「業に苦しむことが業を超越することになる」
如上の所説を今少し他の形で申しますと、次のやうになります。人間である限りは業を離れるわけに行かぬと云ふことは人間は元来業そのものだからです。人間の在るところ、行くところには業は必ず影の形に添ふやうについてきます。併し人間が業を離れ業を越えることの出来るのは亦實に業につきまとわれて居るからです。普通に申しますと吾等は業繋の故に苦しむのでありますが、此の苦しみは却って人間をして人間自身の上に超出せしめんとする霊性的衝動となるのです。キリスト教的にいえば自らを洗い清めて神に近つ゛かしめんとの自省・自督の途に進むことになるのです。ただの理屈の上から云ふと、業繋の事実を意識すると云ふことは、一種の瞑想又は観照以上に出ないもので、それが業繋を超越することにならぬと云はれませう。が、業苦の意識にはそのやうな観照に止まらず、そのうちに動いているものがあるのです。これが業苦の彼岸に在るものと動態的に聯関してゐるのです。業との取組合も本はこのものが後をつついているからです。観照も實はこの衝動の知性面に反映したものと見るべきです。業意識の裏面に此の無自覚の衝動または刺激がないと、人間特有の苦悶・懊悩・憂愁などと云ふものはあり得ないのです。言ひ換えると、人間苦と云ふことは業意識といふことなのです。さうして此の業意識は直ちに業否定に裏付られて居ると云へるのです。此の業否定が業肯定の面に突入してくるので、此処に人間はいつも不安の念に駆られてゐるのです。それ故、業苦の意識はやがて離業苦の途を拓くものだと云ふのです。地獄必定との意識はそのままに浄土往生の約束となるわけです。これが仏教経験の生活あでります、業を苦しむことは業を越えること、業は即ち非業であります。(浄土真宗では業繫を超越することを「横超」といいます。業まみれの凡夫が、凡夫のままで、仏に成ることをいいます。本来は、仏でないのを凡夫といい、凡夫でないのを仏というのですが、ここでは「非仏」が「仏」なのです。まさに大拙のいう即非の論理です。これは阿弥陀様のお力に因るのです。)
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