福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

還暦求聞持成満の記 その68

2009-12-19 | 還暦求聞持成満の記
8月27日12時半起床雨だがいやな気持ちはしません。雨具をきて出かけます。しかし不思議と明星禮の岩の上にでるとあめは止みます。ただ濃霧で自分の身の周りも立っている岩そのものも見えません。真っ暗な中108禮を終えました。全く何も見えないというのは不思議な感覚です。23座の入堂は4時過ぎでした。行中も豪雨でお堂の屋根を打つ雨の音はものすごい響きです。お堂の裏は山頂まで急斜面です。杉林となっていますがこの雨では土砂崩れがあるかもしれません。副住職も「豪雨のたびにお堂が流されるのではないか、大木が倒れかかるのではないかと心配だ」といっていたのを思い出しました。しかし心配してもここからこの豪雨の中を逃げ出す先もありません。仏様にお任せするほかないとおもうと意外と落ち着きました。仏様の衆生済度のお手伝いのそのまた端の端を担わせていただきます様にとお祈りするとなにか胸を張って行ができる気分になりました。しかし一方ではなにかこんなにスムースに行ができていいのだろうか、もうすこし自分に負荷を課したほうが好いのではないかとも思い、お堂の外廊下の一部などを拭くことにしました。本堂からカンカンと鉦をたたくおとがします。こんな豪雨のなかこんな不便な山寺までおまいりに来る人がいるのです。こんな豪雨は遍路には大敵だなあと思いました。しかしこういうときだからこそお蔭もあるともいえます。
24座のときも豪雨の中本堂から鐘の音が聞こえます。行中に鐘の音が聞こえるのはありがたいものです。特にこういう豪雨のときは全くの孤独と思っているときですからよけいありがたく感じます。行中家族のこともついお願いしてしまいますが家族のことをお願いするときは衆生無辺誓願度とおねがいするよりは真剣になる感じがします。しかし家族のことをかんがえると次に俗世の妄想がつずいてでてきます。凡夫のなせる業で仕方ありません。しかし法界観は何度も修することが出来ました。ただ豪雨の音で瞑想はあまり深まりませでした。行が上滑になっている感じがします。このままなにも得るところもなく50日の行が終わってしまうのではないかという不安な気持ちにもなってきました。千日回峰行者の酒井師は「(人をたすけるといっても)行者は祈ることしかできないからのう」とおっしゃっています。この言葉を通夜堂でみて改めて今度の行は全て人、いきとしいけるものの幸せを祈ることだったんだと思い返しました。普段は考えられないとんでもない願いなのですがこの行この山はそう思わせるなにかがあるのです。
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