福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日は後奈良天皇が天下大疫平癒を祈願され心経を写経され全国一宮に納められた日です。

2024-06-17 | 法話

今日は後奈良天皇が天下大疫平癒を祈願され心経を写経され全国一宮に納められた日です。

戦国時代真っただ中の天文九年(1540年)六月十七日です。皇室も困窮されているなかでのことです。

 

 

国宝・重要文化財・後奈良天皇宸翰般若心経〈(参河国

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwil_9Gb8s7tAhWPF6YKHbpMCEcQFjAAegQIAhAC&url=https%3A%2F%2Fbunka.nii.ac.jp%2Fheritages%2Fdetail%2F157931&usg=AOvVaw28CZ357FGfulUKFh2QV_qF

宸翰英華」によると奥書に「ことし天下大疫、万民多く死亡におつ、朕民の父母として、徳覆ふ能はず、 甚だ自ら痛む、ひそかに般若心経一巻を金字に写し義堯僧正をして之を供養せしむ。こひねがはくは、ああ疾病の妙薬となさんことを、時に天文九年六月一七日」とあり、宸翰英華では解説して

「この御願は六十六國全部に及ぼさせられるお考えであったが種々の事情に依って叡慮の実現を拝するに至らず、河内以下二十五箇國分を御書写あらせられ、廷臣・僧侶が所縁を頼って諸国に下向する時、夫々の便宜に委託してこれを下し給うた。その国名と取次の役を務めた人名とを親しく御記し遊ばされたもの。・・以上二十五か国分の中、現在これを拝することができるのは(以下当時の資料)、参河(岩瀬文庫蔵)、甲斐(伊豆山神社蔵)、安房(曼珠院)、越後(上杉伯爵蔵)、周防(国分寺蔵)、肥後(西厳寺蔵)、の七か国分で何れも紺紙金泥で、御奥書にその国名を記されてある。」

とあります。

京都市曼珠院蔵の「(後奈良天皇)宸筆般若心経御目録」には

「心経 國々遣られる内 

河内、傳譽。伊勢、惟房卿。尾張、二條准后。参河、右府。遠江、長淳卿。駿河、宣治朝臣。陸奥、尹豊卿。越前、季遠卿。加賀、白山長吏。但馬、右府。備前、尹豊卿。出雲、二條准后。周防、光康卿。豊前、資将卿。肥前、光康卿。肥後、季遠卿。近江、勧大入道。

天文十四年二月二十一日までは此の分也。

かひの國十八箇國、信乃三條大。越後、勧大入道。かひの國、正ごいん。上野、称名院。下野、勧大。安房、水本僧正、申出。

二十四國申出也。各書也。」とあります。


第百五代・後奈良天皇の時代は戦国時代であり経済的に最も苦労されたといわれますが学識も深く『後奈良院御集』『後奈良院御百首』などの和歌集、日記『天聴集』あります。

なお、史料綜覧巻十 / 天文九年(1540)六月十七日条にも
「十七日 疾疫ノ流布ニ依リ 般若心経ヲ宸写アラセラル 三宝院義尭ヲ召シテ 之ヲ供養セシメ 又不動小法ヲ修シ 其終息ヲ祈ラシメラル」とあり、この心経は三宝院義尭に供養させ、また不動法をも修させていたことがわかります。いかに後奈良天皇が国民のことを心配されていたかわかります。
(この時代、室町幕府は足利義晴。三宝院義尭は醍醐寺三宝院門跡。父は九条政基。
醍醐寺三宝院に住持として入寺し、室町幕府の10代将軍・足利義尹(のち義稙)の猶子となり「義」の一字を与えられた。)

・平成29年・2月23日の皇太子さまの誕生日の記者会見では「・・昨年の8月,私は,愛知県西尾市の岩瀬文庫を訪れた折に,戦国時代の16世紀中頃のことですが,洪水など天候不順による飢饉や疫病の流行に心を痛められた後奈良天皇が,苦しむ人々のために,諸国の神社や寺に奉納するために自ら写経された宸翰般若心経のうちの一巻を拝見する機会に恵まれました。紺色の紙に金泥で書かれた後奈良天皇の般若心経は岩瀬文庫以外にも幾つか残っていますが,そのうちの一つの奥書には「私は民の父母として,徳を行き渡らせることができず,心を痛めている」旨の天皇の思いが記されておりました。災害や疫病の流行に対して,般若心経を写経して奉納された例は,平安時代に疫病の大流行があった折の嵯峨天皇を始め,鎌倉時代の後嵯峨天皇,伏見天皇,南北朝時代の北朝の後光厳天皇,室町時代の後花園天皇,後土御門天皇,後柏原天皇,そして,今お話しした後奈良天皇などが挙げられます。私自身,こうした先人のなさりようを心にとどめ,国民を思い,国民のために祈るとともに,両陛下がまさになさっておられるように,国民に常に寄り添い,人々と共に喜び,共に悲しむ,ということを続けていきたいと思います。私が,この後奈良天皇の宸翰を拝見したのは,8月8日に天皇陛下のおことばを伺う前日でした。時代は異なりますが,図らずも,2日続けて,天皇陛下のお気持ちに触れることができたことに深い感慨を覚えます。・・」とおっしゃり、
・平成天皇は、昭和六十一年五月、皇太子としてこう語られていました。「天皇と国民との関係は、天皇が国民の象徴であるというあり方が、理想的だと思います。天皇は政治を動かす立場にはなく、伝統的に国民と苦楽を共にするという精神的立場に立っています。このことは疫病の流行や飢饉にあたって、民生の安定を祈念する嵯峨天皇以来の写経の精神や、また「朕、民の父母となりて徳覆うこと能わず、甚だ自ら痛む」という後奈良天皇の写経の奥書などによっても表われていると思います」(昭和61年5月26日平成天皇皇太子時代記者会見)
心配なのは歴代陛下のこうい高い御見識と教養に宮内庁の役人のレベルがははるかに及ばないためにこういうお考えをフォローすらできないのではないかという点です。

 

 

 

後奈良天皇宸翰般若心経・三河国

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