薩。山門脇の掲示板から「縁は切るより 結ぶもの」と喝をいれられる。

大渕寺は、明治・大正と、二度にわたる大火に見舞われ堂宇のすべてを消失したという。その後、本堂観音堂をかねた仮堂として再建された。平成7年、裏山を切り開き、三間四面、方形屋根の観音堂を再建した。

縁起は、昔、行脚僧・宝明が、諸国行脚してめぐっていたとき、この地に、霊境の多いことに打たれ、春秋七年を過ごしたが、思わぬ足の病となり、行住坐臥して念誦するのみとなった。弘法大師が、この地を訪れた時、宝明を愍み,一体の観音像を刻んで、与えたえた。宝明は、悦び吾一人拝するのは、勿体無い。と、里人に伝え、一宇の堂を建て、本尊を祀り、宝明を第一祖にしたと言う。(同寺の縁起より)

こんもりと、樹木の茂った境内。整備された明るく眩しい境内。細かく砕かれた白い石が、砂利代わりに、参道に敷いてある.また、「影森用水跡」がある。安政4年(1857年)当時の上影森村の名主関田宗太郎が、戸数八十二戸の同村に、二か所の井戸があるだけで、飲料水そのほかに困っているのを見て、私財をもつて、三輪谷から、水路を通じて村内に給水した。これによって、上下影森の人々の飲料水の便はもとより、作物を作るにも、非常な恩恵を受けた。
関田氏は、さらに、大宮郷(現地秩父市)への給水を計画、大野原村(現秩父市)萩原佐伝次氏と協力して、万延元年(1860年)橋立川の水を疎水し、沿線の田畑に灌漑し、新田十六町歩の開墾を進め、それらの功が認められ、忍藩より苗字帯刀御免等の名誉を与えられたと言う。(由緒より)

なかなか、いい話である。近頃は、このようなスケールの美談は、なかなか聞けない。秩父のような、都会の汚濁に汚されていない質素で、静かな地域であるからこそ、聞けることである。

御詠歌は「夏山や しげきがもとの露までも こころへだてぬ 月の影森」

高原講元様は、「巡礼は家を出て札所を歩いていると、必ずなにか有難い不思議なことがおこる。四国遍路のときは、毎日がドラマであった。」といわれたが、確かに、その通りである。家の中で、頭の中で、想起、妄想したところで、五感を働かせ、全身で感動することは無い。しかし、一歩外にでると、外側から伝え、触れてくるものが多い。日常、見馴れてなんでもないようなものでも、五感が刺激を受けて、発動し、感覚が敏感になり、頭脳の働きも活発になり、鋭敏になる。小さい草花、小鳥の囀り、往来の人々の動き等々、目に見える事象の背後に、"何か?“を感じる「発見」の連続である。発見から、頭脳に刺激が与えられ、意識活動が活発になってきて、自分の内部に、"何か?”を「再発見」、するようになる。発見する事柄が多くなると、意識活動が、活発になり、事物の現象の背後にあるものが、観想されて来るようだ。西洋美術史研究では、絵画の観照分析のとき、"神は細部に宿る”と言う言葉を使うが、これは、まさしく、われわれの、外に出たときに受ける、外側の刺激が、見馴れた平凡なものでも、新鮮に見える「発見」につながり、"何か?“、に考えが及ぶ。そこに、仏のいのちを見つけることが出来るかもしれない。言葉をもじって、「仏は、常に、何処にでも、遍在している。そして、「おかげ」をみせていただいている筈なのだが。と呟く。

秩父鉄道の単線線路を左手に見て、黙々と、歩き進む。レールが、プラモデルのように、可愛い形に見える。出発して10分、琴平ハイキングコースに沿って進む。途中、茂みの中にある立て札に「猿出没注意」とある。寺に近かずくにつれ背丈数丈もある岸壁が、張り出してきた。

28番札所・石龍山・橋立堂。曹洞宗・御本尊・馬頭観世音菩薩。余談ながら百観音霊場で、馬頭観世音を本尊としているお寺は、西国29番・松尾寺とこの、橋立堂の二ヵ寺だけであると言う。

高さ80メートルの、石灰岩の直立した岸壁の下に岩に食い込むようにして本堂が、建てられている。三間四面、宝形屋根で、江戸中期の建立と言われる。本尊・馬頭観世音は、坐像で、像高28センチと小ぶりだが、漆箔三眼三面六臂の姿は、引き締まり、鎌倉時代の秀作と言われている。馬頭と六臂の一部を日欠いている。

縁日には、近在から、馬を曳いた参詣者で雑踏を極めたと言う。その昔、この地に、惨酷非道で、仏神の信心ない領主が、領地を見回っているとき、銅で鋳造した地蔵菩薩像を崇敬していた里人を見て、領主は、仏神のご利益あるものかと、銅像を打ち壊し、銅を売って金にして、費やしてしまった。領主は、たちどころにして病に倒れ、挙句、死んでしまった。また、その子孫も、皆、跡形もなく消えてしまったと言う。

まもなく、大蛇が出現、里人たちの憂いのもとになつた。里人は、一心に橋本堂で祈願していたところ、何処からか、白馬が現れ、心地よげに走り回つていた。大蛇は、この馬を、一のみに飲み込もうとしたところ、白馬の額から光明が発せられ、大蛇は、人間の言葉で、「吾、先に死んだ領主である。たった今、仏知にひかれた得脱を得た。吾、この姿を末代にとどめて衆生の信心を励まさん」といい、池の中から出ると、金鱗変じて、石となり、白馬は、本尊の御帳に走りはいったという。(同寺縁起より)

縁起の説話は、面白いもので、単純素朴なストーリーであるけれども、当時の人たちの悩み、苦しみを神仏に、真剣に訴え、全身全霊で、祈り、助けを求める様が、読み取れる。勧善懲悪、祈りは、必ず聞き取られるという信念が、見て取れる。

御詠歌は「霧の海 たちかさなるは雲の波 たぐいあらじと わたる橋立」

急峻な岩石に突き刺さるように立てられた橋立寺に別れを告げる。奇岩の前に屹立する杉並木。見飽きることのない光景だ。
アスフアルト車道脇に、白石の小砂利を敷いた遊歩道を進み、墓地の中を過ぎ渓谷の音を耳にしながら、山の中腹に出たようだ。大きな浦山ダムが、目の辺りに見え、花御堂橋という鉄橋を渡る。透き通るような川水が流れる浦山川を過ぎ、14時10分、長泉院に着く。

29番札所・笹戸山・長泉院。(石札堂)・曹洞宗・御本尊・聖観世音菩薩。
元正天皇(715~23)の頃、山麓の淵から不思議な灯が漏れていた。そこへ十余人の僧が来て、小笹の茂る岩屋の中から聖観世音像を見つけ出し堂宇を建てて安置した。堂宇は、その後、何度も火災に遭い消失した。もとは、岩山の崖の下にあったが、場所を移して、天保4年(1833年)に立てられたものである。

広い境内、白砂の石庭があり、大きな本堂は、二層階になっていて、一層は、色鮮やかな垂幕が張られ、二層壁には、所狭しと、千人札が貼られ、歴史の古さを思わされた。

この日の我々の勤行では、殆どの堂宇は、境内に上がって正座して、お勤めが出来ないため、本堂前の地面に敷物を敷いて、正座して、行った。この方式も、前回に続き二回目になったので、すっかり身についた感がする。やはり、読経は、正座してこそ、腹が落ち着き、気合が入るのだと思う。岩山の山麓に位置する寺とあって、白石の砂利が敷き詰められた庭に、形の面白い岩石が、配置されていて京都・竜安寺の石庭を思わせた。竜安寺と違って、人懐こく寛容な雰囲気を持っていた。

御詠歌は「わけのぼり むすぶ笹の戸おしひらき 佛をおがむ 身こそたのもし」

武甲山を左に見て、参道を歩き、浦山・久那橋を渡り、平地に出て、大根が、首を出している大きな畑を過ぎ、15時10分、久昌寺に着く。

25番札所・岩谷山・久昌寺。(御手判寺)・曹洞宗・御本尊 聖観世音菩薩
通称、御手判寺という。由来は、播州書写山の性空上人が、秩父を巡拝していた時、閻魔大王から贈られた石の手判を、同寺におさめた。これにちなんで
御手判寺とも言われるようになったという。
本堂は、三間四面、表流れの向拝をふした方形造りで、堂内には、宮殿形の厨子が置かれている。

昔、上ノ山奥野に、心荒く欲深で父母親類縁者にも、疎み捨てられていた女がいた。女は、山に篭って悪行を重ねたため、村人は、思い余って、女を、荒川に投げ込んだが、一命を取り留め、久那の岩屋に住み着いた。女は、懐胎の身だったが、鬼女のように振る舞い、里人に恐れられていたが、女の子を出産した。子供は、母親に似ず美しい心と神仏を尊び、成人してから、母の菩提を弔うため、村人の助けを借り,旅僧が持っていた観音像を祭るため、観音堂の建立を発願。行基菩薩の手になる観音像を安置して、宿願を成就したという。これが、同寺の草創である。(同寺の縁起より)

小高い丘の上にあり、大きな池がある。睡蓮が浮かんでいて、可愛い桃白の花を開かせていた。本堂の通路の床に、敷物を敷いて、正座。読経する。この日、高原講元様は、参加したメンバーの朱印帳を、全員分を纏めて預かり、納経所で、御朱印をいただく下働きをしてくださっていた。この日は、天気良く、日曜日とあつて、巡拝した何処の寺院も、御朱印を戴く人の行列が出来ていた。ここ,久昌寺は、本堂と納経所が、遠く離れていて、便宜が悪い。しかも、長い行列が出来ていた。このため、高原講元様は、我々のお勤めの導師が出来ず仕舞いであつた。申し訳ないことであった。

広い境内の広い庭。大きな池。小高い丘の上に作られた堂宇。小高い山の緑。大池の睡蓮の花。境内にところ狭しと咲き誇っている草花。極楽・密厳浄土のよう。

縁起によると、この寺に、「石の御手判」という、宝物があるという。760年前、13人の尊者が、秩父の聖地を巡礼されていたとき、25人の菩薩が、大変喜び迎え入れた。尊者たちは、25菩薩に因んでこの寺を25番目の札所と決め、尊者の一人であった性空上人(実は、地蔵様の化身)は、前に冥途に行かれて、多くの罪人を救ったことがあつた。その時、閻魔大王から御礼に戴いたのが、「石の御手判」で、あった。性空上人は、これを同寺に納め、巡礼者に与えるように伝えられてきたという。このため、御手判は、34札所の中で、同寺ただ一つの貴いものです。御手判を受けている人は、何時も、心身守られ、理想の世界に導かれると伝えられている。この上もなく、ありがたい「御印」であるという。

15時50分、帰りのバスは、遅い時間でないという。仕方がないので、徒歩で、秩父鉄道・浦山口駅に行き、帰途に着くことになった。順路道と車の車道が、きちんと分けられている歩道を武甲山を眺め、悠々と流れる荒川を見ながら、30分、浦山口駅に着く。駅で30分近く、電車を待ち、幸い、都内直通電車とあって、この日は、お楽しみの座談会は、棚上げして、帰郷した。
Bさん(女性)は、前橋まで帰るとあって、一人、次の電車待ちとなり浦山口駅でお別れした。

この日の巡拝は、五回目とあって、巡拝行の要領も、少しは、今までより、スムースになっただろうか?自分で、総括してみる。尤も、巡礼行に、上手下手と言う評価はある筈もないのであるが。巡拝行は、まず第一に、自分の足で歩くことが、いいことだ。歩くことは、心身を活性化させ、何より、何にも考えず、何の思いにも煩わされず、ひたすら歩くことに専念する。私の住んでいる住まいの裏に700床の老人病院がある。一人では歩けないご老人が多く、介護師に助けを借りながら歩いているところを良く見る。自分の足で、こうして、巡礼行ができるということこそ、「お蔭さま」です。としみじみ思う。

第二に、心や魂、霊魂、精神などの意識活動が働いていることは、安心して、生きていることの査証だし、いのち、そのものではないだろうか。この日の巡礼行では、神仏が、心の中におられるように思えた。そして、神仏が、いのちだと。
私の、いのちが、身も心も、躍動しているようだ。いのちに、満ち溢れているようだ。そして、この、いのちに迫ることは、「行持」ということを知った。いのちを感得する日が、一日でもあると、「行持」ある日というそうだ。このため、「行持」ある一日は「行持」のない百歳より尊いのだという。

こういうことから、今日という一日は、本当に、有り難い、おかげの、一日だった。こうした、経験をさせて頂いた福聚講に、感謝!!!

番外・

10月29日、高尾山薬王院で、真言宗智山派密厳流遍照講御詠歌の講習会が開催された。同御詠歌の本部の大先生(指導師範流匠)が、来院して、一日講習をしていただいた。御詠歌の指導もさることながら、説話も面白かった。聞いているうちに、これは、御詠歌だけでなく、仏道修行に、ピタリ当てはまるのではないかと、思った次第です。

中島 宥栄師範流匠の説話の一端をご紹介します。

『御詠歌を習っている皆さん。お唱えすることが 楽しくなりましたか。
いや むずかしくて おぼえが悪くて どうしようもありませんよ
そんな声をよく聞きます
 しかし 初めは誰もがそうなのです そんなにいそがずに
ゆっくりいきましょう 一つ一つをていねいに しっかり習いましょう
へんなくせが入ったら なかなかとれなくなります

御詠歌はだんだん むずかしくなりますね
ある程度いくと それからさっぱりすすまない
自分の限界だと あきらめたくなってしまう

そうですね そういうことがあります

 しかし 上達には段階があり 峠をこえて山に登っていくように
上達がめだったときもあれば ほぼ同じときが続くときもあり
その同じようなときが大事で そのことがあるから
上達していくときが来るのです
 いくつもの峠をこえて 自分なりの御詠歌を体得しよう

その人の性格が 御詠歌にあらわれます
せっかちな人は、テンポが早い
のんびりな人は テンポがおそい
おおざっぱな人は あっさりした御詠歌に
わがままな人は 自己流になってしまう
声がいいとか 悪いとか 高いとか 低いとか
声が続くとか 続かないとか
そのようなことでさえ お唱えする心がまえで
大きく違ってくるのです

御詠歌は信心の歌です
祈りがこめられていないと どんなに上手であっても
御詠歌にはならない
御詠歌は歌うのではなく 祈り唱えるのです
御詠歌は聞かせるのではなく 心をふるわす 感動させるのです
御詠歌は誇るのではなく 生きがい 修行するのです

すぐ怒ったり ねたんだり
いじわるしたり さぼったり
そういう気持ちをなおしてこそ 本当の御詠歌が生まれてくる
御詠歌のむずかしさは そこにあるのでしょう

御詠歌には二部合唱がない いつもみんなで 唱えるのです
高い声の人も 低い人も お互いゆずりあって
出しにくさを こらえなければ そろった団体奉詠にならない
声や鈴鉦をそろえるには 先ずお互いに心をそろえないと
いくら練習しても うまくはいかない

 それはいつものおつきあいでも作られていくのです
かげぐちを言ったり のけものにしたり いじわるしたり
そんなことでは 心は一つにならない うまい合唱はむずかしい
御詠歌の人達って うらやましいですね
とても仲がよくて 楽しそうで
いきいきとしていて やさしくて
とても色々なこと学んで 文章も上手になるし
お話しもうまくなって そうなると御詠歌は
ますます上手になり 仏さまからほめられます

御詠歌を通じて 新しい人生が開けていきます
弘法大師さまが 導いて下さっています

あの人は 御詠歌を始めたら
人が変わったよね いい人になったよね

御詠歌の仲間は ますます多くなり
御詠歌の心が 人を家庭を 町や市を よりよくしていくでしょう

                      完』
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