福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

真言教誠義・・9

2018-05-16 | 法話
真言の即身成仏の義

第一に真言の即身成仏の義を論ぜん。
真言の三密の法は上根上智の頓成の機の被るところの教えなれば、聴聞するとも故意に契ひがたきなれば真言行者多きなかに即身成仏を覚るひとは昔両大師の出世の像法千年の内にすら優曇華よりもまれなり。いかにいわんにゃ今は五濁悪世の末法なれば一人もこれあるなし。昼夜学問する者すらしれざるなれば、今在家の人に説ききかすとも耳には入りがたからん。
しかれども真言宗の檀那((真言宗の僧侶)は皆即身成仏の引導を授かるの人なれば(伝法灌頂で即身成仏の印明を授かっているので)、かねて耳に触れおきて当来成仏の種と講談して聴かすなれば誠心を発して懈怠なく諦聞すべし。他宗には大日如来の常恒説法の有るをば夢にもしらざりければ楞伽経の法身説法の文、竜樹菩薩の法身に妙色ある文とをば大唐の法相、三論、天台、華厳の四宗の祖師はみな曲げて了見してしかも法身は無色無形無説と説きて顕教も密教もただ釈尊の説と思ふなり。(真言宗以外は宇宙の根本原理たる法身のことを無色無形無説と説いているのでここからは難の作用も出てこないことになる)

しかるに真言宗には、法身は有色有形有説にして顕教の一切の法は大日如来の説なりと習ふなり。すなわち両部の大日のときたまふ金剛頂経と大日経とに、法爾の経と隨縁の経とこれあり。法爾の経とは無始以来大日如来常に一切衆生の心中にいまして説きたまふ経なり。これは結集して流伝する経にはあらず。隨縁の経とは龍猛菩薩はじめて自心を開きて五輪塔の内にはいって金剛手菩薩より相伝へて閻浮に結集して、三国に流伝したまふ経にして真言宗にはみな伝授して持するところなり。
 凡そ真言の教えは今日われらが自心のほかにあらゆる有情非情金銀財宝等の器界国土の生滅無常の縁起の法は無明煩悩にひかれてまよひたる凡夫が妄に思へるのして、本成の本覚の智を開くときにはかって各々の自心の外の有為生滅無常の有情と非情とには一向にあることなし。釈尊は大日如来の説を伝へて新約の仁王経には「三界は生滅無常なれば安穏のところに非ず。国に何の楽かあらん。有為生滅の法は真実ならず。因縁より生じてしばらくは有れども因縁尽きれば即ち無し。三界六趣に生する者は皆有濾の善悪業の因縁に随って、生ずれば、水中の月の如く、谷の響きの如く、一切皆空にして體はすべて無し。」と説きたまふ。・・
 十方三世の無量無辺の諸仏菩薩はいうにおよばず、十方世界の能居の衆生と所居の国土とそのなかにあらゆる万物はみなこれ一切衆生の自心に本来有って生ぜず滅せず常住にして一塵一法も自心の外の生滅無常因縁生の法は一向にこれなし。(自分の心以外に世界はない)
 今日面々の肉眼に自心の外において五塵六欲の穢土を見出して迷うは凡夫の有様なれば只、面々の自心の中の佛眼をひらけと教ふるを即身成仏といふ(自分の心が世界をつくり出しているのだからこの心を悟らせれば世界が成仏する、是を即身成仏という)。即身とは父母所生の有漏の血肉の身なり。この肉身を捨てずしてついに大覚の位を証ずるを成仏という。
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