福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

東日本大震災慰霊の巡拝(角田 光一郎)

2012-03-13 | 開催報告/巡礼記録
東日本大震災慰霊の巡拝

千年に一度の大地震、大津波と言われる、東日本大震災。それに、我が国の終戦直前に投下された原子爆弾の恐怖に似た、福島・東電原子力発電所の爆発事故も加わって私たちにふりかつた未曽有の大災害が発生した2011年3月11日午後2時46分から、間もなく一年を迎えようとしています。

福聚講(高原耕昇講元)では、3月4日、宮城県仙台市の深沼海岸地区にあり、東日本大震災の地震と津波で、全滅した荒浜の被災地に赴き、「東日本大震災犠牲殉難者慰霊」の巡拝行を行いました。福聚講は、現在、「東日本大震災受難者慰霊」の巡拝を兼ねて、関東三十六不動霊場を訪ねてお参りをしています。テレビや新聞のメディアは、連日のように、被災地の様子を伝えていて、悲惨極わまる悲しい現実を見せつけられていますが、如何にせん実像ではないので、いま一つ、現実感覚に乏しく、実感がわかず、虚しい思いだけが残っています。

やはり、国難である現実を知り、犠牲者の冥福と、被災した人たちに、心から慰霊し、、励ましの祈りをささげるためには被災地の現場に行って、慰め、励まし、多くの人たちの悲しみや苦しみを共有しなければ、真剣な慰霊が出来ないと考えたのです。

講元の高原耕昇僧正様は、昨年の震災後、いち早く、津波に被災した、荒浜に乗り込んで、地震や津波に遭遇して亡くなつた人たちへお経を唱えお弔いをされた報告を聞きました。荒浜地区は、仙台市の郊外にあり、人口が密集する新興住宅地でした。宮城県立農業高校も、深沼海岸と正反対の仙台市内の高台にあったのですが、この町に引っ越してきました。殷盛を極めていた町だったのですが、この災害で、町の容貌が変容して、今は、荒涼としただだっ広い荒れ地と化し、人の気配もありません。高原講元様が、供養をされた時は、荒浜地区は、民家はすべて押し流され、辛うじて廃校化した小学校の建物だけが残されていた。一帯は、泥沼だったと言います。当時は、関係者以外の人は立ち入り禁止で、高原講元様は、僧衣姿でしたので、現場に入ることが許されたそうです。自衛隊、消防隊、警察等が黙々と遺体捜索作業を続けていたといいます。筆者が、戦前、大日本少国民といわれていた時に、毎日、小学校で歌わされた歌、「海ゆかば」を思い出しました。津波で流された「水漬く屍」、地震で、倒壊した家の下敷きになったり、退避する暇もなく死んで行った「草生す屍」。その一人一人の霊魂や、魂魄が、漂い,翔んでいるのでしょう。幸い、私たちが、訪れた時には、瓦礫の山は、取り払われていたことが、唯一の慰めだったのです。

怒涛の波しぶきを上げている深沼海岸を背にして、つい最近、「東日本大震災慰霊之塔」が立てられていました。高原講元様の話では、偶然にも、昨年、殉難死者を弔ったところと同じ場所で、実に、不思議な仏縁を感じたそうです。その慰霊塔の前で、高原講元様は、理趣経など慰霊のお経を上げられ、参加した講員一同、般若心経、光明真言をお唱えしました。今回、参加した、メンバーは、高原講元様以下八人でした。が、いろんな事情や、都合で、参加するにも出来ない人たちが大勢居られます。これらの人たちに代わって私たちが、慰霊之塔の前に立てる感謝、責任感、使命感、代行の念を持って、慰霊の祈祷を捧げました。

この時に、感じたことがありました。それは、高原講元様が、大震災が起きた時、震災の犠牲になった人達は、「代受苦」をうけて、われわれを励ましてくれているのであるとわれわれに諭されたことです。でも、それから、今日まで、震災で亡くなった人が、われわれに代わって「代受苦」を、負っているということが、なかなか、理解が出来ませんでした。どうして、罪のない人が、何故、「代受苦」を背負わなければならないのかと。疑問を持ち続けていました。慰霊の祈祷を捧げている時、突然、天啓のように閃いたのです。今、この、荒浜の街の、空高く、亡くなった人たちの霊魂が飛翔し彷徨っている。それらの人たちは、残らず、仏様になっている。その仏様は、この荒浜の周りを回り、いつの日か、復興する事を祈って居られる。いま生きて、現地に立っているわれわれに、静かな激励のエールを送ってくれている。私たちは、人々の、苦しみ、悩み、悲しみを、我が事のように、思い、共有感情を持つことの大切なことを感得したと思ったのです。

そう思う時、興教大師・覚鑁上人の「密厳院発露懺悔文」で、「われ皆に代わって、尽く懺悔す。さらにまた、その報いを受けしめざれ。」を思い出しました。高野山が荒廃して興隆ままならない時に、只一人、衆生に代わって祈り続け、仏様の、報いは、要りません。という、毅然とした態度。これぞ、「代受苦」を実践する、態度だと思いました。また、考えると、キリスト教のイエスも、人類の贖罪のために十字架にかかって受難刑死したことなど、「代受苦」は、重要な意味を持っていることが解りました。まさに。「一粒の死なづば・・・」であります。

この日の深沼の海は、いつもと変わらず、大きなうねりとともに、逆巻く波の怒涛を挙げて、荒れ狂っていました。昔から、遊泳禁止されている海で、遊泳はできません。しかし、あの日、この海は、10メートルに及ぶ海面の高さに、壁の塊のようになって、陸地に押し寄せてくるところを想像するだけでも、戦慄が走ります。恐怖と、絶望が、錯綜した、地獄絵を、想像するだけでも、気が遠くなります。辛うじて、生き残った、やせ細った松の木林が、無残な姿をさらしていました。前日に降った雪が、銀世界を描いていました。折からの強い風は、祈りをささげている両手の指が、かじ噛むほど冷たく感じられました。

私たちの外に、数組、十人ほどの、参詣者が、花束を持って、弔問に来ていました。慰霊塔の脇には、竹の筒の花いけが立ててあり、真新しい仏花が、沢山供えられて居ていたほか、色紙の千羽鶴も飾られていました。毎日、新聞で報じられている大震災の犠牲者の数、死者15854人。行方不明者3203人[8日現在・警察庁調]。これらの方々が、背負って戴いた「代受苦」をどうして、無視する事が出来るでしょうか。切実な思いを、抱きながら次の巡拝行を進めました。

講員の鈴木様から、手配戴いた、仙台・観光第一交通社の門脇秀俊さんの運転で、西方約40キロ、秋保不動尊のある、秋保に向かいました。午後12時出発し、バイパス道路を走り、震災直後は、道路に亀裂が入って、通行止めだった個所も、流石に復旧していて、午後1時、仙台・秋保の「秋保大滝不動尊」(仙台市太白区秋保町馬場字大滝11)に着きました。雪がうづ高く積もっていましたが、参詣する参道や境内は、きちんと掃き清められていました。

真言宗智山派 滝本山 西光寺 秋保大滝不動尊は、860年、大三世天台座主・円仁・慈覚大師が、山形の山寺立石寺を建てたおり、旅の途中で、秋保大滝の景観にうたれて、不動尊像刻んで安置。これが、秋保大滝不動尊の開基となったと言います。1790年、秋保村深野に、太作という少年がいて、眼病を犯された母親の平癒を願って、不動尊に願掛け参りを続けると、奇蹟的に回復したという。仏心に目覚めた少年は、岳運と名を改め、出家し日本回国修行を果たし「大聖不動明王」と刻んだ石碑を建てた。現在、参道に立っています。その後、出羽・羽黒山荒沢寺に入り、一千日の木食修行を成し遂げ、再び、名前を、知足と改めると不動堂と、不動尊像の建立を発願して、各地を巡錫して、浄財集めて、1825年、完成させた。1828年、知足週尾人は、大滝に投身遷化している。享年40歳。(同寺由来記による)

不動堂に鎮座ましますお不動尊様は、伊達家の鋳物師・津田甚四郎の作と言われ、像高3.3米、火焔の高さ5.1米の巨大な金銅不動明王坐像が奉安されていて、日本一大きい金銅不動明王像と云います。不動堂の前には、お守りお札、縁起物などをたくさん並べた、小さな店がありますが、肝心の売り子が居ません。実におおらかな、のんびりした光景です。自由に誰でも手に取れます。東北の鄙びた山村の中にある古寺。名だたる名刹と言われるような豪華な寺院や、観光目的になって鑑賞の対象になってしまった様な仏像のあるお寺とは違って、素朴で、静謐な、和みのある雰囲気がする寺です。その昔、貧しい村人たちが、生きる苦しみ、悲しみを、ただただ、お不動さまにおすがりして、助けを願う、切羽詰まった救いを祈ったであろう切実さが、煌煌と光っているお不動様の御目が、語っているように思われました。

昔から、東北地方は、「白河以北は、ひとやま、百文」と言われ、中央の人達から蔑げずまれてきました。この、蔑視の言われ方に奮起して、東北地方の人達を、啓蒙し、中央の人が知らない東北人の、誇りや、文化を伝え、東北地方の発展を期して、創刊されたのが、「河北新報」でした。「河北新報」は、今、東北地方を代表する大新聞になっていますが、創刊する動機は、中央の人達から、屈辱を受けた反動からでした。

東北地方の人達の、素朴で寡黙.温和で辛抱強い、余り、人を疑うことをしない人間性は、今なお、受け継がれ、このお不動様で、物を売るために、売り子が番をしていなくても、誰も、盗んで行こうともしない。お参りする人たちを、信じて、気楽に、受け入れることを、象徴する光景でした。この、お寺を、維持するため、決して、裕福でない町民の人達に支えられて、信仰が保たれてきたのだと思います。秋保大滝不動尊は、東北の大都会、仙台市の中にあって、虚栄の渦に巻かれず、ひっそりと、質素に、しかし、しぶとく生き抜く力を持っている古寺であることを思い知らされました。

高原講元様の引導で、般若心経、光明真言、仏説聖不動経などをお唱しました。霊験あらたかな心持になったことは、言うまでもありません。いいですね。こういう古寺の本堂で、お不動様にお祈りすることは、ほのぼのと、安堵の念が湧いてきます。

このお寺の近くに、深山渓谷に囲まれた大瀑布・秋保大滝ガあります。高さ5、5米から落ちる水量は、勇壮そのものです。那智・華厳の滝を凌ぐと言われています。轟々と鳴り渡る音響に、仏の雷を聞く思いがします。蛇足ですが、この滝は、昭和25年全国観光地百選・瀑布の部で、一位となっています。

不動堂から大滝に通ずる長いコンクリートの山道と、滝つぼに至る曲がりくねった、勾配のある階段は、雪解けが凍りついて滑りやすくなっていて、転びやすくなっていました。が、全員無事、往復しました。

午後1時40分、車は、仙台市内に向かいましたが、途中、福聚山 慈眼寺ガありました。この慈眼寺は、秋保大滝不動尊に行く途中、講員の鈴木様が、田んぼの真ん中に建てられてあった、看板に大きな字で、「副聚山 慈眼寺」とあるのを見つけ、「われわれの福聚講と同じ名前ですねえ」と一声あげました。高原講元様も、にんまりです。鈴木様は、続けて、今度は、びっくりしたように、「あっ、大峰山千日回峰行を満行した、塩沼大阿闍梨さまのお寺ですよ」と、お手のものであるiPHONEの検索情報を、伝えていました。高原講元様始め、一同、驚嘆の声をあげました。仏教界のスーパースターだそうです。「そうです、仙台の出身の人ですよ。回りましょう」と、車を運転していた門脇さんが、慈眼寺に案内してくれました。

午後1時50分着。堂々と構えている本堂があり、本堂の裏手に当たるところに、お護摩堂がありました。まだ、新築したばかりの様な、折からの、日光に輝いて見えました。その、お堂の中で、お護摩の、加持祈祷がなされている最中のところに、我われも加わりました。護摩壇を囲むように、お加持を受ける人たちが、大勢、腰かけていました。塩沼亮潤大阿闍梨様が、護摩壇に座し、お護摩の厳修をしています。盛んに、印を結び、合掌し、呪文を唱えておられます。お護摩の後、塩沼師は、法話をされました。余りよく聞き取れなったのですが、法話は、ご自分の親友で、世界一の、歯科の名医がいる。この歯科医は、患者に、治療の痛みを全く感じさせないで、治癒する事を心がけている人で、定評がある。患者たちは、河の一本の流木にすがる思いで、この医者に頼る。殆どの患者は、ちっとも痛みはなかったという。こんなことができるのは、患者の身になって、痛みを知り、また、流木は、只の木ではなく、何かに使える有用な使い方があると、捨てるに及ばず、大切に保存し、流木の何かの意味を見出す。こうした、日頃の絶えざる修錬、訓練が、修業となって、技術の腕を磨く。思うに、修業することは、悟りを開くことである。しかし、修行していることを忘れるくらいにならないと、本当の修行にならない。名医と言われる人は、患者の心を見抜き、いいタイミングで、抜歯など治療をする。それは、こだわりの無い状態になっている。だから、われわれも、物事に、こだわって、修行するのでは、何にもならない。という内容のものに聞こえました。

塩沼氏は、1943年仙台市の生まれで、高校卒業後、一念発起して、吉野山金峯山寺に出家、得度し、1991年、大峯山千日回峰行をはじめ、2007年、満行をなし、大阿闍梨となった。この、大峯山の千日回峰行は、明治年間以降、完遂した人は途絶えていたが、塩沼師は、1300年間に3人目の満行達成者だといいます。

お護摩厳修の後、お堂の外に出てこられた、塩沼師は、高原講元様と親しく会話を交わし、われわれ講員とも談笑。記念写真も気軽に応じて、戴くなど、“最高の一日”となりました。

こうして、慰霊巡礼の巡拝行が終わり、午後2時40分、無時、仙台駅に戻り、解散しました。この日、講員の方々は、東京をたって、午前10時45分仙台駅構内2階のステンドグラス前に集合.同11時、門脇さん運転の、ジャンボタクシーで、新寺小路の、お寺が並ぶ街を経て、約20分。11時15分に荒浜に着きました。約3時間30分の巡拝行でしたが、中身が、ぎっしり詰まつた、“心に残る旅”でした。

この日の、「河北新報」一面の紙面に、「2011年3月11日午後2時46分を永遠に記憶する日にしよう」と呼び掛けていました。そして、社会面のトップ記事に、「おれおれ詐欺、仙台に移動中。皆、注意をせよ」という、東京から悪者が続々移動しているという心ない警告記事が掲載されていました。仙台市の中心街は、被災にあった、荒浜地区とは、打って変ったように、哄笑と“復興特需”にあづかる人々の雑踏で、渦巻き、同じ仙台で、明暗がはっきり分かれていて、街頭や、駅構内に立てられている幟看板の「絆」という、今では、すっかり常套句になった文字が、虚しく思えてなりませんでした。少し、感傷がましくなりました。済みません。(文責 角田)







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